二条陰陽寮の少年たち・外伝 ~犬童桜の京都怪異行

上野ゆかり

反魂譚

ビビリの智と陰陽師 -1

 七月下旬の金曜日、午後五時。いつもならばやっと日が傾きだしたと思うような時間帯だったが、こと今日に至っては数十分前から降り出した夕立のおかげで薄暗さが目立った。

 京都の夏特有の酷暑に合わせた強すぎる冷房に冷やされた今出川いまでがわの大学新館は今となってはもはや肌寒いほどで、講義室の前のベンチに座る堀池智ほりけさとしもまた、半袖のシャツの上から腕を押さえて「寒っ」と漏らす。

 智の隣の席で旅行雑誌片手に夏の旅行の話をしているノースリーブの女子達もさっきから一様に腕を抑えたり、寒い寒いと愚痴を言っている。

 智はいっそ小脇のバイク用のウィンドブレーカーを羽織ってしまおうかとさえ考えたが、それはさすがに見た目も悪いし、自分だけズルをしているように思えたのでやめた。

「あいつ、自分から人のことを呼んどいて、遅れてくるのかよ」

 智がそうこぼしながら見下ろした窓外には新館の巨大な庇に逃げ込むように走る学生の姿や、平べったい折りたたみ傘が花開く姿が見える。

その一つの青と白のチェックの傘を見えなくなるまで目で追ったあたりで智のポケットが震える。

あいつが連絡してきたか。と智は待ち合わせ相手の短い連絡を思い浮かべながら、顔を上げないままポケットからスマホを取り出した。

 だけど、待ち受けの通知欄には待ち合わせの相手とは全く関係ない動画サイトからの新着動画の通知表示があるだけ。

 つまり、この動画サイトの新着通知を勘違いしてしまったわけだ。

「五講の後にここで待ち合わせつったのあいつだろ」

 ぶちぶちと文句を言いながら、智はその一つしかない通知をとん、と指で押す。

 ああ、この人の動画か。と智は思った。

 和の趣を感じるが薄暗くうら寂しい写真に、レトロ調の書体の文字を配したサムネイル。智が気に入ってる朗読士の、怪談朗読のチャンネル動画だ。

 そう言えばこの人は金曜の午後五時に動画を上げるのだった。

「……帰ったら見るか」

 今聞こうにもイヤホンは手元に無いし、こういうのは自室で腰を落ち着けて聴くに限る。智はもう一度スマホの電源ボタンを押してポケットの中に入れる。

「ごめん、待ったかな」

 そんな気の抜けた声が降ってきたのは、その直後だ。

 智が顔を上げると、待ち合わせ相手の顔があった。

 優しげだが覇気と特徴にいまいち欠け、メンズにしては細めの楕円フレームの眼鏡ぐらいしか印象に残らないだろう顔の青年。今では見慣れた智も、最初に会った時には彼の顔を覚えて名前と一致させるまでには少しばかり時間を要したほどだ。

 しかも今日は更に特徴に欠ける量販店の淡い色のダンガリーシャツとジーンズを着込んでいて、いつも以上にぼんやりした感じを与えてくる。

 今日の彼の服装で印象的なものと言えば、例の細縁眼鏡と、前を大きく開けたダンガリーシャツの下から見え隠れする、Tシャツにプリントされたパンダくらいなものだった。

「いつまで待たせるんだ。立木」

 立木隆ついきりゅうはその覇気に欠ける顔で困ったような表情を浮かべる。

「待たせるつもりはなかったんだ」

「じゃあ早く来いよ」

「いやそれが、文芸サークルの同期の模擬面接付き合ったのが長引いちゃって……そいつ夏インターン受けるらしくってさ、心配で仕方ないらしくって何度もやるもんだから」

 そうやって、申し訳無さそうに「ごめん」と左手を立てる立木。

 その釈明と態度を聞くと、先ほどまであった智の中のだれた様な憂鬱と苛立ちはすっと引いて行く。

 総じて立木はこういう奴だ。目立たないやつなのに妙に人が良く、こうして約束の時間に遅れても不思議と釈明と謝罪を聞いてしまうと憎めない。

 でさ、と立木が急に切り出す。

「呼び出して、それも遅れて悪いんだけど……場所変えていいかな」

「別に良いけど……なんでだ?」

「話しづらいんだよ、ここだと。出来れば喫茶店か何かで話したいんだ」

 そこまで聞いて智は立木を見上げる目を細めた。

 突然人を呼び出す約束をして、喫茶店に場所を変えようとする。そこで智の頭の中をなんとか商法、という文字が過ぎってしまったのだ。

 京都での独り暮らしの大学生活を自分よりもきっちりとこなせている程に立木はしっかりとはしていると智自身も思っているが、人の良い立木のことだから、あまりに押されて断れずに手を染めてしまったという可能性も捨てきれない。

「……なあ立木、勧誘とかじゃないだろうな」

 智の言葉に、立木はふふ、と笑い出す。

「大丈夫だよ。マルチとか宗教の勧誘なんかじゃないって」

「本当かよ。嫌だぞ、喫茶店入った途端に変な兄ちゃんに囲まれるのだけは」

「もし勧誘するにしても、金持ってないし信心深そうでもない堀池を誘うことだけはありえないよ」

 そうか? と訝る智だが、ここで腰を下ろしていても立木の用事は始まらなさそうだと感じ取って、ベンチから立ち上がり、ウィンドブレーカーを羽織って校舎を後にする。

 大学が近いためか、今出川は喫茶店と飲食店の数だけは多い。特に烏丸通を挟んだ大学の向こう岸にはいくつもの喫茶店が軒を連ねている。

 街をゆく多くの人間がそうしているように弾丸のような大粒の雨が降り注ぐ大学構内と烏丸通を二人は足早に駆け抜けると、手近な喫茶店へ入ってゆく。

 自動ドアにかかったドアベルがいささか性急で乱暴な開閉に合わせてからんからん、と早い店舗で音色を鳴らしている。

「いや、本当に酷い雨だ」

「帰り大丈夫か? 俺はバスだけど、お前はバイクだろ」

「上がるのを待つ。上がらなかったら覚悟して帰る」

 本当はそれだけは避けたいのだけれども。と智は心のなかで付け足す。夜雨の中で夏用のウィンドブレーカーだけを羽織ってバイクで数キロの道のりを走ったら、すっかり凍えてしまう事になる。

 立木が先を歩き、少し奥まった二人がけのボックス席に腰掛ける。智はそれに倣って腰掛けると、テーブルに頬杖を付いて、向かいの席に座る立木をじっと眇める。

 立木は近くを通った店員に声をかけて、早速注文を頼み始めた。

「俺がミルクコーヒー。こっちが」

「オリジナルブレンド」

 智はメニューの一番上にあった品名を指差して言う。

 店員は復唱の後に奥まった席を後にする。その背中が見えなくなってから、智は目の前の気の抜けたような顔をした立木に声をかけた。

「……で、用事ってなんなんだ。最初に言っておくけど、金なら貸せないぞ」

「それは解ってる。大丈夫だよ。金とか宗教とかじゃない」

 立木は少しばかり目を細め、表情をこわばらせると、あの巨大なアウトドア用のリュックサックのポケットを開けて何かを取り出し、それをテーブルの上に置いた。

「俺がしばらく京都を離れてる間に、これを預かって欲しいんだ」

 立木が手を避けると、そこには平べったい円形の金属缶があった。

 映画フィルムを入れる缶によく似た形状だがそれより小さく、母親がよく使っていた洒落た茶屋がお茶のパックを入れるのに使う缶にそっくりだと智は思った。

 もっともお茶の缶と違ってラベルやシールと言った小洒落た装飾など無く、本当に素のままの缶だが。

「なんだよこれ」

「お香だよ」

 声を潜めて立木がそう返す。

「お香?」

 智は立木の言葉を、やや間抜けな調子で鸚鵡返す。

 ほら、と立木は缶を捻り、中身を見せる。

 確かに缶の中には法事の時に使うようなお香が缶の中いっぱいに詰まっていて、缶を開けた瞬間にほんのりと法事や盆に嗅ぐあの特有のものと、南国のフルーツのような華やかな甘さの交じる香りが智の鼻にも感じられた。

「これがどうしたんだ? 普通のお香だろ」

「いや、ちょっとレアなお香でさ。陰陽師とか密教系で特別な時だけに使うっていう奴なんだけど……日本史専攻ならなんとなくわかるだろ」

「まあ、なんとなくだけどな」

 実際は近現代史専攻なので陰陽師その他の学術に関する詳しいことは専門外だが、趣味で巡るネットのオカルト系のスレッドや怪談朗読で身についた程度のにわか知識なら幾らでもある。

 そして、にわか知識の中でそういうモノは往々にして、ろくでもない事が起こった時――例えば、誰かが土着の悪いモノに憑かれただとか、悪さをしてはいけない場所で悪さをした後のお祓いの場面――に使われるということも。

「こんなもんどこで買ったんだよ」

「ネットの通販。今は探せば何でも売ってるよ」

 はあ、と関心なのか、呆れなのかわからない返事で智は返す。

「でもなんでお前がこんなもん買ったんだ?」

 英文学専攻でアメリカ文学論のゼミに所属する立木と陰陽師の使う香は少し毛色が違いすぎる組み合わせだし、どこでそんな組み合わせに至ったのかだって。

「最近スピ系に目覚めちゃってさ。パワーストーンとか、パワースポットとか、ああいうの。それでこのお香焚いたらパワーもらえないかなって」

「お前そんなのにハマってたのか?」

「ちょっと前から。ほら、コレとかも」

 そう言って立木は右腕のダンガリーの袖のボタンを外して、数珠つなぎの石のブレスレットが嵌った腕を見せる。古いアメ車の塗装みたいな抜けるようなスカイブルーの石のブレスは、立木の華奢な腕には少し余っていて、ぶらぶらと揺れていた。

 智の頬杖をついた腕の角度が少しだけより鋭角に曲がる。

 隠していたわけではないのだろうが、大学入学以来の三年来ずっと親しかった友人の、今の今まで知らなかった一面をこうも連続で見せつけられると、なんとなく苛立たしい気にもなった。

「で、そのスピリチュアル系の有り難そうなお香を預かって欲しい……ってことか」

「そういうことだ」と立木は頷く。「俺が持ってても良いんだけど、実家に持って帰って甥っ子にぶちまけられても困るんだよ。前に仏壇のお香とか、姉さんの鞄の中に入れてた紅茶全部ぶちまかした前科あるからさ」

「家に置いときゃいいだろ」

「最近近くの家が空き巣続きで心配でさ。盗まれることはないと思うけど、ひっくり返されてぶちまけられたりしたら……」

 どれだけ心配性なんだよ。と智は目の前の友人に言いかけて、やめた。

 立木はかぽ、と蓋を締めると、香の缶を智の前に差し出した。

「頼む。数日の間、家に置いとくだけで良いから。お前くらいしか預けられる奴がいないんだ」

 そう言って、立木は智の前に両手を合わせたまま突き出し、頼み込んでくる。その腕でちゃらり、とあの青い石のブレスが揺れる。

 対する智は正直なところ、少し迷っていた。

 ただ預かって家に置いておくだけ。それだけなら安い話だ。

 だがなんとなく、引っかかる部分があった。それがなんなのかは智自身にもわからないし言語化できないのだが、立木の言動にも、この缶の中のお香にも、引っかかる部分が存在する。

 そのせいで智は引き受けるのを少々躊躇っていた。

「おまたせしました、ミルクコーヒーと、当店オリジナルブレンドです」

 智が答えを口にしないでいる間にやってきた学生アルバイトらしいウェイトレスが二人分のコーヒーカップをテーブルの上に置く。ウェイトレスは缶を挟んで座る二人の客を一瞥すると、また店の中心に戻っていった。

 智はオリジナルブレンドのコーヒーを啜る。

 そして苦味とともに、躊躇を飲み込む。

「……わかったよ。預かっといてやる」

 引っかかるところがあるとは言え、そんななんとなくの感覚で大学での数少ない友人の頼みを無碍には出来ないし、智はそんななんとなくの自分の感覚を信じられるほど自分の勘に自信は持てない。

「いや、ありがとう」

 気の抜けた顔に柔和な笑みを浮かべる立木。

 智はまたコーヒーを啜ってから缶を自分の鞄の中に入れる。

「家の中に置いとくだけでいいんだよな」

「うん。俺が帰ってくるまで、それだけでいい。でも勝手に焚くとかはやめてくれよ。減ったら嫌だからさ」

「大丈夫だよ。お前んとこと違って、俺の家には香炉もなにもないから」

 それに智にはスピリチュアルの趣味はない。

 それどころかスピリチュアルは気の迷いの生じた奴のやることだ、とさえ決めつけている節すらあるのだ。そんな智が自ら効果を求めてお香を焚くなど、まず有り得ない。

「と言うかお香一つにどんだけ神経質になってんだよ、お前。こんなの学校の中でも渡せただろ」

「本当に貴重なものだからさ。心配なんだよ、俺だって」

 そうやって冗談っぽく笑う立木に、どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか、智は問うてみたかった。

 わざわざ喫茶店に移動して頼み込むほど、このお香のどこに価値があるのか。そうでなければ立木はどれだけの価値を見出しているのか。智は苦味の強いコーヒーを啜りながら、細縁眼鏡の奥で目を細める友人を見るのだった。

 そして会話もなくコーヒーを飲み干すと、二人は店を後にする。幸いなことに先程までの弾丸のような夕立は店を出た頃にはすっかり止んでいて、濡れたアスファルトと大きな水たまり、そして陽光をぼんやりと取り込んで光る雲にその名残を残すばかりになっていた。

「……ああ、そうだ」

 烏丸通の信号が青に変わるのを待っている間に、ふと立木が口を開く。

「陰陽師を名乗るやつが近づいてきたら、注意してくれよ」

 その口調はいつもの立木からは考えられない程硬質で、冷たく智には聞こえた。

「おい、立木。」

 それはどういう意味だ。と、智がその不可解な言葉の真意を訊ねるより先に、ちゃり、とブレスを鳴らして立木は青になった信号を渡りだしていった。

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