犬童桜と立木隆 -1
結局昨日の夕刻に立木と立ち寄った喫茶店の、立木と共に訪れた席に智は再び座っていた。先程頼んだモーニングの小倉トースト(これが予想以上に値が張った)を一口齧り、口の中に餡特有の後に残る甘ったるさを覚えるままに智は顔を上げる。
向かいの席に座る智をこの店に立ち寄らせた原因である女性は、ハムとレタスの挟まったサンドウィッチを頬張っている。
目が少し大きく、背もおおよそ一五〇センチに届かない程度しかない、一八歳を自称した彼女は、ともすればより幼気に見せる肩出しのワンピースを着ているせいで、烏丸四条の街になけなしのお小遣いを持って出かける高校に入りたての生徒に見えなくもない。少なくとも大学生や新社会人には見えそうにない風体だ。
そんな彼女は智の視線に気がつくと、すいと顔を上げて視線を合わせる。
「えっと、犬童さん……で良いんですか」
智が恐る恐る訊ねた。
「はい、犬童桜と申します」
女性――桜はこくりと頷く。そのはずみで彼女のセミロングの髪の毛が揺れ、店内の冷房の風に当たってふわりと一瞬揺れる。
「えっと、犬童桜さんは陰陽師、なんですよね」
遠慮がちに、そして陰陽師というワードを気持ち抑えめに智はまた問う。桜は平気で陰陽師という言葉を出してくるが、智は陰陽師という言葉を人前で口にするのが憚られる感覚をまだあるのだ。
「はい。陰陽師です。法師陰陽師ですが」
「ホウシ、陰陽師」
また智の耳には聞き慣れない単語が出てくる。
「陰陽局に勤めていない在野の陰陽師のことを言うんです。占いとか、スピリチュアルで生計を立てたり、陰陽の術で使う呪具を作ったり……ああ、陰陽局というのは全国の陰陽術を管理するお役所なんですけど」
「はあ、そんなものがあったんですね」
「ええ。普段は一般人の目に触れないようにいろいろ偽装されているんですが」
智ははあ、と再び生返事で返す。と言うよりもそれくらいしか返せる言葉がなかった。
未だに彼女が陰陽師であること自体が半信半疑のままなのに、陰陽師の世界のことをあれこれ語られても信じられるわけがない。そもそも智が半分信じているのだって、今朝のバスの一件と、昨日の立木の不可解な忠告があってのことなのだ。それすらなければほとんど眉唾、或いはスピリチュアル娘の妄想として聞き流していただろう。
それどころか、もし朝の一件すら陰陽師を騙る彼女のデタラメだったら、俺は彼女のデタラメの開陳に付き合って高い朝食代を払い、朝を過ごしてしまっているのだろうか。とさえ智は頭の片隅で考えていた。
智はモーニングセットのコーヒーを啜る。ズズ、と音を立てて含まれたコーヒーは暑さとともに口の中の後を引く甘みをこそぎ落としてくれた。
「ああでも、私も陰陽師の学校……陰陽寮っていうんですけど、そこだけは出てるんですよ。今年の春に卒業したばかりで、まだ新人の陰陽師なんですけどね」
「はあ、なるほど」
何度目かの「はあ」の後に、小倉トーストを再び黙々と口に入れる智。
「えっと。もしかして、信じてもらえてません?」
「正直に言うと、半信半疑です」
それすらもまた彼女を思っての世辞も混じっていて、本当は半分も信じて居ない。
「それなら、これでどうでしょうか」
桜はそう言うと鞄の中に手を突っ込んでしばらくごそごそやってから、ちょうど神社のお祓いで使うような、人型に裁断された和紙のようなものを取り出す。桜はその和紙を持ったままに何かぶつぶつと念じたと思うと、テーブルの上に置く。いかにも呪術的な現場を見せられ智はさっきまで七割近く疑っていた彼女の自己申告がもしかしたら本当なのかと心が揺らいだ。
次の瞬間、派手な音も光も無いままテーブルの上の紙がその場から消失し、代わりに手のひらに乗るほどの大きさの十姉妹がそこに現れていた。十姉妹は短く鳴くとばたばたと騒々しく羽ばたいて、鉤型に曲げた桜の指に止まる。
呆気にとられたままの智に、桜はにこりと笑みを浮かべる。これで信じるようになりましたか? と心の中で言われているような、嫌味がないように見えてそれ自体が嫌味のような、そんな笑みだ。
その笑みを浮かべたまま桜はちょん、と十姉妹に触れると、十姉妹は智の目の前から消滅し、桜の鉤型に曲げた指の少し上の虚空から再び現れたあの人型の和紙が、冷房の風に揺られながらひらひらと舞っていたのだった。
智はいま目の前で起こった一連の出来事に、完全に言葉を失っていた。
トリックだとか、そんな安っぽい言葉で片付けられない超自然的な何かを目の前で披露されて、智の頭は昨日のスーツ男に遭遇したときと同様の混乱を起こしていた。
桜はまだ笑みを浮かべたまま、少しだけ首を傾げている。ひらひら舞っていた人型の和紙がテーブルの上に落ちてもまだ、彼女は無言で智の出方を伺っている。
きっと智が声を出さないと、桜は納得しないということなのだろう。まだ冷静を保っている智の頭のいち部分がそう告げる。
そして智は口を開いた。
「……信じる。信じますよ」
「ありがとうございます」
例のそれ自体が嫌味のような笑みを崩さないまま、桜はそう応えた。
「それでは、陰陽の術を信じてもらった所で本題に入らせてもらいますね」
桜は笑みを崩し、やや大きな目を細めた真剣な表情で告げる。彼女の少し高めなソプラノも低みを帯びている。
「今、堀池さんの周囲には、見鬼の才のある人間にしか見えませんが、白い霧のような思念霊の残滓が半端に漂ってます。これは霊を呼び寄せる術やそれに類するものを行った痕跡です……そして、あなたの服からは反魂香特有の白檀のと果実風の甘い匂いも同時に漂っていました。つまり、あなたが反魂香を使ったという証拠です」
そして一呼吸置いて、桜は再び強い口調で智に訊ねる。
「堀池さん、あなたが反魂香について知っていることを全て話してください」
智は無言で深く頷き、口を開く。唇が緊張と罪悪感に似た後ろめたい感情で重く感じた。
「昨日です。この店で友達から預かって欲しいと言われて、お香を預かった……やたらお香に拘っていたし、『陰陽師に気をつけろ』なんて言われたりもしたから俺も変な話だと思ってました。それで帰ってたまたま反魂香って言葉を聞いて、もしかしたらこれがって思って試しに焚いてみたんです」
「反魂香って言葉をたまたま聞いた?」
「ユーチューブの怪談朗読で」訝しむ桜に、智が言う。「好きなんですよ、あれ」
それに「ああ」と納得する桜。
「わたしもよく怪談朗読を聞いてます。暇なときに自分の事務所で」
「事務所なんてあるんですか」
「自分でそう呼んでいるだけなんですけどね」
桜は少しばかりおかしそうに微苦笑したかと思うと、すぐに再び表情を整えて、また智に問うた。
「焚いたというのは、どれくらい?」
「灰皿に一摘み、ジッポで火を点けて……そしたらスーツ姿の幽霊が出てきたんです」
話してみて、急にまたあのスーツ男との遭遇のことを思い出した智は背筋と腕が寒くなる感覚が走り始める。もしあれが呪いをかけてくるとか、憑いていて悪い影響が出るとか、怪談のストーリーを楽しんでいるとどうしてもそういうことを考えてしまう。
「たぶん典型的な思念霊ですね」
ばさりと桜はそう切って捨てた。
「一摘み程度ならそこら辺りに居る思念霊を一瞬見ただけです。一瞬見た程度なら縁もなにもないですし、思念霊は死ぬ直前の思念を再生するだけで悪さはしませんから、そこまで心配しなくても大丈夫です」
そこまで言われて、智は自分が腕を抑えていたことに気がついた。
智は「ありがとうございます」と一度頭を下げる。
「つまり堀池さん自身は本当に反魂香と知らなくて、焚いてみて初めて解ったんですね」
「はい」深く頷く智。
「では、そのお友達が反魂香を実際に手に入れて、全てを知っている……と」桜は顎に親指と人差し指をあてて、ミステリドラマの中の探偵のような格好で目を瞑る。「陰陽師を警戒していて、堀池さんにもそのことを告げたということは、多分陰陽師や陰陽局のことも知っていたということですよね」
ふむ……としばし考え込む桜。先程の事務所という発言も相まって、智は彼女が陰陽師である以前に私立探偵のような何かに見えた。
「で、反魂香自体は今は堀池さんの家にあると」
はい。と智。
「どうするおつもりですか?」
桜は身を乗り出して智に切り出してくる。智自身も少しは予想はしていた展開だった。なので智も桜が切り出してきた時にと予め考えていた言葉で返した。
「友人に返します。俺のものでもないので」
それを聞いて、桜の顔が一瞬で難しい表情になる。なんとなく智が予想していたとおりだった。彼女もまた立木と同様に、反魂香に異様な執着を見せている。
智を一睨みして、あのですね、と前置きしてから、桜は捲し立てるような、責め立てるような口調で智へ言葉を投げかけてきた。
「反魂香というのは陰陽の世界でも製造も所持も禁忌とされている品物なんです。本来そんな力のない素人でも霊魂を呼び寄せられたり、見鬼の才のまったくない堀池さんのような一般人でも霊や鬼の類がくっきりと見えるようになってしまう。ともすれば簡単に死者を蘇らせてしまう。そんな物を野放しにする行為なんですよ。そのご友人がどう使うかはわかりませんが、とにかく危険な代物なんです。今すぐに処分するか、陰陽局に渡すかしないといけないんです。お願いですから私に預からせてください」
次々と責め立てる言葉を浴びせられて、智は彼女に明確な反感を覚えていた。突然呼び止め、自分の知らない世界の話を浴びせたと思うと、友人から預けられたものを渡せと居丈高に迫ってこられたのだ。もともと彼女に抱いていた一抹の不信が語気を強くして言葉を返す。
「陰陽師の世界のことはよくわからないですが、友人の物を見ず知らずの人間に諭されてどうこうする気は無いんです。友人に預かってくれと言われたからには、友人に返します」
「そんなことで反魂香を野放しにするなんて出来ません、渡してもらいます」
「渡せないって言ってるでしょう」
智は目の前の陰陽師に反抗するようにコーヒーを啜りだす。
だいたい素性も定かでないこの陰陽師に渡したとして、後で立木になんと説明すればいい。素性のわからない陰陽師の女に持ってていけないものだから渡せ渡せと催促され、渡したと言えばいいのか。既に反魂香を興味本位で焚いてしまった前科もあるというのに、不義に不義を重ねるのもいいところだ。
もはや話し合いは平行線だ。智はコーヒーを飲み干し、小倉トーストを口に押し込むと鞄の紐を握りしめて席を立とうとする。桜は見るからに不機嫌そうに智の方を見上げてきたのだが、しかし智だって思っていることは同じだ。
桜には悪いが、智にもこれ以上話し合うことはない。
「それなら」立ち上がりかけた智を前に桜が口を開く。「こうしましょう。堀池さんがそのお友達に連絡して、返す時に絶対に反魂香を使わないで廃棄することを約束してもらって、その上で廃棄に私が立ち会う。これで良いですよね」
彼女も頭を回して考えたのだろう。なんとかして反魂香を処分したいという思いと妥協とを折衷させたような案を持ち出してきて、智に踏みとどまらせようとしているのだ。
だが、智は答えること無く黙って席を立つ。それ自体が桜の提案への答えだった。
突如現れておきながら、いきなり全てを仕切りだしてきた彼女が腹立たしく、彼女の言う通りになど絶対にしたくなかったからだ。
「ちょっと、待ってください。堀池さん!」
後ろから聞こえる彼女の声に振り返ること無く勘定を済ませ、店を出て、烏丸通の対岸の大学に向かう。
その途上で智はスマートフォンを取り出して、智は電話をかけ始める。
ワンコール、ツーコール……十コール目で電話の相手は出る気配がなく、留守電サービスに切り替わってしまったので電話を切った。
『陰陽師を名乗るやつに気をつけろ』
電話をかけようとした相手のその言葉の真意はなんだったのだろう。
彼が智に渡したのが犬童桜が言うような代物だとして、彼は何をしようというのだろうか。そしてなぜ陰陽師を恐れていたのだろうか。やはり犬童桜の言う陰陽師の役所を警戒してのことだろうか。
「……考えてもしょうがないか」
智は校舎に足を向けて歩みだした。
四講目が終わり、智がそのまま大学のパソコン室で文学史のレポートを書いているさなか、突如智のスマートフォンが震えた。
一度二度で震えが止まらず、電話だと理解した智は席を立ち、パソコン室の外へと出て着信相手を確認した後に頬にスマートフォンを押し付け、電話をとった。
「もしもし、堀池です」
『堀池、なにかあったのか? 何度も連絡してきたみたいだけど』
電話の向こうにいるのは昨日の夜、それに今朝、何度も連絡を取ろうとした相手。つまるところ立木だった。
もし昨日の晩のままの智だったら立木の声が聞こえた時点で彼を質問攻めにしていただろう。だが今は違う。智は口元に手を当て、一度息を吐いた後に、電話の向こうの立木に小さく、内緒の忠告をするように言う。
「陰陽師を名乗る女に、反魂香を渡せと言われた」
はっ、と短く大きく息を吐く音が耳元で鳴る。電話の向こう側にいる立木の動揺しているだろう顔が、すぐに頭に浮かんだ。例の細縁眼鏡の下の瞳を見開いているのだろう。
『あれは、あの香はどこに!』
「まだ俺の部屋だよ。落ち着け、一旦落ち着け」
『落ち着いてられるか!』
立木の切羽詰まった怒鳴り声が智の耳にきんきんと響く。
『畜生、なんで解った!』
「……俺が少し焚いた痕跡を見つけられた」
『焚いたのか、お前!』
この馬鹿野郎! と矢継ぎ早に、普段の立木から考えられないような罵声が飛んでくる。智も怒られることは少しは覚悟していたが、力強く憎々しげな四語の罵声に驚愕と萎縮で頭がいっぱいになり、すまん。すまん。と繰り返し謝り続けた。
『畜生、畜生。なんのためにお前に預けたと思ってるんだ! 畜生!』
憎々しげに畜生、ともう一度吐き捨ててから、ふうう、と息を吐くのが聞こえてきて、そしてまた苛立たしげな声で智に訊いてくる。
『……なんて名前のやつだ。陰陽局とか祓鬼士って名乗ってたか?』
「犬童桜って、高校生ぐらいに見える女だよ。法師陰陽師だかなんだかって名乗ってた」
『法師ってことは、在野の陰陽師か』
「陰陽術も見せてもらったよ。俺には、ただ探偵ごっこしてるおせっかいな娘に見えた」
智は今朝抱いた率直な桜の印象を立木に伝えた。悪びれること無く悪印象を口にして、智は自分の胸の中に昏く燃える感情が湧き上がってくるのがわかった。
そうか、と立木が言い、一呼吸置いてから、彼は落ち着いた声の調子で智に『あのな堀池』と話し始める。
『さっきは怒鳴って悪かった。あの香は今の俺には絶対に必要なものなんだ。手に入れるためには大金も出した。だから頼む。絶対にその犬童って陰陽師には渡さないでくれ。陰陽局も呼ばないでくれ。頼む。本当に頼む』
いつもの彼の言端にある柔和さがどこにもない、真剣そのものな口調の立木に、解った、解った。と智は応える。
「大丈夫だよ。渡せって言われたけど断った。その陰陽師は俺の連絡先を知らないし、お前の名前だって言ってない。だから立木、大丈夫だ」
再びそうか。と立木は言う。
『だけど、その陰陽師に知られたってことは面倒なことになる。一度、香を返してくれないか』
「いいけど」
『明日の夕方、開いてる時間は?』
「講義のない四時半から六時までの間なら」
『じゃあ五時に地下鉄の烏丸御池駅の南改札で』
それなら講義の合間でも地下鉄で十分往復可能な距離だった。
解った、と言った後に智は「じゃあな。面倒事にしてすまん」と断りを入れてから電話を切る。
電話を切ってパソコン室に戻った後も、智の胸の中にはさっきから渦巻いたままの昏い感情と、ちょっとした痛みが残っていた。
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