第3話

 先日、年の離れた2人が短い会話を交わした場所。そこに今日は、少女を気にかけていた女性だけが姿を現した。


 長い時間が流れ、ただただ1つの影法師が西陽に伸ばされていく。その様子を遠くから伺うもう1つの小さな影が、人知れず見え隠れしていた。女性はその存在に気づくことができずにいるようだったが、それでもその場をけして離れようとはしなかった。

 パンツスーツに身を包む女性は整った顔立ちで、まさに仕事のできる女といった風貌だ。お店もバス停も何もない場所でずっと動かない女性を、通り過ぎる小学生たちは不思議そうに見ていた。彼女を見ながらひそひそと耳打ちする少女たちの姿が、女性の中に様々な感情を呼び覚ます。そのせいか、無意識に彼女は俯いてしまった。


 夕闇の薄暗さが滲み始めた頃、女性はため息をこぼした。体重を預けていたガードパイプから腰を上げその場を去ろうとした時、彼女が待っていた少女が姿を現した。視界の端で少女を捉えた女性の顔に安堵の色が浮かんだ。

 そんな彼女に少女はゆっくりと近づいて行く。彼女が口火を切ろうとしたとき、少女の低い声が静寂を裂いた。

「ずっとそこで待ち構えてなんのつもりですか?」

 少女が女性を睨み問う。そこには明確な敵意が存在した。

「ずっと見てたのに回り道せずにここを通るってことは私にもっと別のことが聞きたいんじゃないの?」

 少女はばつが悪そうに無言で視線を落とした。そしてそのまま歩き出す。まるで今までの会話が無かったかのように。それはまるで女性の存在を完全にないものとしていた。その選択肢を選んだ俯く少女の姿が、女性の目頭に熱を灯した。二人の距離が詰まるにつれて、悲しそうに目を細めた彼女の表情はゆっくりと柔らかで優しいものへと変化する。

「ねえ? 私は別にあなたに説教やお節介をするために待ってたんじゃないのよ?」

 女性の言葉に少女は反応を示さない。

 それまで変わることのなかった少女の歩調だったがすれ違う瞬間、女性の囁きによってその足取は鈍ることとなる。

「私はあなたと友達になりたいの」

 様々な感情が見え隠れする声音は、その中心に確かな温もりを感じる。

 ピタリと止まる少女の足。まるで魔法にかけられたような、時間が止まったような、そんな瞬間だった。

「え?」

 思わず振り返った少女の手は、いつの間にか女性に握られていた。

「やっと捕まえた」

 ニヤリと歯を見せ笑う女性。その表情は、およそ女性の年齢からは想像できない程にあどけない笑顔だった。

 一方で少女は戸惑っていた。それは、彼女に向けられて来たものがこれまで悪意ばかりだったからなのだろう。

 彼女は慣れていないのだ。温もりや安らぎといった、心が弛緩しかんする感覚に――




 少女の日常は一般人の非日常であり、誰かと相対する状況において、けして心が休まることはない。彼女の心が休まるのは家族といる時、そして一人でいる時間だけだった。

 そんな少女が女性の言葉を鵜呑みにできるはずもない。開きかけた心の扉を、少女は自ら再び閉ざしてしまう。


 我に返った少女は振りほどいた手を胸元に引き、反対のてのひらで包んだ。包まれた手には、女性の体温が残っているような気がして、奇妙な感覚を覚える。その感情を早く追い出さなくてはと体が、心が咄嗟に反応した。

 反射的に女性の真意を探ろうとする言葉が口をつく。

「なんなんですか! 私をからかってるんですか!」

 キツイ口調、キツイ言葉、冷めた表情。

 それは、少女にとってどうにもならないことだった。

 いつもいつも少女はこうして差しのべられた手を握り返すことができなかった。



 少女の目に涙が滲んだ。今回だってどうせまた……そう諦め俯きかけた時だった。


「違うよ。私は友達になりたいだけだって」

 その言葉と声音に、少女の心が震えた。

 顔を上げた少女が見たものは、今まで両親以外からは向けられたことのない[優しさ]だった。

 それは本来なら、日常の中に普通に存在するものだ。珍しくもなんともない世界にありふれたもの。


 だけど、彼女にとってそうではなかった。


 先程のような無邪気な笑顔でもなく、寂しさすら滲む穏やかな表情に、少女は息を飲む。

 そして、この人は他の人とは違うということを瞬時に理解した。

 その瞬間、自分と女性の間にあったモノが消えていくのを少女は感じていた。


 そして気づくのだ。自分も同じだったのだと。



【境界を作っていたのは自分なのだと――】




 私たちはいつだって、物事の本質を理解していると錯覚してしまう。自分が正しいのだと思い込み、他者の立場に立つことはおろか理解しようともしないことさえある。それは[私]だってそうだ。


 だから、どちらか一方ではダメなのだ。本当に大切なことは受け入れる心で、そのために必要なのが優しさなのかもしれない。

 誰の中にも答えはなくて、そもそも正解なんてないのかもしれない。


 だけど、そこには選択してはいけない選択肢は存在していると思う。

 私たちはソレを頭で理解した上で、間違いを日々犯していく。



 誰だって自分と違うものは怖い。理解できないモノは怖い。だから否定し、非難し、排斥しようとする。


 それが人間で、それが世界というものなのかもしれない。


 だから戦争は絶えないし、いじめすら止められない。

 だけどその一方で人は人を想い、優しさを分け与えることもできる。


 時には殺し、時には愛す。この矛盾を抱えたまま、人間は営んでいく。

 そこには絶望もあれば救いもあるのだ。



 ただし、救われるかどうかは【本人次第】である。


 そのことをどうか理解してほしい。考えてみてほしい。




 そして願わくば、誰かを救える貴方であってほしい――



[おわり]

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