閉じたこころと此岸の罪 -2
人が死んだ人間を黄泉帰らせたいと願うとき、それはどんな人で、どんな理由だろうか。
不慮の事故で死んでしまった人、親しく近しい人、本気で愛した人。人間によってその関係性の答えは変わり、その理由だって幾らでも変わる。
ならば立木隆にとって江藤こころは何であり、何故彼女を黄泉帰らせようとするのか。
智は四日かけてその答えを考えようとしたが、結局何の答えも出なかった。
桜の言った朔の日は、カレンダーの上でも智の感覚の上でも意外なほど早く訪れた。
早く来てほしかったようではあったが、同時に訪れてほしくもなかったその日が来て、智は不安と厭な息苦しさから自分を落ち着かせながらバイト先に出向き、いつものように仕事に勤しんだ。
そして空の色が朱から紺色に変わりゆく頃に智はバイト先を出て、バイクに跨る。
智の400ccは甲高い排気音を上げながら鴨川を渡り、三条通から国道1号に合流して、東京方面に向かう車の流れに紛れながら進む。前を走る名古屋ナンバーのセダンの尻に付きながら、智はふと黄昏時の空を見上げる。いつもならぼんやりと浮かぶ月の姿は、そこには無い。
紺色から黒に変わりつつある空の下、智のバイクは逢坂山に差し掛かる。
「……本当に、これで最後だ」
国道に並走する京津線の電車が智を追い越し、電車の灯が智を映し出す。
その照らし出されたヘルメット越しの顔には、ある種の覚悟を決めた表情があった。
少し前までは何に関しても完全に部外者だった。
陰陽術は伝承とスクリーンの中だけの存在だと信じ込んで、立木の交友関係だって積極的に知ろうとしなかった。
それが、あの香を預かってからすべてが変わってしまった。陰陽師、反魂香、江藤こころ……そして、立木の心に決めたであろう何かとの『決着』。
そのすべてを知ってしまった今、智はもう部外者でも只の行儀の良い友人でも居られない。立木のためにも、江藤こころのためにも、立木のやろうとすることを阻止し、今回のこと見届けなければ気がすまないのだ。それは立木への負い目という責任めいたものより、立木と今回の件の『決着』に近かった。
智はアクセルを開き、逢坂山を超えようとする。
遠くには比叡山の黒い影がちらついて、その大きな影が立木の抱えた大きく重い感情の形にも見えた。
この件に全ての決着をつけたとしても、立木の重い感情はきっと消化されること無く、大きく、重く、残り続けるだろう。
智にそれを受け止められるかと言えば、嘘になる。
止めに入るというのに、無責任な話だが、自分が受け止めた所でいいとこ共倒れだ。
智が琵琶湖のほとりの大津の市街地に入った頃には、もう完全に太陽は沈み、残影すら山の縁に消え去って、空は紺と黒の境界線上の色を映している。
あの眼鏡の女性の言った湖畔霊園という霊園は、地図の上では大津の市街地からもそこまで離れていなかった。予め地図で調べておいた道順を頭の中で照らし合わせながら、琵琶湖畔の道を飛ばしていくと、すぐに看板が見えてきた。
智は何枚も見えてくる看板に従ってウィンカーを出して、霊園の駐車場にバイクを滑り込ませた。
駐車場にバイクを停めると、智はあたりを見回す。
盆が近いとは言え夜の帳が降りきった時刻だ。流石に霊園の駐車場に止まっている車の数も少なく、段々状になった墓地の墓石に見下されるかたちの駐車場自体がうら寂れているようだった。
現地集合と言い張った桜はまだ来ていないようで、智は先に江藤こころの墓を探すべく智はマグライトを取り出して、ゆっくりと墓地の方へと歩き出した。
背の高い御影石の墓石を挟んだ細い通路を、智は墓石に書かれた名前を見ながらゆっくりと、飛杼のようにジグザグに進んでゆく。
夜中、墓場に忍び込んで墓石の名前を見ながら進む怪しい男。傍から見れば智はそう見え、智自身もまるで墓場で肝試しをする怪談朗読の話の罰当たりな主人公になった気分だと思った。
そう考え始めると、急にどこかから幽霊が現れないかと怖くなってきて、智はいたずらに思えるほどに左右にマグライトを振って、何も見えないことを確認しながら歩き続けた。
出てこないとは頭の冷静な部分は語っていたが、いかんせん一度本物を見てしまっているせいで、どこかから幽霊が現れないかと不安だったのだ。
やはり桜が来るのを待つべきかとも思ったが、進み始めたのは仕方がないし、あのうら寂しい駐車場で墓石に見下ろされながら待つのも考えてみれば嫌なので、歩いているだけ気が紛れるぶんこちらのほうがマシかなとさえ考えた。
十数分ほど人気のない墓地の中を歩んでいって、智はふと、少し遠くの一つの墓の前に影が居るのを見た。
影は墓の隙間の通路にぽつぽつと立った街灯に辛うじて浮かび上がる程度だったが、手元には智と同じように懐中電灯を持ち、立膝の体勢で何かをしている。
そして彼の立つその墓も、他の墓とどこか異なっているように思えた。
智は確認と、ほんの少し、予想の人物と違ってほしいという期待を込めて、その影をマグライトで照らす。
青白い光線によって浮かび上がった人影は、一見ノンフレームに見えるほどの細縁の眼鏡に光を反射させて、こちらを振り向いた。
「……やっぱりお前だったのか、立木」
あの日からどこでどう過ごしたのだろう。立木隆は最後に烏丸御池の駅で見たのと同じよれよれのシャツで巨大なリュックサックを背負い、無精髭を伸ばした遭難者のような風貌で、青白い光の中に佇んでいた。
そしてその両手には、白い円筒状の一抱えもある缶のようなものがあった。
その正体は、すぐに智にもわかった。
恐怖か、忌避感か、それと違う重くて大きな感情なのか、智の身体がぶるりと震える。
「……堀池か。関わるなって言ったろう」
憎々しげに、立木はそう口にする。
「最初はそのつもりだったよ。巻き込まれたのもいいとこだったしな」
「じゃあどうしてだ? どうしてここに来た?」
「部外者では居られなくなったからだよ、立木」
智はマグライトを立木に向けたまま、江藤こころの墓へと近づいてゆく。
「それ以上近づくな」
そうやって低い声で言う立木の手には、ズボンのポケットから引き抜いた木の人形のようなものが握られているのが見えた。きっと烏丸御池で使ったのと同じものだ。
智は立木の警告の通りに足を止める。ここで式神を出されても、桜が居ない以上智に対処は出来ない。
マグライトの青白い光に照らされながら、立木は憎々しげに、それでなければ切羽詰まったように顔をしかめながら、抱えた円筒の缶のようなものを地面に置くと、背負っていたリュックサックを降ろして、中からビニール袋に包まれた何かを取り出す。
ビニール袋が取り去られて、それが白い陶製の香炉だと解ると、本当に立木が『それ』を成そうとしているのが嫌でも実感できた。
立木、やめろ。
智はそう言い出そうとしたが、上がってきた空気は声にならず、かぁ、かぁ、と喉から乾いた吐息としてしか出てこない。
『それ』を成そうとする立木の狂気に圧されているのか、それとも『それ』自体を実際に目の当たりにしたおぞましさに自分の身体が拒否反応を覚えているのか。
そうしている間にも、立木は黙々と『それ』の準備を進める。炭に着火用ライターで火を点けて、香炉の上に置く。
智は昔見た古いB級ホラーのワンシーンを思い出す。死んだ息子を蘇らせようと、父親が息子の墓を掘り返して復活の儀式を行う内容の映画の、墓を掘り返した父親が今の立木と重なって、思い出してしまった。
もっとも、その映画と今の状況で決定的に違うのは、俳優のものと違って立木に宿った狂気が演技ではない本物であるということと、目の前で行われている儀式が現実味に満ちていて、嫌でも現実のものだと感じさせてくれることだ。
「あの陰陽師の女は、来ないのか?」
立木が苛立ちの籠もった声で訊いてくる。
そこに来て、やっと智は魔法にでもかけられたように、喉から空気でなく、ちゃんとした声を出せるようになる。
「……いずれ来る」
「余計なことばかりしてくれる」
立木は吐き捨てるように言うと、もう一度リュックサックの中に手を入れて例の缶を取り出した。
反魂香の入った缶。立木は無言で缶の蓋を開けると、一摘み、と言うには多すぎる量を手にとって、香炉の炭の上にぱらぱらと落とし始めた。
「あの女陰陽師とお前に台無しにされる前に、全部終わらせてやる」
「やめろ、立木」
ようやっと、言おうとしていたその言葉が喉から出てきた。
「やめるか。今やめたら何もできないで終わる」
「何もできないで終わったほうがマシだ。そんなもん使った所でこころさんは黄泉帰らないんだから」
「こころの事まで嗅ぎつけてたのか」
立木の意外そうな、しかし、とても好意的とは言えない声が飛ぶ。
「お前のこと、少し調べさせてもらったんだよ。なんで反魂香を使おうとするのか」
あの香の、甘く薫り高い匂いが、離れた智の鼻にもツンとつく。
香の煙が炉からゆらりと立ち上って、懐中電灯とマグライトの光を反射しながら夜闇の中に白い線を描いていく。
「立木、そいつは紛いものだ。そいつを使ったって、屍鬼って奴にしかならないんだ」
「それもあの陰陽師の受け売りか」
「……そうだ」
否定できないのが情けないが、そのとおりなのだから仕方がない。
「堀池、悪いことは言わない。あの陰陽師の受け売りでここまで来たっていうならすぐに帰ってくれ。俺も首を突っ込まれたくないんだ」
「それは無理だ」智は力強く首を横に振る。「知識に関しては受け売りだが、ここに来たこと自体は俺の意志だ。さっき言ったとおり、お前のやってることはお前の望むものにはならない。だから悪いことになる前にやめてくれ」
「それこそ受け売りだってことがわからないのか!」立木が立ち上がり、絶叫する。立木の怒りのこもった声が、ほぼ無人の墓地に殷々と響きわたった。「お前はあの女陰陽師の入れ知恵で勝手に俺の感情を自分の中で作り上げて動いているだけだ!」
智は立木の突然の激高に、びくりと肩を震わせたじろいだ。だがすぐに我を取り戻すと、足に力を入れ、興奮しきっている立木と対峙するようにその場に仁王立ちする。
「じゃあどういう感情で動いてるのか説明しろ!」
「だから関わるなって、帰れって言ってるんだ!」
智はもはや平行線だと思った。ここまで来てしまって智に大人しく帰るという選択肢は無いし、立木にとっても全てを諦めるという選択肢はない。そうなればあとは、この場をぶち壊す第三者――犬童桜か、以前桜の言っていた役所の陰陽師が乱入し、全てを解決するという強引な筋書きしか望めない。
だが、智はそんな強引な幕引きは納得がいかないとも、心のどこかで思っていた。
だから智は、彼の反魂香を使う感情の最も核心に近いだろう言葉を口にする。
「お前が反魂香を使うのは、『決着をつける』ためか」
「……っ!」
「お前の部屋にあった文集の表紙にそう残ってたよ。すごい筆圧で書いた跡が。なあ、決着ってのはこころさんを黄泉帰らせることと関係があるんだろ。お前がこころさんを殺したって話にも……」
「黙れっ!」
いつもはぼんやりとしている立木の顔が怒りで歪んで、智が今までに見たことのないものに変貌する。
「お前には何一つ関係のない話だ! 今すぐにここから消えろ! さもないと――」
その先の言葉を匂わせるように立木は木の人形を改めて手に握って、見せつける。
香の匂いは完全に二人を包み込み、白く立ち上っていた煙は立木の周囲を包むように薄く立ち上る。うっすらと周囲の空気の滞留が滞り、智は少しだけ息苦しくなったような気がした。
かたかたと、沸騰したやかんの蓋が鳴るような音がし始める。
音の発生源とその理由は、考えたくなかった。智はマグライトを地面に置かれた白い円筒から外し、立木を照らすように向ける。
「立木、今すぐ香を焚くのをやめろ。そうしないとこころさんが屍鬼に……」
「……それでいいんだ」
低く、唸るように立木は言う。だらんと垂れた腕からはあのスカイブルーの石のブレスレットが覗き、ちゃり、と音を立てる。
「それでいいってどういうことだ! 立木! お前はこころさんのことを屍鬼にしていいっていうのか!」
「何も知らないお前が語るなっ!」立木の再びの怒号。払いのけるように手を振ると、袖口から覗くブレスレットが揺れ、智の目に否応なく入ってきた。「消えろ! 今すぐこの場から消えてくれ!」
「出来るわけがないだろ! お前こそ香を消せ!」
かたかたと鳴っていた音がより激しくなる。それでも立木は手に握った木の人形を見せつけるようにして智を寄せ付けさせず、智も立木に近くこともできず、しかし離れることもできないでいる。わかりやすいほどの膠着状態だ。
反魂香の強い匂いを伴った煙が鼻孔を麻痺させ、頭までぼんやりしてくるように智には思えてきた。
このままの平行線の膠着状態はいつまで続くのだろうか。怒号が消え、かちゃかちゃ、かたかたと陶器の蓋が鳴らす音が、鳥の鳴き声に混じって香の立ち込めた夜の墓地に響く。
智がどうにもならない焦燥を感じ始めて暫くした頃、智は背後から、誰かの足音が近づいてきているのに気づいた。
こつん、こつん、と革靴に似た硬質な靴音。
それが智のすぐ近くまで来ると、その靴音の主はす、と短冊を指に挟んだ小さくしなやかな手を智の視界の外から見せ、智の隣で口を開くのだった。
「立木さん。香を焚くのをやめてください」
高く子供っぽい、しかしそれでいて鋭く切り込むようなソプラノ。
智がちらと脇を盗み見ると、犬童桜がいつものブラウスと黒いジャンパースカートという出で立ちで、その場に立っていた。
桜も智の視線に気づいたのか、くいと横を向いて、視線を合わせてくる。
「堀池さん、遅れました。タクシーを捕まえられなくて」
そう弁明すると、桜はすぐに立木の方を再び向き直った。
「そこから出てくるのは江藤こころさんではありません、こころさんの姿を取っただけの屍鬼という低級鬼です。陰陽師でないあなたにどうこうできる物ではありませんし、その場にいればあなた自身も危険に晒されます」
「そんな事はわかってると、もう言った!」
立木が顔を歪めて――それも先程まで智に見せていたものよりさらに歪んだ顔つきで――再び強く握りしめた木の人形を見せつけるようにかざし、そして、投げつける。
投げつけた木の人形は音を立てるより先にマグライトの青白い光の中で姿と大きさを変えて、周囲の闇の色と同じ漆黒色に変化して、その大きさもどんどん肥大化する。
煙と少ない明かりの中に浮かぶそれは、漆黒の姿こそ以前に立木の部屋で見た式神によく似ていたが、その大きさは大人一人ぶんほどにまで膨れ上がって、まだ止まらず肥大化する。
まるで周囲の闇を吸収して肥大化したようなそれは、桜と智をおそらくその視界に捉えたらしく、ぐ、と構えた。
「堀池さん、あれは少し手間取るかもしれません。私があれを抑えている間、堀池さんは立木さんを抑えて、香を消してください」
「……わかりました!」
智は立木の元に一目散に走りだす。
それを阻止しようと漆黒の影は巨体を揺らして走り出そうとする、が、脇から飛んできた光の閃きの直撃に、それを邪魔される。
「あなたの相手は私です」
そう言う桜の手には、いつの間にか短刀のようなものが握られていた。
しかし、智が目を凝らすと、それが短冊の集合体だということに気づく
彼女の手に少し余るのではないかと思われるやや大ぶりの片刃の短刀の形を持った短冊。彼女がそれを振るうと、刀身の部分がマグライトや街灯の光を受けて、自らが発光しているかのように青白く夜闇に閃く。
「行きますよ」
桜は短冊の短刀を順手に持って翻し、漆黒の影と対峙する。
影は甲高い声で「きき」と立木の部屋でも聞き覚えのある耳障りな笑い声を上げて、しかし、智の方を狙って拳を振り上げる。
「うわぁ!」
振り上げ、高速で下ろされた拳は立木のもとへ駆けていた智のすぐ脇を掠り、恐ろしい音を立ててアスファルトの地面にめり込む。智はつんのめりかけながらもなんとか体勢を立て直し、再び駆け出した。
智の背を追おうとする影。その無防備な背中を、桜の短冊の刃が切り払った。
「わたしが相手だと言っています」
桜の斬撃にやっと影は振り返る。そして刹那、「ききき」と耳障りな笑いを漏らしながら、薙ぎ払うようにその長い腕を振るおうとする。
だが、桜の方が早かった。後ろに仰け反るようにしてその腕をかわした桜は、がしゃがしゃと何かが崩れる音を聞く。目を音のした方へ移すと、桜の背後の墓の墓石が影の放った横薙ぎの一撃に巻き込まれて、崩れているのが見えた。
「……これは萩原さんに怒られそう」
呟くと同時に勢いよく立ち上がると桜はアスファルトを蹴立て、ジャンパースカートを翻して、真っ直ぐに影に突っ込む。
「でやああああっ!」
漆黒の影の懐に入り込んだ桜は、深々と短冊の短刀を影の腹へと突き立てる。
まだ剣の先に手応えがない。半固形の泥の中に短刀を突っ込んだようなどろどろとした感触が切っ先にまとわりつく。
「要を壊さないと止まりませんか……」
要――あの木の依代はここではない。
桜は影の腹の中でぐるりと短刀を回す。粘った感触が手に纏わり付くのを覚えながら、目をつぶり、手に、そしてその先の刃と切っ先に意識を集中させる。
その桜をなんとかして引き剥がそうと影の腕が迫る。
「見つけた」
そう呟くと同時に、桜は叫びとともに力強く、影の胸のあたりまで短冊の短刀で切り上げる。
剣先に何か硬いものを傷つける感触が伝わると、瞬きの間に、音も立てずに漆黒の影は雲散霧消して、からん、と木の人形が落ちる音だけが虚しくこだました。
「……ッ!」
立木が思わずちっ、と舌を打つ。
「立木!」
智が江藤こころの墓の前までたどり着けたのは、その次の瞬間だった。
江藤こころの墓の前香は甘い匂いでむせ返りそうになるほどに立ち込めていて、智は立木から円筒の容器に目を向けると、既に白い手がにゅっと伸びて、容器の上蓋を外し始めていた。
智は一目散に香炉に向かって駆け寄ろうとする。が、その前に立木が立ちはだかる。
「そこを退け! 立木!」
「退くか!」
円筒容器から伸びた白い手が、墓の敷石に手のひらを付く。蝋のような青白い色の手はマグライトの中でぎこちなく動いている。
かつ、かつ、と桜が靴音を鳴らしながら歩いてきて、智の横に並んだ。
「退いていただけませんか……反魂香をこれ以上焚き続ければ、貴方も危険です」
「そんなことは解ってると、何度も言ってる!」
「立木! お前は一体何がしたいんだ!」
智は立木の肩を掴んで揺さぶる。
だが、立木は相変わらず口を噤んで答えない。
「決着ってのはなんなんだ! それとこころさんを屍鬼にすることに関係はあるのか! なあ!」
立木は答えない。それを口にしてしまってはお終いなのだと言わんばかりに。
ずっ、と立木の背後で音が聞こえる。もう一本の腕が、小さな容器の蓋をどかして這い出してきた。一対の腕が出てくれば、きっと次は頭、そして胴と出てくるのだろう。
智は復活を止めたい焦りとそれを想像したときの恐怖で、立木を揺さぶる手をより激しくする。けれど立木も足元に根が生えたように、微動だにしない。
「おそらく決着というのは、自殺か復讐のどちらか。そうですよね」
桜が静かに、淡々とそう口にする。
その言葉に立木の眉根によった細かい皺がぴくりと跳ね、立木は食いしばった歯をむき出しに、智の肩越しに桜を睥睨する。
しかし桜は立木の射殺すような視線に臆すること無く、淡々とよく通る声で続ける。
「反魂香や反魂の術の禁忌を侵す人間にまま見られるんです。死者を死へ追い詰めた者を屍を使って復讐することや、死者を追い詰めた自分自身を罰するために屍鬼に裁かせることが。そして私が察するに、立木さんの言う決着というのはおそらく後者。そうですよね」
立木は答えない。歯を食いしばって、今すぐ桜に掴みかからん程に顔を歪めながら、なのに桜を睨むばかりだ。
「きっと立木さんがこころさんを殺したという罪悪感に負けてのことだと思いますが、屍鬼による自殺なんてやめた方が良いと思います。こころさんもそんな事は望んでないと思います」
「望む望まないをお前が決めるな! これは俺が取るべき決着の付け方なんだ!」
立木が吼える。声を枯らして、喉を痛めながら、彼自身の有らん限りの声量で吼える。
「俺があんなくだらないことでこころと揉めて、最後にはこころを追いつめた! 俺はこころを殺したんだ、こうして裁くのが当然だ!」
「落ち着け! 立木!」
「落ち着けるか!」肩を押さえる智の腕を振り払うように、立木は肩を思い切りひねる。「愛してたんだ! なのに追いつめた! とんでもなくくだらない理由で! 俺は、彼女を!」
絶叫を止めない立木の眦から、つう、と一本の線が頬へと伝った。
それは絶叫の末に感極まって流してしまった涙なのか、後悔の涙なのか。智は振り払われた手を再び立木にのばすことも出来ないまま、それが流れるのを眺めるしかなかった。
その時、立木の背後でがた、と何かの外れた音がする。
背後の容器ーー骨壺の蓋がついに開いてしまったのだ。白い一対の腕は骨壷を倒さんばかりに蠢き、がたがたと骨壷そのものが墓の敷石を鳴らす。
既に香の煙は甘く香り高い匂いを伴って、濃い霧のように三人の周囲を包んでいた。
「まずい!」
智は香の火を消しに行こうとするが、その前には般若の形相の立木が香と骨壷を守るように立ち尽くしている。細縁眼鏡の下の瞳は涙とともに狂気の色が灯り、意地でも行かせないと言う様子だった。
「俺の決着を、邪魔させるものか」
「目を覚ませ、立木!」
「俺の目はもう覚めてる!」
あくまで立木は、いびつな平行線をなぞり続けるつもりのようだった。
ならば。智は立木の後ろを取ると、先程振り払われた腕を立木に伸ばしその身体を思い切り羽交い締めにする。
「やめろ! 堀池!」身体を捩って暴れる立木を、智は力いっぱいに静止する。
「犬童さん! 今!」
智に言われるより早く桜は走り出して、香炉を蹴飛ばした。けたたましい音を立てて香炉は敷石の上に転がり、炭が飛び出て、燃えかけの香と香炉灰が敷石の上に散らばる。
「やめろおおおおおっっ!!」
立木の絶叫を聞いてか聞かずか、桜はジャンパースカートのポケットから取り出した短冊を新たに手に取り、「急急如律令。水気より水を招く」と呟く。
その言葉とともに突如現れた水の玉が桜の周囲に舞い、桜が香炉を指差すと同時に倒れた香炉と、飛び出した炭と香に降りかかった。
直後、じゅう、と湿った音が智の耳にも入ってくる。同時に煙が立ち上るのが止まり、甘い匂いに混じって濡れた土の匂いが鼻孔を擽る。
あれだけ不気味に鳴っていた江藤こころの骨壷も、生えていた一対の腕がしゅるしゅると縮みながら元の骨壷の中へ、ビデオを巻き戻すように消えて行き、後には何事も無かったかのように骨壷だけが鎮座していた。
桜はこころの骨壷の蓋を閉じると、それを抱える。
後に残るのは霧のように立ち込めた、甘い香の煙だけだ。
「離せっ! もう一度! もう一度香を焚けばっ!」
「やめろ立木! もう終わった、終わったんだ!」
「終わってない、お前達が勝手に終わらせたんだ! 俺の決着は何もついてないっ!」
「……あなたの言うその決着にこころさんの亡骸を巻き込むのは、あなたに何の権利があっての事なんですか?」
桜のその一言に、立木は言い返せないまま、唸りを上げるようにして桜を睨みつける。
「立木さん。死者が本当に強くあなたを恨んでいたならば、あなたはとうの昔に怨霊によって死んでいます。あなたはこころさんを亡くした際の動揺と自罰で、がんじがらめになっているだけです。そこを心の隙間を弄する輩に浸け込まれたんですよ」
「そんな訳あるか! 俺は……俺は!」
立木の声は喉の酷使のせいで完全に掠れていて、痛々しい声が彼の無念を引きずるように口から漏れる。頬に引かれた涙の線は、先程よりも増えていた。
桜は先程までしまっていた口元を緩めて、優しい口調で問いかける。
「それなら、こころさん本人に聞いてみますか?」
桜のその突拍子もない言葉に、智はぽかんとした顔になる。
死者に聞く。散々反魂香で死者が黄泉帰らないことを言ったというのに、この期に及んでいきなり彼女は何を言い出すのだろう。と智は思ってしまった。
立木も智と同様に思ったらしく、敵意を剥き出しにした視線で桜を睨みつける。
桜はそんな二人の反応を見て、口を開き、物語るように告げる。
「彼岸の霊を呼び出すことはおいそれと行えないのですが、今は彼岸が此岸へ近づく盆の直前。それにこの反魂香の煙を依代にするのならば、短時間ですがそれらしいことは出来るはずです」
くすりと笑みを浮かべると、桜は片手で骨壷を抱えたままポケットから万年筆といつもの物より少し大きめの短冊を取り出す。
骨壷を一旦敷石の上に置くと、さらさらと短冊に万年筆で何か呪文のようなものを書いてしまう。すると、何かの呪文を書かれた大きな短冊は宙に浮き、ふわふわと骨壷の上へ移動する。
立木は桜と短冊の行方を、押し黙って注視した。
辺りに霧のように立ち込めていた反魂香の煙が短冊を中心に集まってゆく。徐々に濃密になっていく煙は圧縮されていくうちに、徐々に人の形を取り始める。
智はその光景から目を離せず、そして瞬きもできずに居た。先程までの骨壷から屍鬼が蘇るホラー映画の様なワンシーンと違って、その瞬間は非常に幻想的で、智の目を奪わせるには十分であった。
そしてそれは、まだ羽交い締めにされたままの立木も同じだったようだ。
短冊が骨壷の上に移動して一分か一分半程経っただろうか。濃密な煙は色を帯び、より精確な人の形を作ってゆく。
そこに居たのは、あの写真に映っていたのと同じ顔の――だが写真より少し優しげな瞳をした江藤こころであった。
「こころ……!」
立木が智の腕を振りほどき、江藤こころのもとに駆け出す。
『――――』
こころの唇が動く。だが、その言葉は智の耳元には届いて来ない。
「あの時の言い合いで、俺は君を追い詰めて殺したかもしれないって思った。だから、俺は君に殺してほしかったんだ……俺にとって、それしか無いと思ったんだ」
再びこころの口元が動く。幼子を諭すような表情の彼女に、立木は縋り付くように、懇願するように、その場へと膝をついている。
「……そんな、そんなことで? そんな、いや、待って……俺が謝るはずなのに、なんで逆に謝られるんだよ。待ってくれよ」
縋り付くようだった立木の言葉に、徐々に疑問形の言葉がまじり始めるのを、智は聞き逃さなかった。それに応じて彼女の顔も苦笑いを浮かべたり、かと思ったら謝り始めたりと、ころころと変わり、さっきまでの幻想的な雰囲気とは打って変わって妙に生活感を感じるようだった。
「……つまり、俺のしようと思ったことは本当に無駄だったし、的外れだったってことか。罪なんて最初から無かったし、決着なんて付ける必要も……無かった」
立木の静かな問いかけに、彼女はこくりと頷く。
そして、彼女を構成する煙は徐々に薄れてゆく。そろそろ、彼女との会話も終わりを迎えるようだ。
「それを聞いて、吹っ切れたよ」
立木はそう言うと立ち上がって、煙に映った彼女を抱きしめるように腕をたたむ。
「こんな時になってからしか言えなかったけど、本気で好きだった。こころ」
薄れてゆく彼女は立木の耳元で何かを告げる。その言葉は智には聞こえない。
いや、聞こえないほうが良かったのだろう。
その直後、反魂香の煙はあの甘い匂いとともに完全に散り、桜の用意した短冊も骨壷の上に力なく落下していった。
桜を見ると、彼女は先程までと同じように優しげに微笑んでいた。だが智には、その評定に少々の憂いが混じっているようにも見えた。
立木が虚空を抱きしめていた腕をだらんと垂らすと、智の方を振り向く。手首の空色の石のブレスレットが揺れるのが、智の目に入る。
「……色々迷惑かけた。すまん、堀池」
「立木……」
「怒られたし、振られたよ。思いっきり」
そう呟く立木の顔は先程の剣幕とは打って変わって、困ったような笑い顔だった。
「陰陽師さんにも、迷惑かけました」
桜は立木の謝罪を受け取ると、「まあ、結果オーライです」と憂いを帯びた笑みを崩さぬまま返す。
「あなたが必死に香を焚かなければ霊を降ろすことも出来なかったでしょうし、あなた自身も本人に語ってもらわないとどうにもならなかったでしょうから……本当に条件がよく揃っていたと言うことです」
桜はそう言うと、ポケットからまた一枚の符を手に取り、宙に浮かべた。
「今から陰陽局を呼びますが……立木さん、あなたは一度陰陽局に行ってもらうことになると思います。あなたが反魂香や呪術の依代を手に入れた経路のことも聞かれると思うので」
立木ははい、と静かに頷く。
霊園には元通りの静寂が戻っている。
落ち着かずにいた智が耳を澄ますと、先ほどまでの剣幕など知らぬように、遠くで鳥がきょきょ、と調子外れな声で鳴いていた。
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