廃止される路線バスの中で
緋那真意
最後のお客様
特になりたくてなったわけではない職業ではあったが、不思議なものでやり続けているうちにやりがいというものが身についてくる。
特に一日にひと便かふた便しかない、過疎路線の運転をするようになってからは、顔なじみの乗客も増えて交流を持つようにもなった。
街中の病院に通うために毎日遠くからバスに乗る八十代の農家のおばあちゃん、郊外の家から会社に通う四十代の会社員、学校から住宅地への短い時間友達と和気あいあいでおしゃべりを楽しむ小学生たち。
バスを逃すと自家用車で迎えに来てもらうかタクシーを利用するしかないのだから、貴重なバスの運転手は自然と顔を覚えてもらえるし、何かの都合でよその路線の運転に回ったり、体調不良で休んだ時などには自然と心配もしてもらえる。まれに年配のお客さんなどからは野菜やお茶請けなどの「おすそ分け」を頂けたりすることもある。
乗客の多いドル箱路線の運転手となることもそれはそれで誇り高くやりがいのある仕事ではあったけれど、豊岡にとってはこの過疎路線の運転手の仕事も十分にやりがいのある仕事であった。
しかし、やはり乗客の少なさによる収益の悪化というのはいかんともしがたいものがあり、会社の経営合理化の一環で彼が担当していたバス路線もついに廃止されることとなった。廃止後は行政主体のコミュニティバスが規模を縮小して運行されることになっていて、乗客の利便性を考え廃止の直前は双方が並存するかたちで運行されている。
廃止が決まった後は色々なお客さんからバスがなくなってしまうことを悲しんだり惜しまれたりした。自動車を持たずバスを頼りに生活してきたおじいちゃんからは「バスがなくなってしまったらタクシーを使うしかないけど、お金のやりくりが大変でねぇ」と愚痴を言われたり、毎日毎日学校に行くためにバスを利用していた中学生の女の子からは「運転手さんに会えなくなるのは寂しい」と惜しまれたり。その子は今後家庭用の自家用車で学校まで送迎してもらうのだという。色々なお客様から声をかけられ、廃止を惜しまれたり残念がられたりしたが、こればかりはどうすることもできない。愚痴を言う人には励ましの言葉をかけ、寂しがる人には感謝の言葉を述べ、彼なりに乗客たちの気持ちを汲み取りケアすることを心掛けていた。
そして、ついに廃止前の最後の運行。
その日は午前中雨が降っていて、短い距離であってもバスを利用したいと考える人や最後の最後までこの路線を利用したい馴染みの客で、朝のバスの車内はそれなりの盛況だった。最後の最後でこんなに賑わうのならば、もっと早くからみんなバスを使ってくれればとも思うのだけども、人間というものは実際に無くなってみなければありがたみというものを理解できない生き物であるらしい。
午後になって雨が止んだこともあり、夕方のバスの車内は午前中に比べると落ち着く。途中、ずっとバスを利用し続けてくれた馴染みの客とひとこと、ふたこと別れの言葉を交わしながら、豊岡はいつものように運転を続ける。そして、終点まであとふたつの停留所を残すだけというところまで来て、残す乗客はあと一人となった。
乗客は二十代くらいの若い女性。黒く長い髪がとても涼しげな印象を受ける。 豊岡の記憶では午前中の街中へ向かう上り路線にこの女性が乗ってきた記憶はない。どこかで見たことがあるような気もするのだが。
ちょうど赤信号でバスを停車させたときを見計らって、豊岡は女性客に声をかけた。
「お客様、もう間もなく終点となりますが、どちらまで行かれますか?」
豊岡は乗客が残り一人となったときには、必ずこうやって行き先を聞くようにしている。どこまで乗るのかを把握しておけば効率よくバスの運行もできて、ちょっとした話のきっかけにもなる。
「あ……
急に声をかけられて驚いたのか、女性客は慌てたような声で答える。
「終点までですか。お客様、このバスは本日で運行を終了します。お帰りの際は大丈夫でしょうか?」
午前中には女性が乗っていなかったことを踏まえて確認をすると「……大丈夫です……明日は親に駅まで送ってもらうつもりです」と声が返ってきて、ひとまず安心したところで信号がちょうど赤から青に変わりバスを発車させる。が、少し気になることがあった。
「ところで、お客さん。失礼ですがどこかでお会いしましたか? 最近ではありませんがお見かけしたような気がするんですが……」
その言葉を聞いてそれまで沈み気味だった女性の顔がふっと明るくなった。
「あの、私、実は昔この沿線に住んでいたんです」
「おや、そうでしたか、するとこのバスを利用したことも?」
「はい、高校に通っていた三年間が一番使ってましたけど、それ以前にもちょくちょく使わせてもらっていました」
「ふーん……ちょっと待ってくださいね」
豊岡は女性の話を聞いて、運転に気を付けながら記憶を探っていた。
「終点の赤林まで乗っていた、高校生の女の子……ひょっとして
豊岡は記憶の底からその名前を引っ張り上げた。今から七、八年前に高校からの行き帰りで、毎日終点の赤林から街中の高校までの長距離をバスで通っていた女の子がいたのを思い出した。
「あ、やっぱり覚えててくれたんですね。嬉しいです」
水ノ江は嬉しそうな声を上げた。
「毎日毎日、真面目に通っていましたね。晴れの日も雨の日も今日みたいに終点まで乗っていたのを、今でもよく覚えていますよ」
豊岡は当時を懐かしむように言った。
「そうですね。はじめのうちは私も淡々と乗っているだけでしたけど、そのうち乗っている時間がだんだん楽しくなってきたんですよ」
「そう言ってもらえるとバスの運転手としては嬉しいです」
豊岡は水ノ江の言葉に相好を崩す。バスに乗っている時間を楽しいと言ってもらえることは、バスの運転手にとっては最高の名誉に近い。
「特に、こうやって運転手さんと私だけになった車内が好きでした。こんなに広い車内を独り占めできるんですから」
「そういうこともあるかもしれないね」
豊岡は水ノ江の言葉に静かにうなずいて、続けて質問をした。
「最近は水ノ江さんはどうしていたのですか? しばらく顔が見られなかったけど」
「高校を卒業した後は東京の大学に進学して、そのまま東京の会社で勤めていました」
「そうなのですか。立派になりましたね」
「立派だなんて、運転手さんに褒められると恥ずかしいです」
水ノ江はどこか恥ずかしそうにそう話した。
「立派なものは立派だと思いますよ……ところで、今日はどうしたのでしょうか?」
豊岡は何気なく質問を発したが、その言葉を聞いた水ノ江は寂しそうな表情になる。
「先程も聞きましたけど、このバス、今日で廃止になるんですよね?」
「そうですね。やっぱりお客さんが入らない路線をいつまでも続ける訳にもいきませんから」
豊岡がそういうと水ノ江は何かを言いかけて一瞬躊躇し、やがて迷いを振り切るように言った
「……私、今日はこのバスに乗りたくて帰ってきたんです」
「……え?」
豊岡は水ノ江のその言葉に驚いて、危うくブレーキを踏みそうになるのを踏みとどまった。
「またなんでそんなことを……今日だって平日です。お仕事があるんじゃないですか?」
「仕事はあとでいくらでも挽回できます。でも、運転手さんとの思い出が詰まったこのバスに乗れるのは、今日までですから」
水ノ江は思いつめたようにそう語った。
「水ノ江さん……」
豊岡はこの男にしては珍しく言葉に詰まった。何といっていいのか、かける言葉が見当たらない。
「両親からこの路線がなくなるって聞いて、いてもたってもいられなくなったんです。こんなことなら、東京になんか行くんじゃなかったって本気で思いました。毎日毎日ちゃんとバスを使っていたら、ひょっとしたら無くなることも無かったんじゃないかって思うと、私、自分を抑えられなくなっちゃって……」
「それで、休みを取ってこのバスに乗りに来たわけですね」
豊岡はそう話しつつ、バスを終点ひとつ前の停留所に停車させた。待っている乗客はいなかったが、一分程度なら止まっていても問題はないだろうという判断だった。
後ろを振り返ると、車内中央の一人用座席で呆然とした表情でこちらを見ている水ノ江の姿があった。
「そこまでこのバスを愛してくれていたんですね、水ノ江さん。私も長いことバスの運転手をやってきましたが、ここまで乗客の方に愛されたことはちょっと記憶にありません。身に余る光栄だと思っています」
「……」
豊岡の言葉に水ノ江は答えない。じっと豊岡のことを見つめている
「でもですね。何事にも終わりはつきものです。いつまでも続けていてほしいというあなたの願いも気持ちもよく分かります。でも、私だってもう間もなく五十を過ぎるころになりました。いつまでこうやってバスを運転していられるかどうかもわかりません」
「運転手さん……」
水ノ江は今度は豊岡の言葉に反応した。少し目を伏せ気味にしている。
「だから、あなたはあなたのことを大切にしてください。あなたはまだ若い。これから更に色々な経験をするでしょう。そんな中で、このバスの中で過ごした記憶があなたの中で少しでも長く宝石のように輝きを放っていてくれたなら、私はそれだけでも満足ですよ」
豊岡はそこまで話し終えると再び正面に向きなおり、停車させていたバスを終点の赤林に向けて発車させた。
「……ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました、運転手さん……」
それから少し経った後、水ノ江はぽつりと言った。寂しげな声だった。
豊岡はその言葉に答えない。バスの運転手として、公共の交通機関を支える人間として、これ以上彼女のプライバシーに立ち入ることは許されないと心は告げていた。
そこから二人は無言で終点までの道のりを過ごす。別れに必要な時間が終わる。
「終点、赤林になります。長らくのご乗車お疲れさまでした。なお、本路線は本日を持ちまして運行を終了いたします。長らくのご愛顧、本当にありがとうございました」
バスが終点の赤林に到着し、豊岡はただ一人の乗客のために心を込めてアナウンスを行う。水ノ江は赤林に到着する前に気持ちの整理をつけたのかすっきりとした表情を見せていて、穏やかに降車口まで歩いてくる。
「運転手さん、次はどこの路線で運転するんですか?」
「あちこちの路線を転々とする予定です。私も年ですので。今回のように一つの路線でずっと、ということはもう無いかもしれません」
その言葉に水ノ江は大きくうなずく。
「運転手さん、まだ私が子供だった頃からずっと頑張ってきたんですもんね」
「こうして昔まだ子供だった方が、大きくなってお礼を言いに来てくれるなんて、私は果報者ですよ」
「でも、もう運転手さんには会えなくなるんですよね。やっぱりちょっと寂しいです」
水ノ江がそういうと豊岡は運転席の後ろにかけてある背広から何やらごそごそと取り出した。
「はい、これをどうぞ」
「これって……運転手さんの名刺?」
「はい、会社のものですが、連絡先も載せてあります。また、たまにでもご近況を教えてくだされば幸いです」
豊岡がそういってにっこり微笑むと、水ノ江もまた花のような笑顔を浮かべた。
廃止される路線バスの中で 緋那真意 @firry
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