第39話 その時、鷹は猫と出会った

 ――今からおよそ六年前。

 ロシアの首都・モスクワのとある一軒家に、シーリヴィヤ・ボリーソヴナ・ソコロワという名の少女が居た。

 

 当時9歳のか弱き少女にとって、その日常は地獄に等しかった。

 シーリヴィヤの両親は無名の政治家である。

 いくら発言しても、いくらアピールしても、その存在が他人の耳や眼に入ることは一向に無く、誰からも相手にされることは無かった。

 毎日毎日、成果の現れない仕事の日々。

 悔しさと無念を酒で紛らわし、溜まりに溜まったストレスを、二人は唯一のはけ口である娘にぶつけていた。

 罵声や罵倒は当たり前。暴力の無い日など一度も無く、酷い時には家から追い出され、一日中外に居なくてはならないこともあった。

 何がいけなかったのだろう。何が悪かったのだろう。何を反省しなくちゃいけなかったのだろう。

 涙を流し、痛みの感じる箇所を撫でながら、意味も解らずそんな事ばかり考える日々だった。

 しかしある日、


 少女の日常は、突如として覆されることとなる。


 時計の針が12時を指した頃。今日も今日とて、痛みで眠れずにいたシーリヴィヤは、ベッドの上でふと異変に気付いた。

 毎夜の様に漂ってきた酒の臭いに、妙な物が混じっている。


 ――なんだろう……?


 不思議と嗅ぎ慣れたその臭いに誘われる様に、シーリヴィヤは自分の部屋のドアの前に立った。

 少し開いた途端、ポタポタと何かが滴る音と共に、謎の異臭が鼻を突いてくる。

 何事かと思いつつ、シーリヴィヤは光の差し込む隙間の先に顔を近付けると、


 

 「――а?」


 血みどろの一室で力なく倒れている、両親の姿が目に入った。

 思わず言葉を洩らしたまま、硬直するシーリヴィヤ。

 

 「動くな!!」


 突然、聞き覚えのない声が聞き覚えの無い言語で自分に向かって投げられる。

 言葉の意味も分からぬまま、故障したロボットの様に、ゆっくりぎこちなく首をその方向に向けると、そこには――黒い髪と左眼を覆った黒の眼帯が特徴の少年が、シーリヴィヤに銃口を突き付けていた。


 ――誰?この人……。


 なんで知らない子供が自分の家に居るんだろう。なんで自分は銃を向けられているんだろう。

 なんで両親は血を流し、子供は血の滴るナイフを握っているんだろう。

 沢山の謎が脳内を駆け巡り、数え切れない疑問が頭の中を埋め尽くした。

 足に力が入らなくなり、シーリヴィヤはとうとう崩れるようにその場に座り込んでしまう。


 「動くなと言っている!」


 眼帯の少年がまた何か叫んでいる。意味は当然分からない。


 「まさか娘が居たなんて……。情報に無かったぞそんな事」


 何やらブツブツと呟きながら、引き金を引こうと指を動かす。

 ……が、すんでのところで少年は指を止めてしまった。

 震えている。

 床に尻を着けている自分の体も抑えきれないくらいに震えているが、何故か少年の体はそれ以上に震えているように見えた。


 「クソッ……!またこんな……」


 息を荒くし、何度も照準をずらしてしまう少年を前に、シーリヴィヤはどうしたらいいのか困惑していた。

 その時だった――、


 「おーうネコー。そっちも終わったかー?」


 突如として、玄関の扉が開く音と共に、知らない男の声が耳に入ってきた。

 足音はどんどん大きくなり、その声の主が顔を出してくる。


 「んだよ、居るんなら居るで返事くらいしてくれよな。お父さんこう見えて寂しがりやなんだから」

 「お、お父さん……」


 この人は一体誰なんだろう。少年と笑顔で仲良さげに話している様子から察するに、父親か何かだろうか。

 にしては全く似ていない。国籍は同じだろうが、眼、鼻、口、顔を構成する全てが同じ血の通ってる者同士のそれとはとても思えない。

 しかし、どうしてだろう。自分と両親の間にあるモノとは比較にならない程の温かみを、二人の間から感じられる。


 これが普通の親子の姿なのだろうか。


 両膝に生暖かい液体が接触し、寝間着と下着をじわじわと赤黒く染めていくのが分かる。

 目の前に転がっている両親の死体を再び見て、シーリヴィヤは不思議とショックも何も感じなくなっていた。

 悲しいという感情も、ざまあみろという解放感も、何一つその肉の塊に向けられることはない。

 少女の中にある両親との思い出、恨み、殺意、そして僅かばかりの愛。混ざり合い、小さな体の中に凝縮される形で詰まったそれ等全ては、いつの間にか空っぽになっていた。

 その頃、ようやくシーリヴィヤの存在と、彼女に銃を構えたまま静止してしまっている猫丸の現状に、寅彦は全てを悟った後。


 「あー、成程な」


 やれやれと肌色が顕となった頭を掻きながら、耳に装着したインカムのスイッチを入れて、


 「こちら『黒虎ブラックタイガー』。『キャット』との合流に成功。標的ターゲットのロシアン・マフィア『ムシィ』と内通していたとされるソコロフ夫妻の遺体を確認。――任務完了」


 通話先の相手から「了解」の返事が届くや否や、体の向きを180度回転させ、その場を立ち去ろうとする。


 「お、お父さん?」

 「今日の俺達の仕事はマフィアとソコロフ夫妻の暗殺だ。その子供は標的ターゲットに含まれていない」

 「でも、見られちゃってるし……」

 「仕事はもう終わったんだ。これ以上の殺しに必要性は無ぇ。分かったらとっとと帰んぞ」


 再び扉を開ける音がし、男の気配がその家から消える。

 指示に従い、少年も銃をホルダーに仕舞うと、


 「…………」


 一度だけ、血に染まった床に座り込んだままの標的ターゲットの娘を見て、何とも言えぬ表情を浮かべたまま、自分もその場を後にしようとした。

 すると、


 「ждать待って‼」


 ふと、少年の耳にギリギリ届かない声量で叫ぶシーリヴィヤ。

 どうして声を上げたのか、どうして止まるよう求めたのか。自分のした行動に、彼女は答えが出せないでいた。

 さっきまで力の入らなかった筈の足が、全力で体を持ち上げる。

 両の足は交互に前へと進みだし、一心不乱に少年の後を追い。

 今にも視界から消えてしまいそうな彼を見失わないよう、小鳥の翼の様な小さな手でそのスーツの裾を掴んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殺し屋兼高校生、中二病少女に勘違い! 海山蒼介 @hanakaruta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ