豆大福

糸川まる

豆大福




 私には山もりのコンプレックスがあるが、結局一番悩まされているのは、毎日厭でも見るこの顔の、巨大なほくろだ。小鼻の横にでんとあって、しかもふっくらと丸みを帯びている。まるで、黒い豆のように。


「まーめーちゃん」


 おはよう、と千早ちはやが後ろから抱き着いてきた。小柄で華奢な彼女によりかかられたところで、私はふらりともしない。そりゃあもう、鍛えた両足でしっかり地面を踏みしめる。


「おはよう、千早ちゃん」


 私は彼女を背中に張り付けたまま挨拶を返した。流行りのチェリーの香りのヘアコロンをまとって、今日も彼女は砂糖菓子のように甘ったるい。


「まめちゃんはもう半袖なの? 肌寒くなあい?」


 細い腕をからめて、彼女は言う。彼女は年中長袖ブラウスを着ているが、私は夏服解禁日からすぐに半袖に切り替える。暑いのは厭だし、梅雨入りしてからはブラウスがじめじめと張り付いて厭だし、何よりこのいつまでたっても白い腕が厭だ。陸上部なのに冬を越すと白く戻ってしまう肌が、弱弱しくて厭だ。


「すぐ汗かいちゃうからべたべたしてイヤ」


 私がそう答えると、千早はふうん、と満足げに頷いた。確かに、まめちゃんは代謝がいいもんねえ。生身の腕に、千早のブラウスが擦れてうっとうしい。今日も仲いいねえ、と廊下ですれ違うクラスメイトたちが囃し立てるように言う。いえい、と千早が彼らにピースして見せる。私はいつも、彼女の愛嬌と、華奢さと、かわいらしさを際立たせるための舞台装置だ。私はちょうどよい頃合いで彼女の腕から抜けると、そっと自分の席につく。窓際の一番日当たりのいい席。私はここが気に入っている。


「窓際、日焼けしちゃうから気を付けてね!」


 そういえば、私がこの席をくじで引いたとき、千早はそんなことを言っていたな。それを聞いて、おお、藤本はさすが女子力が高いなあ、などと前の席の男子がびるように口を挟んだものだ。


「そんなんじゃないから! まめちゃん、日焼けすると真っ赤になっちゃうんだもん」

「藤本はその点こんがりって感じだもんな」

「もー。ひどい!」


 千早はにこにこしてそれに応じた。私を、円満なコミュニケーションを成立させるための媒介に使うな、まったく。だが、この男子は言葉の選択を誤っていた。こんがりなどと、かわいらしい言葉を選んだつもりだろうが、千早に地黒を意識させるような発言はタブーだ。それは彼女の唯一といってもいい、コンプレックスだから。


「まめちゃんまめちゃん、今日はお昼食堂いかん?」


 三時間目と四時間目の間に、わざわざ千早は私の席まで来て、机に手をついて言った。


「いいよ」


 もともとそのつもりだったよ、と付け加えると、彼女は嬉しそうに笑う。今日は月の最後の金曜日。弦楽部げんがくぶが、昼休憩に食堂で小さな演奏会を開く日だ。千早は毎月それを楽しみにしている。彼女は今、ヴィオラのトップにご執心だから。


 私たちがお盆を持ってテーブルについたころには、食堂の出入り口につながるピロティにパイプ椅子を並べて、弦楽部はすでに待機していた。ピロティでの演奏会は風が吹くこともあり、基本的に暗譜らしい。――毎月、違う曲を暗譜しなきゃならないのがけっこうきつい、と弦楽部の知り合いが漏らしていた。どうも今日から新入部員の一年生も何人か混ざっているらしく、後ろのほうで譜面台にしっかり楽譜を貼り付けているのが彼らだろう。小さく歓声を上げる千早を横目に、私はそっと知り合いの姿を探す。彼は果たして、私を見つけてかすかに弓を揺らした。


 ポン、とセカンドヴァイオリンのピチカートが優しく響く。


 「雨だれ」を弦楽四重奏に編曲しているのか。なかなかセンスがいい。一粒一粒がスラーで繋がれ、ゆったりとしたボーイングが目にも心地よい。先月の「弦楽のためのアダージョ」も悪くはなかったが、暗かった。そんなことを考えながら麻婆豆腐定食を口に運ぶ。千早はうっとりと楽団を見ている。開け放たれた食堂の大窓から、ぬるい梅雨の空気と雨だれの音が、コロンとした優しい質量を持って流れ込む。


「今日もめちゃくちゃよかった!」


 食堂を出て、千早は伸びをする。ブラウスの袖がほんの少しめくれて、細い手首があらわになる。機嫌のいい千早に、今日は習い事があるから一緒には帰れない旨を伝えて、私はまた自席に戻っていく。耳の向こうの空洞を、ぽんぽんと雨だれが打つ。







 ピアノを弾くのは嫌いではない。反復練習も、人に比べて得意なほうだと思う。それはトラック競技で鍛えたともいえるし、逆にピアノで鍛えたともいえる。どちらも同じくらいの時期に始めたから。レッスン後のならし復習を終えて練習ピアノ室から出たところで、声をかけられた。


「おす、福田ふくだじゃん」

小林こばやしさん。どうもお疲れ様です」


 ちょうど向かいの練習室から出てきたその人は、私の顔を見て、そっか今日金曜日か、と続けて、屈託なく笑った。私は週に1回しかレッスンがないので、金曜日にしか来ないのだ。ぺこりと頭を下げる。


「どうだった、今日の昼の「雨だれ」は」

「良かったです。編曲は部の誰かがやったんですか」

「まさかまさか。ネットで拾ってきたやつ」


 セカンドが映える編曲で新鮮だよな、と小林さんは言って、肩に提げているヴィオラを下ろし、手に持ち変える。


「来月の曲はヴィオラ目立たせてもらう約束になってんだ」

「楽しみですね」

「おう。じゃあまたな」


 そう言って、彼はレッスン室に入っていった。私はその後ろ姿をぼんやり見つめる。よかった、今日も、なんのわだかまりもなくお話ができた。

 なぜ――、千早はこの人にご執心なのだろう。顔がいいから? 物腰がやわらかだから? 私は、いつだったか昼の弦楽四重奏を初めて目にした千早が、「あの真ん中へんの一番前、チェロの隣に座ってる人、かっこよくない?」と目を輝かせた日のことを思い出す。まだひりひりと腫れては痛む初恋に、不躾に触られた日のことを。よりによってその人を発掘しないでほしかった。顔のつくりの端正さ、肌荒れひとつない肌、まっすぐな髪、華奢な体、誰にでも好かれる処世術、私の持っていないもの全部、持っているくせに。私だけの領域に踏み込まれたような不快感に、きんと耳の奥が冷えていくような気がした。コンプレックスに飲み込まれているのは、私のほうなのだ。


「うーん、そうかなあ」


 だから私は曖昧に濁して、この薄い薄い関係さえ絶対に隠し通すと決めた。だって知ったら、千早は絶対に私を「舞台装置」にしてしまうから。千早がそう仕向けなくたって、そうなってしまう。これは、のろいだ。





 まめちゃん、と今日も千早は私を呼ぶ。

 私のことをまめちゃんと呼び始めたのは千早ではない。小学校の同級生だった男子だ。豆大福、のまめ。白くて丸い顔の真ん中、鼻の横の大きなほくろ。お前の顔、豆大福みてえだな! と、その男子はからかって、私のことを豆大福と呼んだ。私にとって呪いのような名前だ。千早はそんないきさつは知らないし、いつの間にか由来は消えうせて、ただそのかわいらしい響きだけが生き残っているけれど、私は千早にそう呼ばれるたびに、じわじわと毒が染み出すのを感じる。


「まめちゃん」


 今日も、きずひとつない顔で千早は私をそう呼ぶ。毒を孕んだ呪いの名前を呼ぶ。


「なあに」


 千早が、私の日焼けしない肌をうらやんでいるに違いないと思っている私は、毒を飲んで返事をする。あなたの呼んでいるそのあだ名、私の顔を揶揄やゆするあだ名なんだよ、と思いながら、知りもしないでそう呼ぶ千早を勝手に軽蔑しながら、返事をする。私が色白だからついたあだ名なんだよ、と含みさえしながら。


 白い大福の中に、薄暗い悪意をくるみこんでいる。私に呪いをかけているのは、誰なんだろう。はやくこの白い腕を、肌を、焼いてしまいたい。呪いと一緒に。私はそんなふうに思いながら、明日も半袖のブラウスに袖を通すのだ。




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