ビビリの智と陰陽師 -2
『その時だ。俺の首筋を生ぬるい風が吹き付ける。俺は思わず振り向くが、そこは変わらず静まり返った―――』
この語り手氏は感情や妙なアクセントを込めずに淡々と話を語るので、智のお気に入りだ。情感たっぷりにいかにも怖がらせるような演技をしてくる語り手は智の趣味……と言うよりも性質に合わない。
怪談好きと言ってもその物語を追うことやディティールを楽しむのが好きで、生来の根が怖がりな智にとっては、怖がらせようと妙な声色を使ったり突然大声を出してくるのが苦手なのだ。
『その時だ。ドアが空き、中からそいつが出てきたのだ。そいつは病院着姿の枯れ木みたいな老人で、そいつを見た瞬間俺は―――』
怪談朗読に思考を預け、智はテーブルの上のパッケージから取り出した煙草を口に咥える。そして愛用のジッポを探してテーブルに目を向けたが、無い。
そういや、大学の喫煙所で煙草を吸うために鞄に入れたままだった。智は隣に置かれていた半開きの自分の鞄を開けてしまう。
鞄の中のジッポはすぐに見つかったが、それと一緒に、立木から預かったあの缶も自分の視界に入ってきた。
缶は当然ながら、預かったときの無機質な装いのままで、雑然と散らかった鞄の中でそれだけが異質に浮いていた。
見つけてしまった。智はそんなふうに思いながらジッポを取り出し、火を灯して煙草の先端を炙る。そして煙草の先端に赤橙の炎が灯ると、智はテーブルの上にジッポを置く。
「どうしたものかなあ……」
ふう、と煙を吐き出し、鞄の中に手を突っ込んで缶を手に取る。
中身はただのお香であることは解ってはいたのだが、それでも単なるお香と割り切れない不気味な感じがした。
立木はなにを思ってこのお香に神経を払って、そして智に預けたのだろう。そしてこのお香にのどこに立木は、空き巣を警戒して神経を払うほどの価値を見いだしたのだろう。
考えれば考えるほど、ただのお香とは思えなくなってくるのだ。
それこそ、このお香と立木がネットで語られた怪談のナラティブをなぞっているような気がするのだ。
「……変なこと考え出したら薄ら寒くなってきたな」
それに、聞いていた怪談も半分は聞き逃していた。
結局廃病院に忍び込んだ怪談の主人公がどうなったのか、智は少しだけ気になったものの、再生バーを戻すこともせずにそのまま次の話を聞くことにする。缶をテーブルの上に置くと、灰皿の上に置いた煙草をもう一度深く、呑む。
顔も知らない語り手の青年が、あの平板な声で次の怪談のタイトルを読み上げる。
『
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
なんでわざわざタイミングよく、そんな題名を読み上げてくれるのか。反射的にテーブルの上の缶に入ったお香を見てしまった智は、先程より更に冷たいものを感じてしまう。
冒頭の言葉も耳に入らない状態で智は慌ててマウスを動かして、ブラウザのタブを消す。そうしないと頭がおかしくなりそうだった。
はあ、はあ、とわざと喉を開き荒い息を吐いて気分を落ち着かせる。最後に儀式のようにもう一度煙草を深く呑んで、完全に呼吸を落ち着かせた。
そして、改めてテーブルの上の缶に目をやる。
「まさか、そんなことは無いよな」
冗談を茶化すような高い声色でそういうが、智の唇の端は震えている。智の耳の中では『反魂香』というさっきの読み手の声が離れないままだ。
「こいつが本物の反魂香……な訳はないだろ。あれは創作だろ?」
智もオカルトを齧っているうちに、反魂香がどんなものだかは朧気に知っていた。
落語の題材にもなった、死者の魂を現世に蘇らせる伝説の香。それが反魂香だ。だけどそれは創作で、現実にそんな物があるわけがない。
しかし、もし反魂香だとしたら。それならば立木のあのお香を妙に心配する態度にもなんとなく納得がいってしまうのだ。わざわざ人目を避けたところで香を出したことも、あんなに色々と理由をつけて預けようとしたことも。そして最後のあの不可解な一言も……。
「いや、そんなファンタジーがあるわけないだろ」
そこまで考えて智は、自分で想像を打ち切って、無理やり現実的な方向へと想像の転轍機を変える。
「そうだよ。あいつスピ系の業者に反魂香とかそれっぽいお香を掴まされて、それを信じちゃってるんだ。立木結構素直な所あるから、スピ系信じちゃって言いくるめられて騙されちゃったんだろうなあ……ハハ。スピリチュアルなんて余裕のなくなった奴か不思議ちゃんの手ぇ出す分野なのに、何やってんだろうな、アイツ」
智はわざとらしい高い声色で、わざわざ誰かに説明するような言い振りで、そう口にする。口にすることで無茶な、だが限りなく現実的な方に寄せようとした言い訳を自分に言い聞かせているのだ。
「そうだ、それじゃなきゃハーブだよこれは。今はまだ合法になってるハーブ。そのうち違法に指定されるけど、今はまだ合法の……そうだよ、スピリチュアル系ってそういうのにも手ぇ出しかねないって言われてるもんな。うん」
そう言って一人うんうんと頷く智。しかしその目は缶から離れないまま、それどころか凝視していた。そうしないと今にもお香の蓋が勝手に外れて、中から幽霊の手が出てきそうな錯覚に陥りそうだった。
「そうだ。だからこいつは普通の……それじゃなかったら今はまだ合法のハーブだ。そうに決まってる」
一人で納得したフリをする智は、しかし、その実心中では何一つ納得などしていなかった。
無理やり現実性をもたせようと切り替えた転轍機の先の線路を、想像は上手く転がってくれない。それどころか転がそうとすればするほど、ファンタジーと切って捨てた反魂香の可能性の方ばかりが膨れ上がり、『現実性のある想像』を食ってしまいそうなのだ。
正体はわからないとは言え、たかが手のひらに収まる程の缶の中に入ったお香。そんなものを怖れてしまっている自分がいる。
智はとにかくその恐怖を振り払いたかった。
頭の冷静な部分がかろうじて保っている自分自身のプライドと、心の奥底が感じ取っている恐れのためにも。
そうだ、一摘みだけでも調べて、焚いてみればいい。
智の頭を突如として大胆で、それでいて危うい考えが過る。
一摘みだけでも焚けば、このお香の正体だって解るはずだ。所詮只のお香のはずならば、焚けば全てがわかる。それに一摘みならば立木にだってバレやしない。
智の小刻みに震える手が缶に伸びる。
本来こういう時に智の理性が智自身の無謀な衝動を止めてくれるのかも知れないが、この衝動だけは理性も味方した。
智の理性も、この恐怖を拭い去りたくて、どうしようもないのだ。
きゅぱ、と音を立てて缶が開く。その瞬間、自分の匂いで満たされていた蒸すアパートの自室に仏前と甘い南国の香りが入り混じった不思議な匂いが突如現れる。
震える指の先がゆっくりと、一摘みだけ香を取る。汗ばんだ指先にお香の欠片がいくつもくっついてしまったがそれを気にできる余裕はなかった。
智はそれを鼻の近くまで持っていき、嗅ぐ。
むっと甘いフルーツ臭が鼻をついたが、それ以上のものはない。
「焚けば、全部わかる」
智は自分でも無意識にそう口走ると、陶器の灰皿のまだ灰の無い部分にぱらぱらと香を落とす。指の腹についたものも指を摺り合わせて落として、一旦缶の蓋を締めたあとに、その手をテーブルの上に置きっぱなしのジッポに伸ばした。
親指を軽く弾くと、きん、と音を立ててジッポの蓋が開く。蛍光灯の灯りを鈍く反射するジッポの蓋をしばらく見つめた後、智はダイアルを親指で思い切り擦る。
ダイアルと火打ち石が擦れて火花を上げたと思うと、ジッポに火が灯った。智はそれを持ち替えて、注意深く火を灰皿の中のお香に近づける。
火が灰皿の底とお香に接して、音もなく、灰皿の中から煙が上がり始める。それとともに仏前のような、南国のような不思議な香りはより一層強くなり、煙草と汗の匂いの染みた自室を覆い尽くさんばかりに香り始めた。
「一摘みでこれか」
ジッポの蓋を閉じて火を消し、智はぽつりとぼやく。
炎に燃やされたお香からは一条の煙がゆっくりと立ち上ってゆく。
同じ灰皿の中で立ち上っている煙草の煙よりも時間をかけて、しかしもったりとした印象はなく、優雅さすらあった。
何が起こるか、智は息を呑んで注意深くその煙を追う。
白い線のような煙は十数秒をかけて天井まで昇り、蛍光灯の明かりと同化しながら半円形のシーリングランプに当たって四散する。
ただ、それだけだった。
煙の中から幽霊が出てくるとか、酩酊感覚に襲われてしまうとか、智が頭の中で想像していたような、そんな事態には陥ることもなく、ただ言い表すのが難しい不思議な香りとゆったりと立ち上る煙だけがその香を焚いた結果だった。
「なんだ、ビビって損した」
智は緊張で喉につかえていた空気をふう、と吐き出す。気づけばまだ握っていたままだったジッポをテーブルの上に置く。
まだ喉元が息苦しい気がして、智は襟を引っ張って深呼吸を一つする。
そして開いたままのノートパソコンに再び目を落とす。モニターには動画サイトのトップページがぼうっと浮かんで居て、その中でなにかのコマーシャル映像で動物が漫才を繰り返している。それが智には何故かおかしくて、くく、と笑いがこみ上げてきた。
「まあ、当たり前といえば当たり前か。立木なんかにそんな危ないもんが手に入ってたまるかって話だしな。平凡が服着て歩いてるような奴だし……」
『おい』
耳元から、低い男の声がした。
智は飛び上がりそうになる。この部屋に男は……いや人間は智だけだ。他に声を発せる者など居るはずがない。唯一智が耳にかけたままのヘッドホンがあるが、低い男の声を流すようなものなどパソコンのどこにも存在しない。
「ど、動画の誤再生だよ。きっと」
震える声で、希望的観測を絞り出す智。
『おい』
十数秒ほど経って再び、あの声が聞こえる。低く、酷く陰気な、まるで死人の声。
「動画の誤再生、誤再生に決まってる」
誤再生など絶対にありえない。さっきから恐怖感から目を皿にして目に映るパソコン画面を見ていたが、音を発した印などどこにも存在しないのを知っているからだ。それでも恐怖感を退ける呪文のように誤再生、という三文字を頭の中に刻み込む。
『おい』
三度目の声。
それと同時に冷たく、湿っぽいものが首筋から背筋の方へと垂れていく感覚を覚える。
恐怖感にカチカチと歯が鳴る。振り向いたらいけないと智の本能も、理性も、揃ってそう告げている。
もう、耐えられなかった。絶叫とともに逃げ出したい。そしてそのまま部屋から飛び出してしまいたい。そう思っていたが、座っていたままの脚が笑っていて立ち上がれもしない。
『おい』
そいつは、横からにゅう、と智の顔を覗き込んできた。
見た感じ中年の、多分阪急か京阪の駅を探せばいくらでも似たような人間が見つかりそうな外観のサラリーマン風の男だった。
だがスーツの形状はあまりにも時代遅れで、肌には血の気が無さすぎる。蝋のような白さの肌と光のないうつろな黒い目は生きてる人間のそれでないことを物語っていた。
その光のない死人の目が、ぎょろりと智の顔の方に向く。
『おい、ここはどこなんだ』
男の口の動きとともに、なんら遅れること無くその声が聞こえる。
この男が喋ってるのだ。ヘッドホンを貫通する声で、直接。
湿っぽく、陰気な声は『ここはどこなんだ、おい』とまだ絶えず智に訊いてくる。
智はすぐにでも絶叫を上げたかった。
だが、どれだけ叫ぼうと思っても声は出そうにもない。かっ、かっ、と喉の辺りでそれらしい音が出るばかりだ。人間というのは本心から恐怖するとここまで身体が使い物にならなくなるのかと思い知らされた。
『ここはどこなんだ。阪急四条駅はどっちなんだ』
朗読で何度と無く聞いてきたネット怪談なら、ここで叫んで逃げ出すか気を失うかしてこの状況から逃げ出せただろう。
でも、そんなのは創作怪談の予定調和だから起こる出来事で、今の智はそのどちらも選べず、固まったまま、喉に引っかかって声にならない声を上げるしかできない。
『おい……』
何度目かに男がそう言ったと思うと、確かな実体を保っていた男の身体に、すうっと蛍光灯の明かりが差し込む。
それは不思議な光景だった。
男の身体が半透明のビニールに置き換わっているような、パソコンの画像編集でこの空間で男の透明度だけをいじって透明にしているような。スーツ姿の男は徐々に色も姿も希薄になり、透明に近づく。
それに比例してあの『おい』の声量も小さく、そして明瞭に聞き取りづらくなってゆく。
何十秒、いや何分経ったろうか。
男はそのままどんどん透明になってゆき、そしてついには消滅していった。それでも完全に姿が消滅して、あの声が聞こえなくなってもまだ暫くの間、智は恐怖で動けなかった。
外を走る救急車の音でやっと我に返って動けるようになった頃には、お香のあったところには一摘み分の灰が残り、灰皿の中にあった煙草はフィルターの前のほんの少しの部分を残して殆どが灰に変わっていた。
「うわあああああああっっ!」
そして我に返った瞬間、智はやっと絶叫し、座椅子から飛び上がるようにベッドに駆け込んだのだった。布団を被りこむと智は恐怖で震える歯を抑えようと必死になりながら、床に転がした鞄の中から手探りでスマートフォンを探し出し、布団の中へ素早く引き込む。
「立木のやつ、なんてものを渡しやがったんだ」
がたがたと震え立木に毒づきながら、智はスマートフォンを操作する。ぼうっとそこだけ明るくなる布団の中で指先がうまく動かないのを無理に動かして、なんとか立木の連絡先を呼び出した。
「絶対に文句言ってやる、畜生」
発信ボタンを押して耳元にスマートフォンを押し付ける智。
耳にコール音が入ってくると、先程の恐怖とまた違う、じりじりとした焦りが智の心を焦がす。
お香を焚くな、と立木は確かに言った。
約束を破ったのは智だ。だから智に文句を言う権利はないと智は思った。それでも、なにか一言でも立木に告げてやりたかったのだ。
だが、そんな智の願いも虚しく、電話は十数度のコール音の後に、丁寧な女性の声で『おかけになった電話は現在電波の届かない所にいるか……』と言うお決まりの文句に切り替わるのだった。
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