器差の幽霊

宇津喜 十一

門外の幽霊

 門扉は閉じられている。

 それは赤黒く、表面に鳥や雲の細かい意匠、それら細部に至るまで磨かれているのか、ニスでも塗られているのか、艶があり、とても美しかった。石のようにも、木で出来ているようにも見え、結局それが何であるかは分からない。唯、この世の物と思えぬ程に美しく、それだけが分かれば良いとさえ思える。

 それは何処も仕切らない故に何処にでも通じる門であるが、こちら側からは開く事が出来ない。門が開き、人を招くかどうかは全て門次第なのだ。けれど、ほんの少し力を入れたら、その門を開けられそうな気がした。

 寧ろ、そうしろと、招かれているようにも思えた。今なら、拍子抜けする程簡単に開けられるぞと、耳元で誰かが囁く。

 開いたなら、どこに行けるの。

 何処にでもさ。お前の望む場所、全てに。

 悍ましい声が漏れ聞こえてきそうなその門扉を撫でると、指先に煤の様な黒い粉が付いた。指と指を擦り合わせると、それは益々広がっていく。

「触らない方がいいよ。」

 背後から声を掛けられる。

 この店の店長だ。振り返ると、店に入って来た所だった。硝子の引き戸は滑りが悪く、ガラガラと大きな音を立てた。

「いやぁ、暑い暑い。猛暑日なだけあるよ。」

 紺色の薄手のシャツを摘み、ぱたぱたと内側に空気を入れている。汗で服に引っ付いていたのが気持ち悪かったのだろう。薄めの紺色なので汗による色の違いが目立ってしまっている。

 彼は買ってきたビニール袋を持って店の奥へと入る。袋に水滴がついていたから、冷蔵庫に仕舞うのだろう。

 彼の名前は朝日奈さん。下の名前は知らない。商店街の一番端っこにある古物店、鬼灯堂で店長をしている。彼以外の店員はいない。

「みつるちゃん、お茶飲む?」

「飲みます。」

 私は店の人間ではなく、唯の冷やかしのお客だ。ここのお店の雰囲気が好きで入り浸っている。

 お店として心配だが、あまりお客の来るお店でもないので、営業の邪魔はしてないと思う。店番もよく頼まれるが、誰か来た事はない。いつも朝日奈さんは、またおいでとか言ってくれたり、お茶を淹れてくれたり、お菓子をくれたりするから、拒否はされていない筈だ。

「朝日奈さん、洗面所お借りしていいですか。」

「いいよ。」

 奥へ声を掛けると、軽い返事が来た。

 お店は入り口入ってすぐ土間になっていて、至る所にこれでもかと古物が並べられている。奥には一段上がった小上がりに板の間があり、そこにも沢山の古物とお会計に使うレジスターが置かれている。奥へ続く、曇り硝子の戸を開くと、二階へ繋がる階段、台所、厠、お風呂と続いており、全体的に細長い建物の造りになっている。

 下駄を脱いで店の奥へ入り、ぎしぎしと軋む廊下の途中にある洗面台に向かう。何度か使った事があるので迷う事もない。朝日奈さんは二階にでもいるのか姿が見えなかった。

 栓を捻って水を出し、指先の煤を洗い流す。心なしか、水道の水もこの暑さで温くなっているように感じた。

 指先と指先を擦ると黒が水と混じって排水口へと流れていった。

「あの扉に触ったのかい。」

 階段を降りながら、朝日奈さんが背後から声を掛けてきた。

 水道を止めて、側の取手に掛けられたタオルで手を拭きながら「はい。」と返した。洗い立ての青いタオルはふかふかとしていた。

 朝日奈さんは少し眉を寄せて、「そう。」と呟いた。ふと、この人は眉を寄せる癖があるなと気付いた。よく見ると、シャツの色が紺から水色に変わっていた。気持ち悪くて着替えたのだろう。

 眉を寄せた朝日奈さんに、恐る恐る言った。

「ごめんなさい、触っちゃ駄目でしたか?綺麗だったから、つい触ってしまって。」

「綺麗?」

 彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、直ぐに真剣な表情を浮かべた。

「あの門には触らないようにね。何しろ曰く付きなんだ。」

「曰く付きって、どういったものですか。呪われるような?」

 確かにあの門は綺麗な造りをしているが、同時に何とも言えない異質さがあり、地獄にでも繋がっていそうな圧があった。あれの周りだけ空気が違うように感じられた。だから、曰く付きと言われても、そうかもしれないと納得出来てしまう、そんな雰囲気があった。

「なんでも、手にした者は皆地獄に連れて行かれてしまうとかなんとか。でも、君は触っただけだし大丈夫でしょう。」

「地獄……。」

 売り場へと向かう朝日奈さんに着いて行きながら、ふっと息を吐く。

「あれ、でも、今の所有者って朝日奈さんですよね。その話が本当ならいつかは朝日奈さんが連れて行かれちゃうのでは。」

「あれはね、場所を貸してるの。所有者は別にいる。その人が、売りたいからスペース貸して欲しいって言って来てね、だから所有者は僕じゃないんだよ。」

「朝日奈さんが買い取りとかしなかったんですか?」

「僕の趣味じゃなかったからね。でも、どうしてもって言うんで、ああいう形で置いてある。しかし、よっぽどの好事家じゃなきゃ買わないだろうね。あんな縄と札で封をされた上、血の手形が付いた古臭い門扉なんて。」

「えっ。」

 私が見たのは、目を奪われるような美しい門扉だった筈だ。

「あ、お茶を淹れるのを忘れていた。先戻ってて。」

 朝日奈さんは踵を返し、台所へと戻って行く。私は反対に早足で売り場へと向かう。

 門扉なんて大きな物、売り場には一つしかない。お店に入って、右手側の一番奥。そこの壁に立て掛けられていた。

 脱いでいた下駄を履き直し、売り場へ向かう。

 それだけの筈だ。嗚呼、でも、唯見間違いをしていただけかも知れない。ここは何せ店主の趣味がごった返す、物で溢れ返った店なんだから。

 売り場に着いた私は商品達を見渡す。どれも年季が入っていて、手入れはしていてもどこか黴臭さが漂って来そうで百器夜行の休憩所のようだ。

 そこに、一際目立つサイズの筈なのにひっそりと隅で佇む門扉が一対あった。

 店の入り口から右手側奥。私の記憶と同じ場所に、縄で固縛され、本体が見えなくなる程にお札がびっしりと貼られた古臭い木の門扉があった。

 辺りを見渡しても、これ以外に門扉は店内には無かった。

「お茶だよ。」

 そう言いながら、奥から麦茶の入ったグラス二つとお饅頭をおぼんに乗せた朝日奈さんが姿を見せた。門の前で呆然とする私に気付いた彼は、レジの横におぼんを置くと「それそれ。」とどこか楽しそうに言った。置いた時の衝撃か、からりと氷が場違いに鳴いた。

「もしかして怖くなったのかい。曰く付きの門に触ってしまったから。さっきも、えらく真剣な顔で売り場に向かってたし。」

「そ、そんな訳ないじゃないですか。そんな、何の根拠もない迷信。」

「はは、どうだか。」

 小上がりに座りながら、朝日奈さんは悪戯している子供みたいに笑いながらこう続けた。

「でも、何の根拠もない迷信というのは正解だ。だって、地獄が云々は僕が思い付きで言っただけだからね。」

「えっ。思い付き?」

「うん、夏だからホラーかなと。あの門、見るからに曰く付きっぽい雰囲気あるし。あ、でも、スペースを人に貸して置いてるというのは本当だよ。気味が悪いから手元に置いておきたくないんだけど、由緒の分かっている歴史的な物だから買い手がいるかもしれないという訳でね。」

「どんな由緒が?」

「あるお武家さんの裏口に使われた門扉だったらしくてね。奇襲で敵に侵入され激しい攻撃に遭った際、あの門が頑丈で敵がなかなか奥まで入れなかったとか。そのお陰で援軍が来るまでの時間や家人を逃す時間を稼げて命を救われたということで、これは仏の宿った守護の門扉だとかなんとか言われたという話だよ。扉の所有者はその後、転々としていたんだけど、験担ぎとかで色々血生臭い事が起きる所に置かれてた時期もあってね、そう言う経緯で血とかが付いてるから今の持ち主は手元に置いておきたくないらしい。」

「じゃあ、地獄とかっていうのは。」

「僕の嘘だね。」

「よくもまあ、顔色ひとつ変えずに言えますね。」

 気が抜けてしまって、怒る気にもなれない。きっと、最初に見た物も違う物だったのだろう、見間違いか何かだ。近くに立て掛けられた薄汚れた布を被った何かを捲ってみると、朱色の縁の障子戸だった。ぼーっとしていたから、きっとこれと印象が混じってしまったんだろう。

 朝日奈さんは「怖がらせてごめん。」と軽い調子で謝ると、「嗚呼、そう言えば」と続けた。

「一応毎日ハタキで掃除してるんだけど、何故かこれだけ煤みたいなのが毎回付いてるんだよね。」

「私も触った時につきました。」

「そう、指が汚れるから、触っちゃ駄目だよ。」

「さっき触るなって言ったのって。」

「汚れるから。後、古い物だからね、ささくれが刺さるかもしれないし。」

 なんて事ないようにけろっと言った彼は、立ち上がって、自分の人差し指で、お札に塗れた門の隙間に見える板目の筋をなぞってみせた。見せてくれたその指には私と同じような真っ黒い埃のような物が付いていた。

「今朝も掃除したんだけどね。何だろう、これ。丁度空調の当たる場所だし、埃でも落ちて来てるのかな。」

 天井を見上げながら、無精にも服で指を拭う。水色のシャツの裾に黒い跡が残る。薄い色にその黒色は目立っていた。

 また、からりと氷が涼しげに鳴いた。

「氷が溶けちゃうな。さっき加地さん所でお饅頭買ったから食べよう。夏の新作、檸檬のお饅頭なんだって。どんな味なんだろうね。」

 奥へ向かう朝日奈さんの人差し指には、もう埃はない。自分の指を見ると、先程洗い流した筈の煤が何故か残っていた。

「そうそう、そう言えば。」

 こちらを見ないで、古上がりに座った彼はお饅頭を摘む。檸檬のお饅頭とやらは、薄茶色の平たい形をしていて、普通のお饅頭とそう見た目は変わらなかった。

「理由は分からないけど、前の前の所有者は、その門の事を地獄の門と呼んだそうだよ。」

 その人が何故そう呼んだか、私には分かった。

 嗚呼、振り返らなくても分かる。

 門が開かれる。あの飲み込まれそうなくらい美しい門が。中から誰かが誘っている。甘い声で私に囁きかける。

 おいで。ここに来れば、何処にでも行ける。縛られる事はない。望む儘に。おいで。どうしても叶えたいものがあるなら。おいで、おいで。

「君には、あの門がどう見えたろう。」

 朝日奈さんが一口、お饅頭を噛み千切る。咀嚼して、嚥下する。その時間が酷く長く感じる。彼が軽く下唇を噛んだ。

「僕には、何も見えないからね。」

 その間にも、誰かが門を開いて外に出ようとしている。きっと、私の腕を掴んで、あの中へ引き込んでしまう。美しい門の内側、真っ暗闇で、何かが焼ける臭いがしているあの中へ。

 距離がある筈なのに、囁き声が聞こえる。徐々に、よりはっきりと、嗚呼近付いている。足が動かない、指も動かない。目を閉じる。この恐怖から逃げられるなら、感覚も思考も何もかもを暗闇へ放り投げたい。

 誰かが私の手を取った。

「はい、これみつるちゃんの分ね。」

 目を開けると、目の前に朝日奈さんがいた。私の手にはお饅頭の乗った皿が置かれていた。

「思ったよりさっぱりしてて美味しいよ。食べてみて。感想が聞きたい。」

 綺麗な赤と切込みの入った浅い硝子の器。どこか、鯉を思わせた。その上に、ちょこんと手の平サイズのお饅頭が座っていた。申し訳ないが、器の形も、色合いもこのお菓子には合ってないと思った。

 側に立っていると、人の汗の匂いが微かにした。何故かそれが不愉快でなく、寧ろ心地良く思えた。

 また、からりと氷が鳴く。

 汚れていない指でお饅頭を摘むんで、口に運ぶ。薄皮の中身は、砂糖で煮詰められた檸檬の餡だった。甘くねっとりとしているけど、皮も入っているのか苦味もあって、そして後味はさっぱりとしていて、夏に相応しいお菓子だと思った。

 囁き声はもう聞こえない。

 振り返ると、あるのは古びた木の門だった。

 朝日奈さんは私の背中を押して、レジの方へと促した。周りにあるもの程ではないけど、側にある年季の入った丸椅子に座る。

「これは、美味しいですね。」

「まさか檸檬とお饅頭がここまで合うとは思わなかった。」

 私の側に麦茶の入ったグラスを置く。お礼を言うと、どうもと返された。

「お饅頭は美味しいですが、器が合ってないと思うのです。」

「えー、そうかな。」

「だって、お饅頭なのにこんな不格好なお皿、赤色とも合ってないですし。こんな年季の入ったびいどろの器。」

「でも、僕の一番好きな器なんだよ。満ちゃん。」

 そう言われても、やっぱりお饅頭には合ってないし、赤と白の切込みも、職人がまだ半人前だったから偏りがあって不恰好だし、それに作られてからもう百年以上も経つ古臭いお皿だ。それは本心だ。でも、きっと私はそれを否定する言葉をこの人から引き出したかったに違いない。その為に、自分の醜い劣等感を曝け出したに違いない。

「気付けなくてごめん。僕には君しか見えないから。あの門は持ち主に返すよ。それを食べたら、今日はもうお休み。」

 人として生きてみたかった。

 私を作り出したあの人が、完成した私を見て嬉しそうな顔をしていた。その人から私を手渡された女性も、笑顔で嬉しそうな顔をして受け取っていた。それから、その女性にとてもとても大切に扱われて、私は人間がすっかり好きになっていた。その女性の死後、お金に困った家の人によって売りに出された後でも。

 器でしかない自分は人の姿になれても、人のように振る舞う事には限界があった。百器夜行の途中、ふと引き寄せられて訪れたこのお店で、私は人として扱われて、舞い上がってしまって、嗚呼、いつからここにいるのだろう。

 私はあの素敵な笑顔の女性に。いつまでも、あの人の面影を私に見るあの女性になりたかった。あの女性の心の奥底に沈められたあの感情を知りたかった。

 今、下唇を噛むあなたの心を、私は理解出来るだろうか。もし、あなたと会えなくなっても、彼女のように、私は何かにあなたの面影を見る事があるのだろうか。

「朝日奈さん。」

「どうしたの。」

「何故私をみつると呼ぶのですか。」

「満は僕の曽祖母の名前で、君にぴったりだと思ったんだ。」

「朝日奈さん。」

「何だい。」

「私がこの質問をしたのは何回目でしょう。」

 彼は答えなかった。否、答えあぐねている。少し眉を顰めて、下唇を噛む。覚えている、この人の癖だ。眉を顰めるのは考えている時、下唇を噛むのは気持ちに蓋をしようとしている時。

 それは、覚えている。そんな顔をさせたくはなかった。なのに、何故そうさせてしまっているのだろう。

「また、来てもいいですか。」

 心じゃないどこかから言葉が出ている。心が無い物は、何処でものを感じているのだろう。

「うん、いつでもおいで。待っているから。」

 どこか不安げに笑うあなたの顔を、何百回私は忘れたのだろう。それすら忘れてしまうくらい、数え切れないくらいの沢山の記憶達は、気が付かない内に抜け落ちていく。

 からり。音が鳴る。心地良くて、ずっと聞いていたい。涼しげな、氷の声。

 不安そうな顔を見ると、少しだけ嬉しい。私という存在があなたに刻まれているようだから。

「明日の君も、僕を覚えているといいな。」

 聞こえないくらい小さな祈るような言葉を、私は聞き取った。

 あるのは、一人と器。


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