ひだまりにひとつ

ヨシダコウ

ひだまりにひとつ

 玄関先で一匹のネズミが死んでいた。

 ぞわっと冷えた感覚が雄輔の背筋をなぞる。

 さっきまで感じていた眠気が一瞬で鳴りを潜め、やるせない思いでその死骸を見下ろす。

 なにもこんなところで死ななくても。

 このまま玄関先に転がしておくのも気分が悪い。雄輔はネズミの死骸を靴で慎重に道の脇にある排水溝のあたりに移動させた。ぐにっとした生々しい感触が靴越しに伝わってくる。

 気分悪い……。

 鼠色の空模様が一層雄輔を滅入らせる。

 まるで自分がネズミを殺して、その死骸を放置したような、奇妙な居心地の悪さが胃の中をぐるぐると這い回っていた。

 



 有馬雄介は不器用な少年だった。

 小さいころから人と仲良くなることが苦手だった。

 周りの同級生たちがまるで息をするように友人と仲を深め、笑いあう姿が、雄輔にとってはまるで空を飛ぶ鳥を眺めるように遠い光景に映った。

 雄輔はなるべく他人の気に障らないようにひっそりと生きていた。そんな雄輔を他人は「優しい子」と評価した。その言葉だけが何に対しても自信のない雄輔の心をかろうじて満たしていた。



 小学4年生の頃、クラスに溝口翔という少年が転校してきた。

 まず目についたのはもじゃもじゃの天然パーマ。その髪型をクラスメイト達にいじられると、翔は言い返しもせず困ったような顔をしているばかりだった。

 クラスの誰かが翔の頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら、「お前ってブロッコリーみたいだよな!」とからかい、それ以来翔のあだ名はブロッコリーになった。

 からかいがいじめに発展するまでそう長い時間はかからなかった。

「うわ、ブロッコリーが来た! ブロッコリー菌が移るぞ!」

 いつしかこんな声が教室中で毎日のように聞こえるようになった。

 一人が言い始めると周りもそれに乗じて言い出す。 

 クラスでも体の大きい男子が翔の頭を乱暴に揺すり、時には通りすがりに肩を殴っていくこともあった。そのたびに翔はぐっと体を丸め、顔を見せないように俯きながらただ小さくなっていた。

 そんな様子を、雄輔はただ見ていることしかできなかった。

 止めるべきだ。そう思っていても芽生えてきた羞恥心の枷が、のど元までせりあがってきた勇気をねじ伏せ、その度に雄輔は自分の不甲斐なさに打ちのめされた。

 そんな自分に相変わらずかけられる「優しい」という言葉がひどく空虚に感じられた。



「このクラスでいじめが起こっている。誰か心当たりがあるやつはいないか?」

 翔が転校してから二か月が経った頃、突然先生がそんなことを言った。

 教室には重苦しい沈黙だけが続く。先生は誰かが言い出すまで問い詰めるのをやめる気はないようで、じっと黙ってクラスを見まわしている。

 沈黙がのしかかってくるようだった。虐めに加担したことなんて一度もなかったのに、まるで自分が一番悪い人間のように感じて息苦しい。

 限界はすぐに来た。

 そこで口を開く意味を雄輔は分からなかったわけではない。だが、それ以上に苦しさから解放されたいという思いで頭の中がいっぱいだった。

「先生。僕、いじめについて知ってます」

 雄輔は自分が覚えている限りのありとあらゆる事実を先生に伝えた。あまりの緊張に周りが雄輔にどんな反応をしていたかまで気を配る余裕はなかった。ただ、居心地の悪い解放感と後悔でバクバクと心臓が高鳴っていたことだけは鮮明に覚えていた。




 次の日、雄輔が学校へ来ると靴箱の名札がマジックで塗りつぶされていた。あるはずの上履きも無くなっている。雄輔はいじめの標的が自分に変わったのだと悟った。

 翔は半月もしないうちに逃げるように転校していった。

 元々いじめが発覚した時点でそれ自体は決まっていたのだろう。転校するその最後の日まで、翔は一度だって雄輔と目を合わせることはなかった。

 クラスメイトは雄輔の横を通るたびに椅子を蹴っていく。まるで自分が道端に落ちている空き缶か石ころみたいだと雄輔は感じた。

 いじめられるようになってしばらくすると、家族も雄輔の状況を察したのか、度々学校の様子を聞いて来るようになった。そのたびにごまかすのが面倒で、次第に雄輔は空いている時間は部屋にこもるようになっていった。

 部屋にいるといろいろなことを考えた。自分はどうして生きているのか、どうしてこんなことになってしまったのか、何が間違っていたのか、どうして、どうして、どうして……。




 高校は少しでも見知った顔から離れたいと思って地元から遠い場所を受けた。

 環境が変われば何かが変わる、そんな期待もほんの少しだけあった。

 話しかけられる人間には誰にでも話しかけた。遊びの誘いには積極的に参加した。周りのノリや趣味に慣れないなりに必死に合わせた。

 

 気が付くと、雄輔は一人になっていた。


 なにが悪いのか雄輔には分からなかった。いつの間にか雄輔の知らないところでクラスメイト達は仲を深めており、雄輔には入る隙が無い。知らない話題で笑いあうクラスメイトの周りには見えないガラスの壁が高くそびえたっているように見えた。

 ああ、ここにも僕の居場所はないんだな。

 雄輔はこの瞬間本当の意味で人と関わることを諦めた。





 電車を待つホームで、雄輔はスマホをいじっていた。

 目の前に立つスーツの男が落ち着き無くきょろきょろとしている以外は変わり映えのしない日常。

「一番ホームに電車が参ります」

 アナウンスが聞こえて顔を上げる。

 遠くの方から徐々に電車の影が大きくなってくる。

 ふと、目の前の男が一歩前に出た。

 まだ電車は到着していない。

 にもかかわらず男の足は、一歩、一歩と線路に近づいていく。

 嫌な予感が頭をよぎった。その予感は男の歩みと共に増幅していく。

 まさか?

 焦る思考とは裏腹に、身体は完全に凍り付いていた。

 そして、あと少しで電車が目の前を横切ろうかという瞬間、男の体がくらっと前に倒れた。

 意識が真っ白になった気がした。

 気が付くと反射的に伸びた腕が男の襟首をつかんで強引にホームに引き戻していた。

 勢い余って尻餅をつくと、男もつられて雄輔の方へ倒れてくる。

 男も雄輔も突然のことに顔を強張らせて硬直していた。

「なんで……」

 何が起こったのか察した男が顔を上げる。その骸骨のように瘦せこけた頬と、血走った目から伝わってくる激情が、雄輔の体を磔にした。そして、男は跳ねるように雄輔に掴みかかった。

「なんで助けたんだよ!」

「あ、え……」

 乾いた空気が口から洩れる。自分が何を言われているのかが分からなかった。

「俺は、……死にたかったのに、やっと、やっと死ねると……」

 男は言っているうちにボロボロと涙を溢し、その場に崩れ落ちた。

 呆然としながら彼を見下ろしていると、周りにいた何人かががやがやと何かを言いながら男を引き剥がした。ぐったりとした様子で嗚咽交じりに引きずられていく男を眺めながら、雄輔は時間に置いて行かれたかのように、その場に座り込んでいることしかできなかった

「僕は、そんな……つもりじゃ……」

 そんなつぶやきが自然と零れていた。



 帰り道、いつも通り過ぎる公園に、今朝助けた男性が缶コーヒー片手にベンチに座って空を眺めていた。

 声をかけるべきか、そのまま見なかったことにして去っていくべきか。

 そんな風に悩んでいると、ふいに男の視線がこちらに向く。それから、どちらともなく会釈をした。


「今朝は、みっともないところを見せて申し訳ありませんでした」

「いえ」

 それだけ答えて、無言になる。視界の先では小学生くらいの男の子が無邪気に駆け回っていた。

「全部、うまくいかなかったんです」

 男は、ぽつぽつと語りだした。

「始まりは大学受験でした。その当時私は自分に自信がなくて、それを隠しながら生きていました。大学受験も1度失敗して、2回目なのだから前の希望校よりも高いところを目指さなきゃいけないと勝手に思い込んで手に余る目標を掲げて、結果ボロボロに打ちのめされました。結局入れたのは1年目の志望大学よりもランクの低い大学でした」

 男は手に持った空っぽの缶コーヒーを握りしめる。

「それでも、人生を取り戻そうと、もがき続けました。ゼミ選択。就活。転職。でも、足掻けば足搔くほど、自分の首を絞める結果になって。今では会社の厄介者です。私の居場所はもうどこにもなくなってしまった」

 語る言葉は震えていた。

 その姿を見て、話を聞いて、雄輔は漠然と、きっと、この人は未来の自分の姿なんだと思った。

 変わろうとして、逆流にあらがって、でも前には進めなくて、結果溺れ死んでしまう。そんな未来の自分の姿が、今隣に俯きながら座っている。

「……あなたは、どうなりたかったんですか?」

 雄輔が問うと、男は一度雄輔の顔を見て、それから再び視線を手の中の空き缶に戻す。

「……私は、俺は、認めてもらいたかった。頑張ってる自分を、頑張れなくても頑張っている自分を、誰かに気づいてほしかった。やさしく、頑張ったねと、言ってほしかった」

 きっと、何年も何年も喉元で引っかかっていた言葉が、湧き水のように力なく零れだす。ただ一度の「認めてほしい」が言えなかった男の姿。

 残念だけど、泣いているだけの子供を認めてくれる人なんてこの世にはいない。こちらから救いの手を差し伸べても、向こうから手が差し伸べられることなんてない。それは、今までの人生で、雄輔は胸が苦しくなるほど理解していた。そして多分、この人もちゃんと理解している。だから、何も言えないまま、命を絶つことしかできなかった。

「このあと、どうするんですか?」

「俺は……どうしようかな。君はどうするの?」

「僕は……」

 何も答えられない。答えるべき言葉を持っていない。

「……考えておきます。多分、僕にはまだわからないことだから。わかったら、もう一度その時、ちゃんとお話しさせていただけますか?」

 雄輔がそう答えると、男は曖昧に笑顔を作って、こくりと頷いた。




 家の前に、今朝見たネズミの死骸が排水溝のところに横たわったままになっていた。

 雄輔はそれを暫く見降ろす。

 どうしてか、このままにしておいたらいけない気がした。

「ただいま」

「雄輔、おかえり」

「ねぇ、母さん。スコップとかない? ネズミを埋めてあげたいんだ」

 母に事情を話して園芸用のスコップを借りると、庭の隅にある木の下にネズミを埋めた。

 その盛土の上に傍らに咲いていた名前の知らない花を一輪手折って供える。

 最後に目を閉じて手を合わせ、格好だけの祈りをネズミに捧げた。

 あまりに独善的で不毛な祈りを。

 ゆっくりと目を開ける。暫く黙ってお墓を眺めていると、どうにもおかしな気持ちになってきて、思わず笑ってしまった。

「……何やってるんだか」

 けれども不思議と気分は悪くない。

 去り際に振り返ると、不意に雲間から日差しが差し込み、木陰から洩れた小さなひだまりがひとつ、粗雑な墓を優しく照らした。

 その光景になぜか救われたような気がして、雄輔はいくらか軽くなった足取りでその場を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひだまりにひとつ ヨシダコウ @yoshidakou4489

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ