ビビリの智と陰陽師 -3
翌日、朝日の差し込む部屋の中で智は着替えを終えた後、昨日のことを思い出す。
と言うよりも、またあのスーツ男が現れるんじゃないかという恐怖で一晩中消すことの出来なかった蛍光灯を朝一番に消灯してからずっと、思い出さざるを得なかった。と表現した方が正しいのかもしれない。
テーブルの上はパソコンの電源が切れている以外は昨日取り乱したときのままに保たれており、フィルターにまで火が回りそうになった状態で消した煙草とあのお香の残骸が灰皿に残り、そして近くにはジッポライターと例の缶が何事も無かったかのように鎮座していた。
まだ微かに震える指で例の缶を手に取る。
その瞬間に蓋の内側から甘い香りが漏れてきて、昨日のあのスーツ男の恐怖を思い出させる。
『反魂香』
怪談朗読の語り手が読み上げた題名が頭の中でさっと過ぎる。
「これが、まさか本当に……」
缶を上から下から矯めつ眇めつ、それでお香の正体が分かるとも思えなかったが、智はそうしていられずには居なかった。
立木は完全に連絡を断っているらしく、昨日から電話もLINEも応答することがない。
確認のためにもう一度焚くという選択肢も頭に浮かんだが、スーツ男がまた後ろから現れて『おい』と声をかけてくるのを考えたら、恐怖感に負けてすぐにその選択肢を頭の中で放り投げた。
そして少し考えてから、智は最終的な解決法を思いつく。
そのまま歩いていって、チェストの上から二段目の段の引き出しを開ける。預金通帳とか、なにかの契約書とか、バイクやアパートのスペアのキーとか、要するに重要なものばかり入ってるが滅多に開けないような引き出しに缶を放り込む。
そして大きく深呼吸をした後に、引き出しを押し込んだ。
「もう、忘れよう」
それが智の思いつく限り、最良の解決法だった。
昨日の夜のことは忘れるように努めて、缶のことも出来るだけ忘れることにして、返す時に立木にも真相を聞くこともしない。
ずっとあのお香のことを気にかけ続けたり、もう一度お香を焚いたり、お香を焚いたことを立木に話し、さらに立木を問い詰めるより、精神衛生にも友情にも良いはずなのだ。
そう思い至った智は鞄を手に取る。
朝早く、大学の最初の講義にはまだだいぶ時間があるが、このまま部屋に居てもあの缶が気になって仕方がなくなりそうで……そしてあの缶の気味の悪さに、すぐにでも出て行きたかった。
「……行こう」
今日の講義の教科書、スマートフォン、ジッポ。チェストの方は絶対に見ないようにしてすべてを詰め込んで部屋を出る。
バイクの鍵とヘルメットを取らなかったのは、今ほど動揺している時にバイクに乗るのは危険だと自分の勘が告げていたからだ。
部屋を一歩出ると、目に痛いほど澄み切った青空と、寝坊の多かったここ数日は直に浴びたことのなかった夏の朝の日差しに目をぱちぱち瞬かせる。
外はまだ朝だと言うのに既に蒸し暑い。
こんなに良い天気に朝から沈んでいた自分が情けないと思いながらも、普段なら駐輪所に向かっている足を道の方に向ける。バイクは今日は留守番だ。
そこで智は自分が朝食を摂っていないことに気がついた。
家と言って今は部屋に戻る気も起きない。
「どっかで食っていくか」
とは言え智のボキャブラリーは少ない。大学の近くにどこかのチェーンのファストフードが近くにあったか、最悪大学の生協でおにぎりでも買って済まそうか。
そうやって朝食に頭を巡らせにわかにあのお香のことを忘れながら、千本通に出てバスを待つ。
普段は雨の日くらいにしか使うことのないバス停は見るからに暑そうなビジネススーツ姿の男女や制服姿の学生の姿がちらほらと見えていて、智はスーツ姿の中年男を見て内心心臓が跳ねる思いをしながらも見た目は平静を保つように心がける。
やがて201系統の市バスがやってきて、智はそれに乗り込む。車内は存外に空いていて、智は窓際の席に座ると肘掛けに肘を乗せて、なかなか進まないバスに身を委ねた。
夏の強すぎる日差しは麗らかさや眠気を誘うどころか逆に覚醒を促してくる。バスの強い冷房も相まってうとうとする事もできやしない。
窓際に座ってしまったのは間違いだったかと感じてしまうが、今更動くことも出来ない。仕方ないので目を伏せて床に視線を落とし、ぼんやりと思考を止める。
暫く経ってバスはおもむろに停車する。
智が伏せた目を上げると、ブザーと共に扉が開いて私服姿の少女が乗り込んできた。少女はちらりと車内を一瞥したかと思うと、智の隣に腰掛けてくる。
一人がけの席はまだ幾つも空いているのに、不思議な女の子だ。と智は少女を盗み見る。
ワンピース風の紺色の服に身を包んだ少女は背格好からして高校生と言った感じか。もう高校は夏休みに入っているはずだから、どこかに遊びに行くのだろう。
「あの」
少女がこちらを向いて、おもむろにそう声を上げる。
盗み見たのがわかってしまったのか。と智は焦ってしまう。そこまでジロジロと見たつもりはなかったはずだが、ひょっとしたら少女の気に障ってしまったのかも知れない。現に智を見つめるやや吊り目がちな少女の視線は鋭く、非難の色に似たものが混じっていた。
「貴方、反魂香、という言葉に聞き覚えはありませんか?」
智の心臓がどくん、とひときわ大きく跳ねて、身体が強張る。予想していたのとは全く別の、そして予想していたよりもずっと面倒な理由で。
智の解りやすい反応を目にして隣に座る少女は目を細め、にやりと口の端を上げる。
「その様子では心当たりしかない……ようですね?」
思わず顔を少女から背け、智は窓外へ視線を向ける。
少女はそれを追って、窓ガラスに反射する智の顔を見つめるようにする。
「答えてください。どこで、誰から、反魂香を手に入れました? 何に使うつもりですか?」
逃げられない。そう感じた智は窓外に向いた視線を無理やり少女の方に戻して、すう、と一息吸ってから質問をぶつける。
「……君は何なんだ?」
「すみません、申し遅れました」
少女は胸の上に手を置き、智の目をじっと見つめながら、口を開いた。
「
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