歴史上の魔女の話は痛ましいものが多い。集団心理のもと、あるいは政治的な思惑のもとに魔女として殺された人々はかなりの数に上る。そして文字や文学としても、ローマ帝国での『黄金の驢馬』、中世の『フォルミカリウス』などを始め、多く出版され続けてきた。特に『魔女に与える鉄槌』など魔女狩りに関するマニュアルまで生み出す人の想像力は恐ろしい。活版印刷という最新の技術が魔女狩りのマニュアル本印刷に関わっていくのは人の業だろうか。時代の不可解なこと、理不尽なこと、憎しみなどを背負わされたのが魔女なのかもしれない。そして抱いた魔女というイメージに今度は生み出した方の人々が恐怖をいだくのだ。曰く、魔女は人を誘惑し、不幸にする、堕落させる、破滅させる…。
本作『時として魔女は―――』では魔女と関わった人々が紡ぎだす群像劇である。プロローグでは理を外れた魔女は自分の意思で人と触れ合うことを独白する。いつだって、どうしたって私は…。の短い文に私は魔女としての苦悩や自嘲が読み取れた。力と引き換えに憎しみを背負わされたのが魔女ならば、人と触れ合う時にはその憎しみを介さないといけないのだろうか。読者はまずは第一章「色褪せた旅立ち」の結末までを読んで欲しい。この章の主人公のチークムーンの同情すべき背景にも目を奪われるが、魔女のチークムーンへの好意で得たものを知ると衝撃を受けるだろう。
第二章からは登場人物も増え、群像劇としての土台ができていく。多くの人物の思惑に、悲しい背景があり、それにどう魔女が関わってくるのか展開が待ち遠しい。世界から切り離された魔女が、その理から抜け出すとき、人とどのように関わるのか、作者の言葉を借りればその結末は優しいものなのか、残酷なものなのか、それともそれ以外なのか。その結末を読み取っていきたいと思わせる物語である。