彼女の決意と彼の迷い -2
「お疲れさまでした」
そう言ってバイト先の書店の従業員控室を後にして、智は店内より幾分か薄暗い従業員用の通路を店の外に向かって歩きだす。いつもよりも歩く速度が遅いのは、智自身がよく感じていた。
昼間の桜の明かした事実と彼女のぶつけてきた想いがまだ、智の中では燻っていた。
死者の躯を使役するために作られた反魂香。
立木のためにも、死者のためにも、そして自身の正義感のためにも、それを使わせたくない桜。
「だからって、どうしろってんだ」
反魂香の正体を知った所で、智には立木を止められることは出来ない。立木の重い感情を代わって背負うこともできない上に、智は立木が誰を蘇らせ何をしたいかも知らない部外者でしかない以上、智には立木を止める権利はない。
いや。桜がそうするように、止める権利は誰にでもあるのだろう。だけど智にはそれを行使して平気で居られる勇気と図太さが無いのだ。立木にいざ重い感情を乗せて智自身の傲慢を追求された時、それが深々と胸に突き刺さるのが恐ろしいのだ。
智が店外に出たときには、時刻はもう午後十時を回っていた。この頃になってくると昼間の蒸し暑さも幾分和らいで、少し肌寒ささえ覚え始める。
三条河原町を歩くまばらな人の流れに紛れて街路を暫く歩き、近くの駐車場に停めた愛車のもとに辿り着くと、智は鞄にしまってあったウィンドブレーカーを着込みはじめる。
のろのろとウィンドブレーカーに袖を通して、バイクのハンドルにかけてあったヘルメットを取って被る。そしてバイクを始動させて、駐輪場を走り去る。
駐車場のあった小路から河原町通りに躍り出た智のバイクは、背の高い黒塗りのタクシーと自家用車の群れに小魚のように紛れて北を目指した。
バイクの振動と、びゅうびゅうとヘルメットや身体が風を切る音に揺さぶられながら暫く道を走っていると、今の智にはお誂え向けのようにバイクは丸太町通との交差点の赤信号に引っかかる。
このまま丸太町通に入れば家にたどり着ける。
そしてもし、北に行けば。
先程の桜の顔と、烏丸御池で見た立木の顔が同時に頭の中で渦巻く。
死者の躯、使役、それを止めたい桜。なにかの目的のために鬼を呼び出し、必死にそれを為そうとする立木。部外者の智。
そして部外者の智がわからない、立木が抱えている重い感情の正体。
「…………」
信号が青になる。
けれど智はウィンカーを出さず、自動車の群れに紛れたまま河原町通を北へ直進する。
向かう先は
「ここまで見せつけられて、部外者らしくできるかって」
十分ほど室町の街を走り、上御霊神社の脇をやり過ごしてすぐのところにある低層の独身向けアパートの前で智はバイクのエンジンを切って、敷地の脇に停める。
そして目の前のアパートを睨んだ。
一階の隅の、今は電気のついてない部屋が、立木の部屋だ。
智はドアに近寄り、インターホンを鳴らす。
やたら間延びした電子音を数十秒おきに何度か鳴らしてみて、そしてインターホンのボタンから手を離す。それからしばらく待ってもなんの反応も無い。
バイクの排気音とインターホンで智が破った夜の住宅街の静寂が、再び智の周囲に戻ってくる。
智はその静寂に耐えられなくなって、拳を甘く握ると、とんとん、とドアをノックした。
「立木、いるか? 俺だ。堀池だ」
返事は、沈黙。
どうにも家には帰ってきていない。と言ったところか。
普通に考えれば当然かもしれない。陰陽局を避けるために智に香を預けたりと、念入りに隠すことに策を回していた立木が、この世に及んでのこのこ陰陽局が見張っているような自室に帰ってくるわけがない。
薄々感じていたことだったが、やはりその通りだったようだ。
「来たところで何にもならなかったか」
せめて手がかりくらいは掴みたいと思っていたのに。智は踵を返し、停めてあったバイクの方へと歩いていこうとする。
かちゃん。
金属質な――たとえば、ステンレスのドアの鍵が回るような――チープで高らかな音が、周囲の重ったるい湿気を含んだ空気を揺らし、智の耳にもそれが聞こえてくる。
智はおそるおそる振り向く。
隣の部屋の住民か、もしくは別の部屋の住民が、部屋の鍵をかけた音かもしれないとは、智も思った。
このタイミングで誰もいないはずの部屋の鍵が開くなんてあり得ない。智がたびたび聞いていた怪談朗読にあるオカルトめいた話ならともかく、現実にそんなことはあり得ない。
しかし、智は、この世界の裏にオカルトめいた世界が実在することを知ってしまっていた。
だからそれがあり得るとも、思ったのだ。
宵闇と物陰に身を隠すようにして再び立木の部屋に近づくと、ドアのノブを握る。まるで怪談朗読に出てくる、この世ならざる者に誘われた物語の無謀な主人公がそうするかのように。
ドアノブは完全に下まで落ち、音を立てないようにゆっくりと引くと、智の応え通りにがばりと口を開けるように開く。
開いたドアの向こうには漆黒の闇が広がり、闇の口が智を飲み込もうとしているようにさえ思えた。
「……行ってみるか」
智はこくりと唾を呑み、靴を脱いで部屋の中に侵入する。
いくら友人の部屋とはいえ、留守の部屋に承認もなく侵入するのは罪悪感で胸が苦しかったが、そんな社会規範の逸脱を責める良心を押し殺し、夜闇で塗りつぶされた部屋の中を、智は歩を進める。
狭い廊下兼用のキッチンを数歩ほど行くと、開けた部屋となる。典型的な独身者向けのアパートの部屋だ。壁に手を当てながら、窓から差し込む僅かな明かりを頼りに智は障害物を避け、進む。
部屋の中に入って、部屋の匂いのなかにあの香の、白檀と甘ったるい南国のフルーツが入り交じったような匂いが混じっているのに気が付いた。
おそらく、立木も何度かこの部屋であの香を焚いていたのかもしれない。
智はスマートフォンを取り出すと、カメラのフラッシュをライトモードに切り替え、目の前を照らす。
スマートフォンの青白いLEDに照らし出されたのは、記憶の中の立木の部屋と大して変わりのない、床にはゴミや着替えなどといったものが何一つ転がっていない、大学生の一人暮らしにしては少々整然としすぎた、几帳面な立木らしい部屋の姿だ。
ベッド、テレビ、そこに繋がれたゲーム機。大学の教科書や小説の類の詰まったカラーボックス、卓袱台と言ってもいいくらいの小さく簡素な食卓テーブル。それと対象的に立派な書き物机とその上のノートパソコン。そしてノートパソコンの脇に置かれた、潰れた水滴型をした陶器製の白い香炉。
きっと立木はこの香炉で反魂香を焚いたのだろう。
「ん?」
香炉の脇に、何かの本が二冊、置かれていた。
智がスマートフォンのライトを向けると、その題名が露わになる。
「『
『憧憬』と大きな文字で書かれた、その下に智の通う大学の名前と『文芸部 部誌 第138号』という文字の書き記された、カバーはないものの立派な装丁の冊子。
そしてもう片方は、立派な洋書を模したような装丁で『DIARY』と書かれた本。十中八九、この部屋の主の日記だ。
『憧憬』を手に取ると、つん、とあの香の匂いが鼻につく。
どうやら相当香の近くにおいておいたらしい。
焚きながら読んだのか、それでなければ、これを香で炙ったのか。だが、何故。
「ききき」
智の背後で、いきなり誰かが笑い声を上げる。智はその声が耳に入った瞬間、びくりと全身を硬直させた。
警察か近所の人間、そのどちらかが部屋に入ってきたのだろうか?
いや、ドアの開く音は聞こえていない。それに、生きた人間ならばまずは自分のことを誰何してくるはずだ。
「きききき」
甲高い、子供のような声が、また智の後ろから聞こえてくる。
こんな夜中に、しかも立木のアパートに子供など居るはずがない。そうなると、後ろで声を発しているのは何者なのか。
怪談ならばきっと、幽霊か妖怪の類だったろう。だが今の智にはもう一つ、思い当たる節がある。そしておそらくそれならば、ここに居る理由も辻褄が合う。
智の頭は不思議とパニックにならず、冷静に、声の主が何なのかを分析していた。
そして、こくりと唾をを飲むと、意を決して体を捻り、声のする方にスマートフォンを向ける。
「きききき」
スマートフォンが照らした先、そこには真っ黒い子供ほどの背の『何か』がいた。
周囲の闇と同化し、スマートフォンのLED光すらその場で吸収してしまうような漆黒色のそいつは、頭には髪も目も鼻もなく、ぐわっと大きく開いた口元から「ききき」と笑い声を漏らしている。
そしてそいつの右手と思しき部分は薄く平べったく、大きな刃物のようになっていた。
その右手を見た時、智はとても嫌な予感がした。
「きききき」
そいつは、智の思ったとおりに右手を思い切り振りかぶる。智は「うわ」と叫びながら倒れるように後ずさる。
そいつの刃物状の右手は先程まで智が居た位置の空を切って、合板の書き物机に突き刺さり、立木の日記ごと机を鋭利に両断してしまった。
こいつはヤバい。あれで斬られれば、おそらく命はない。
智の頭の一部分では他人事みたいに判断していたが、いざその刃物状の右手の威力を見せつけられて、心臓の鼓動が跳ね上がって、口から悲鳴が漏れそうになっていた。
智はまだ光を発したままの携帯電話をウィンドブレーカーのポケットに突っ込むと、そいつから遠ざかろうと徐々に部屋の中を後ずさる。
鼓動がうるさい。口からはいつもより温度の高い変な息が漏れ、全身から汗が吹き出して体温が奪われるような錯覚に陥った。
智は足を擦るようにキッチンまで下がるが、ウィンドブレーカーから漏れた光が映し出すそいつは口元を歪めながら、徐々に智との間合いを詰めて迫ってくる。
「ききき」
そいつは見せしめのようにぶん、と右手の刃物を振り回す。金属の擦れる音を立ててキッチンシンクの脇に置かれた背の低い二段冷蔵庫に鋭い傷が入り、そいつはまた得意げに右手の刃物を掲げた。そんなことをしなくても智の身体は恐怖で縮み上がっているというのに。
「うわ、うわあ」
玄関の三和土を踏み外しそうになりながら、智は玄関扉のところまでずり下がっていた。もはや靴を履いている余裕など無く。後ろ手でなかなかドアノブを下ろそうとして、なんとか外に出ようと必死だった。
暴れるように跳ねるLEDに照らし出されているそいつはついに玄関までやってきて、刃物状の右手を智の鼻先まで持っていく程にまで近づいていた。口元は相変わらず歪み、そこから鮫のようなぎざぎざの歯が覗く。
何から何まで、智に害を為そうという意志がそいつからは感じられた。
「うわ!」
智がノブと扉に体重をかけたまま、急にぐわっとドアが開く。
智はまた倒れ込むように――いや、急に開いたドアに対処できないまま、軒先のコンクリートの上に倒れて尻餅をつくかたちとなって、外に放り出されてしまう。
「ききききき」
そいつはそんな智の姿が面白いのか、それとも智が好都合だと思ったのか、鮫のような歯を合わせて笑う。月光と街灯の明かりに照らされたそいつは、室内で見た時以上に禍々しい黒に映る。
「ききき」
そしてそいつは、ぎざぎざの歯をむき出しにして笑いながら、また智に見せつけるように右手を振り上げる。
今度は逃さず、確実に智にむかって振り下ろすつもりだと言わんばかりの間合いで。
智は意味がないと頭のどこかで解っていながらも、とっさに右腕を身体をかばうように突き出してしまう。
「……急急如律令。土剋水、土の気をもって水気の式を穿たん」
誰かの落ち着き払った声が高らかにそう宣言したと思うと、智の右の視界の外から、びゅぅ、と重い夏の空気を切りさいて光の閃きが飛んで、そいつにぶち当たる。
そしてそいつは次の瞬間、綺麗さっぱり智の眼前から消え去ってしまった。
代わりに視界に入ってきたのは、昼間見たままのワンピース姿の犬童桜。その片方の腕には木でできた半球を乗せた将棋盤のようなものを乗せている。
「堀池さん、危ないところでしたね」
彼女は将棋盤を持っていない方の手を智の方に差し出す。華奢すぎて逆に智の方が心配になるような腕。智はそれを取って、抜けかけた腰を奮い立たせて無理やり立つ。
「……犬童さんはどうしてここに?」
「ええ。
桜は片手に乗せた将棋盤に視線を落とす。
「ああ、そう……」
ようするに、それのおかげで智は行く先々で桜と遭遇したわけだ。と、智は、その奇妙な将棋盤もどきを見下ろしながら理解した。
「ところで、何故あれに襲われていたんですか?」
「ああそうだ……立木の部屋に入って、文集と日記を見てたらあいつに襲われて……」
「文集っていうのは、それのことですか?」
智は、桜に言われてはじめて、片方の手に文集を持ったままなことに気がついた。
「ああ、これです。これを見てたらあいつが後ろに立ってて」
そう言った直後、立木の部屋でない二、三部屋の玄関の電気がぱっぱっと点き始める。バイクで乗り付け、居るかどうかを確認した後に、あいつのせいでドタバタと煩くしたのだ。他の住民が不審がっているのだろう。
「……とりあえず、長居はできませんね。」
そう言うと桜はその場からそそくさと離れる。
智も文集を鞄に突っ込み、玄関に置きっぱなしだった靴を慌てて引っ掴んで、玄関の扉を閉めると、バイクの元に駆け寄って、靴を履いた後にバイクを押して、立木のアパートから立ち去ったのだった。
警察に通報されないことを祈りながら一丁ほどバイクを押し、スマートフォンのライトがつきっぱなしだったことに気づいて消したところで、再び桜が目の前に現れる。彼女はバイクを押す智に並ぶようにしてともに歩き始めた。
「一応お気づきでしょうが、あれは陰陽術で作った式神です。おそらく立木さんが仕掛けたトラップか何かでしょう」
「でしょうね」
立木には悪いが、他に考えられない。おそらく部屋に立ち入って反魂香について調べようとした者を襲わせるために配置したんだろう。
そしてあの鍵も、反魂香について立木を尋ねた者を誘って、式神に襲わせるための罠だとすれば説明がつく。
用心深いが恐ろしく余裕のない行為だ。もし彼の部屋に入ったのが自分のような侵入者や陰陽師でなく、警察や大家だったらと考えたら危なくてとても出来る行為ではないだろう。
「でも何故立木さんの部屋に?」
「自分でも気になったんですよ。あいつがなんで反魂香に手を出したか」
「そうですか……お昼は関わりたくないと言っていたはずですけど」
「……犬童さんの話を聞いて、自分だけずっと部外者を気取るのも出来ないなって思ったんです」
智は街灯に照らされながら、桜の方を向いてぶっきらぼうに言う。
「本心はやっぱりあいつの重たい感情を受け止めるのは怖いですし、無理だと思いますよ。ただ犬童さんの話を聞いてたら、俺も関わらないことを免罪符にして、あいつのことを見逃し続けるのは良くないかなって思って」
「友達思いなんですね。堀池さん」
「そんなんじゃありません、ただ自分の筋が通るか通らないかですよ」
智はそういったものの、照れ隠しのために張った意地も結局は桜に見透かされていそうだと、心の奥底では感じていた。自分より年下のこの小さな女性は占いでも何でも使って、全てお見通しと言った感じなのだから。
「……まあ、立木の日記はさっきのあいつに駄目にされて、文集しか残ってないんですけどね」
智は歩を止め、鞄の中から文集を探し出すと、それを桜に見せるようにひらひらと揺らす。何の変哲もないが、反魂香の匂いがしっかりと染み付いているその本を右に揺らした拍子に、ページの隙間から何かがひらひらと舞い出てくる。
「あ」
智がそれに気づいて声を上げた直後、それの存在に気づいた桜が微風に乗り、地面に落ちる寸前のそれを掴み、拾い上げる。
「写真……ですね」
桜はそう言うと、小走りで智の横に並んで、拾い上げた写真を見せてくる。
「堀池さん、この人に見覚えがありますか?」
桜の問いに智は写真へ目を凝らす。写真もまた、染み付いた香の匂いがつんと鼻をついた。
季節はおそらく夏。どこかの居酒屋の小上がりの席で、赤ら顔で満足そうに頬杖をつく立木の横に、彼の肩に腕を回す半袖姿の、快活そうなショートヘアの女性の姿があった。
だが、智にその女性は見覚えはない。それに立木と一緒にこんな店に飲みに行ったことも無いので、多分文芸部のメンバーなのだろう。それならば智と接点が無いのもうなずける。
「……いえ、俺の交友関係には居ません。立木の文芸部の知り合いなんだと思います」
「そうですか」
「……ただ、暗いとこなので、わからないだけかもしれません」
桜は再び文集の中に写真を差し込む。智も文集を鞄の中にしまうと、ちょうど河原町通に出るところだった。
智は桜の方を少し見て、ややあってからバイクに跨ると、スターターを蹴る。野太いアイドリング音が夜の京都の街にこだまする。
「それじゃあ、今夜はこれで。助けてくれてありがとうございます」
智はホルダーからヘルメットを取って、被る。
「堀池さん。もし今度何かあったら、ここに連絡をください」
そう言って桜は名刺のようなものを差し出す。それをウィンドブレーカーのポケットに入れると、智は彼女に一礼をして、車の流れのない河原町通へ躍り出るのだった。
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