門外の男
器の端に煤のような汚れが付いている。丁寧に洗って、乾いた布巾で拭いてから、紙に包み、箱に戻す。
曽祖母が大事にしていた器だ。
硝子の、赤が綺麗な切子の器。
昔、子供だった頃、一度だけ見せて貰ったその器に心を奪われた。確かそれを目にしたのは、曽祖母が亡くなった後、古い家を建て直す際に色々と整理をしていた時だ。
結局、それは親戚の誰かがタダ同然で売り飛ばしてしまって、僕の祖母が大変怒っていたのを覚えている。そして、僕に言った。
「喜助、あの器を見つけたら、どんなに高くても絶対に買い戻しなさい。」
曽祖母に想いを寄せていた硝子職人が、曽祖母に贈った切子の器らしい。確かな事は分からないが、どうやら曽祖母はその人とは別の家へ嫁いでしまった。
それでも、生涯ずっとこの器を大切にしていたというのだから、よっぽど気に入っていたのだろう。
僕は幼い頃に一度しか見たことのないその器を探して、古物商となった。その道に進んだ方が、巡り会う確率が上がると思ったからだ。
そして、1年前に僕は見つけた。鮮明に覚えてるあの時の器をふらりと立ち寄ったボロ市で見つけた僕は大興奮で購入した。ふんだくられたが、背に腹は変えられなかった。
家に持って帰り、おずおずと自分の手で触れた時、心がざわざわとして落ち着かなかったのを覚えている。使うなんてとんでもなくて、偶に箱から取り出しては磨いてみたり、じっと観察してみたり、とにかく器を大事にしてあげたかった。祖母の言いつけ通りに、かつて売ってしまった過去を償うように、と言えば聞こえが良いだろう。でも実際はただただ心を奪われていただけだ。
彼女が現れたのはいつからだったか。
店に入って来た音はしなかった。用事を済ませて奥から売り場に戻って来た時、既に彼女はいた。長い黒髪を束ねて、まるで錦鯉みたいな卯の花色の地に赤い斑模様の入った着物を着て、壺を眺めるその姿を見て、一瞬で僕はあの器が人の姿を得たのだと気が付いた。
呆気に取られてる僕に気付いた彼女は、笑顔を浮かべながら「いいお店ですね。」と言った。その次の瞬間には彼女は消えていた。
夢でも見ていたんだろう。
でも、数日後にも彼女は現れた。
並べられた古物を興味深そうに眺めては、僕に挨拶する。それを毎日繰り返した。
恐らく彼女には、その一日の記憶を保てないのだろう。どんなに話しても、次の日には初対面のようだった。
しかし、いつの日か自分がこの店に通っている事、僕と知り合いである事は記憶の保持が出来るようになった。話題が前よりも広がり、彼女とのひと時はより一層楽しくなった。
時折、自分は幻覚を見てるのではないのかと思う。彼女は都合のいい妄想でしかないと。夢を見ているのだと。
幽霊も見たことのない僕だから、彼女が何かなんて分からない。今、会えている、存在しているならそれで充分だ。それを繋ぎ止める為ならどんな嘘だって吐こう。
満と彼女を名付けたのは、唯の思い付きだ。曽祖母の名前で、当時にしては珍しい漢字の名前だったそうだが、現代の感覚では珍しさはない。器が満ちるように、彼女の記憶も満ちたらいい。けど、彼女に曽祖母を見ていた訳ではない。
今の自分の気持ちを上手く言葉に出来ない。僕は、あの器に魅了された。その先に人格は無かった。だが、今彼女は人の姿を得、人の言葉を操る。僕は、彼女をどう思っているのだろう。
きっと名付けもこの迷いから来るものだ。
また、家族と過ごすような、安らかなひと時を求めていたのかも知れない。
どちらが先に居なくなるか分からないけど、訪れるであろう別れを思うと胸が苦しくなる。もし、僕が死んでしまったら、彼女はどうなるだろう。誰の手に渡るのだろう。その人にあの姿を見せるのだろうか。
もう一度、蓋を開けて、器を見た。きらきらと光を受けて輝く、初めて見た頃と何も変わらない、美しい器だ。
これは僕のものだと思う。
今は、僕のものだ。
既に閉めた店の中は暗く、置いてある物の雰囲気もあって、何が化けて出てもおかしくない。あの門扉も、本当は置きたくなかった。常連さんが強く言わなきゃ置かなかったろう。
「喜助の坊ちゃん、あんたは囚われている。そういう人にはね、扉が必要なんだ。外に出る為の扉、そして、自分を害そうとする見えないものから身を守る為の扉だ。邪魔だろうが、暫くこの門扉を置いておきなさい。」
嫌そうな顔をする僕にそう言って、強引に持って来た門扉を壁に立て掛けて帰ってった三浦さんは、度々珍しい物を仕入れたと連絡を入れてくれたり、商品を買ってくれたりする物好きなおじさんだ。彼の好みと僕の好みは似ているのか、新しく仕入れた物を見ると買って行ってくれるので、彼がいなかったらとっくにこの店は潰れていただろう。いつも、サンダルで訪れ、特別お金持ちにも見えないが、気前よく買い物をする。
彼は何の意図があって、あの門を置いて行ったのだろう。僕を何から守ろうとしてくれたのだろう。
門外漢の僕には何も分からない。だが、彼女を手放す訳にはいかない。
彼は明日、店に来る。その時に、尋ねてみよう。
鬼灯堂の主人にも困ったものだよ。
あの手の物が全く見えない癖に、そういった物ばかり集めてくるんだから。
3年前、最初に店に入った時は、こりゃ地獄か魔界にでも間違えて入っちまったのかと思ったよ。あっちにもこっちにも、沼の底のようなどろどろした情念が渦巻いていて、息苦しいったらなかった。
こんな物を集めるのは、一体どんな悪鬼がいるかと見れば、奥から出て来たのはなんとものんびりとした若い男でね、たまげたよ。しかも、何にも感じないような涼しい顔をしている。
ははあ、こりゃ、魔に魅せられてるか、或いは魅入られてるかだなと思ってな、あれこれ質問してみても、どうも要領が得ない。好みの物を集めていると言うが、余りに執着がない。なもんで、何で店開いたんだって訊いたら、ある物を探してるって言うから、ああそれに魅せられて、他のものも寄って来たんだなと踏んだ。
だが、聞いてみるに、大した曰くもない、普通の思い出の器だったから、やっぱりおかしいなと思ってた。
まあ、店主はいい人だし、こんな魔窟のような所にいたら早々に死んじまうだろうし、何よりそういった品物は売れる所には売れるもんで、よく買わせて貰ったよ。
それから、半年くらい前かなぁ。探してた器が見つかったって嬉しそうに見せてくれてよ。
赤い切子の器でな。状態は良かったが、職人の腕が甘い、お世辞にも人生掛けてまで探す程の物には見えなかったよ。
しかし、まあ、喜助の坊ちゃんの嬉しそうな顔ったらなくてね。ああ、店主のことさ。なんだか、見ている俺まで嬉しくなっちまって、ニコニコニコニコしちまった。
あれ以来、店主はいつも笑うようになった。それはいい事なんだが、どうにも嫌な予感がしてね、丁度あの門が手元にあったから、店に置いて貰うように頼んだ。あれは、地獄の門だなんて怖い名前がついてるけどね、実の所、悪い物を地獄に送り返してくれる有難い門なのさ。そんじょそこらの魔除なんかより、よっぽど強力なんだ。
しかし、まあ、数日経ったら案の定、連絡が来たから、店に来てみたらどうにも真剣な顔で引き取って欲しいって言うんだ。こっちが何と言っても頑固な様子でね、埒が明かないと思って、訳を聞かせろって言ったら押し黙っちまって。俺もここまで来たらただじゃ帰らねえって思ってたから、相手が話すのを待ってた。
そうしたら、ぽつぽつと話始めてね、器の幽霊があの門を怖がるんだなんて抜かすんだ。
その器見せてみろって言ったら、あの思い出の器でな、やっぱり特になんて事のない古い器なもんで、化けて出るようなそういう特有の悪い気配が全くなかった。寧ろ無さ過ぎるくらいで、変な言い方だが、正しく年を取った物だったんだろうさ。そんで詳しく話を聞いてみりゃ、少しずつ成長してるとか言うから、こりゃどうしたもんかな、なんて考えてた。
そこで不意に気付いた。
器なのはこの男の方じゃないかと。
この店に漂う情念を水みたいに注いでも、それでもキリがないくらい、飛び切り底の深い器なんじゃないかと。人間は見方によっちゃ袋のようなものさ、胃袋だなんて呼ぶだろ、ある程度の物は内に入れられる。だが、こんなにでかい袋の人間は見た事がない。
俺ぁ、お節介と商売の為に、この店の商品を買って、言い方を変えれば掃除をしていたんだが、それにしたって仕入れる量の方が多いに決まってるわな。なのに、最初に来た頃に比べて、随分と息がし易くなった。それは、俺が何かした結果じゃない。この男の中に漂う情念が集められて、濃度が下がったからなんだ。
そう気付いたら、恐ろしくなっちまった。さっき、魔窟だなんのと言ったが、この考えが正しけりゃあの男の中に魔窟があって、それでいて、平気そうな顔をしているんだから。とても同じ人間とは思えない。
ここに囚われているのは、店主じゃない。古物の方だ。器の幽霊は、店主がその情念で無自覚に練り上げた人形のような物だろう。だって、器には何にもないんだから。
もし、何かあるんだとしたら、それが
俺は一度もこの店で女の子なんて見ちゃいないさ。それどころか、俺以外の客が来てる所も見た事がない。
ああ、あの門扉は引き取ったよ。渡した理由を話したって、大丈夫だからと頑固に言うものだから。結局の所、俺は他人で部外者だからな。
これからも、縁が切れるまで俺はあの店に行くだろう。だがね、ふとした時に思うよ。
器から中身が溢れてしまったら、あの店はどうなるのだろうと。
器差の幽霊 宇津喜 十一 @asdf00
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