奇怪大和伝 鬼殺し

こたろうくん

鬼殺し

 大和国やまとのくにとは四方を海に囲まれた箱庭の如き国である。うねる大海により人は決して大和を出ること能わず、その外に何があるかを想像することまかり成らぬ。ただ大和国と言う地にのみ人は生き、そして死ぬのである。それが人と云うものなのである。



 その妖刀を誰が呼んだか、鬼殺し。常ならぬ切れ味がその刃には込められておりその威力、堅物を柔き豆腐の如く切り裂き岩すらも絶つほどだとか。

 人を斬るにはあまりに過ぎたるその鋭さは獣を、延いては常世の逸物を斬るための一振りであると囁かれるが、妖刀と呼ばれる最たる要因はその白刃が血脂に塗れて初めてその威力を発揮するからであった。血狂い鬼殺し――その使命、尋常ではない。

 その日、その逸物を手にしたのは嘉俵よしだわら藩が剣術指南役、無双天剣流むそうてんけんりゅう原田辿険典越はらだてんけんのりえつ。流派開祖、天に至りし剣たる原田辿険の実子にしてそれを超える剣術の業前を誇る、彼もまた逸物であった。典越とはえる剣である。

 その名が伊達でないと云うことは四十万石に到ろうかという大藩にて、その精強たる藩士たちが修めたる剣が天剣流であることを鑑みて明白。その典越が藩主、嘉俵忠隣ただちかより妖刀を預かりしはその旨、鬼退治であった。

 既に近辺の村々に起きた異変に対処すべく藩士らを向かわせたが帰る者無く。幾度目かの調査の折、半死半生で帰還を果たした者が今際の際に告げたのが鬼見たりであったのである。

 にわかに信じ難い話。しかして尋常ならざる殺戮の跡は各地にて噂が止むことがないのも事実であった。だがやはり鬼などおとぎ話でしかないとその言葉を信じ切る事の出来ない典越であったが、彼の忠隣はといえば何を知るのかその一報に血相を変えた。

 主君が信じる以上は今や臣たる典越も信じる他に無く、故鬼退治のための剣を彼より授けられ、典越はそれを受け取ったのであった。

 そして試しの儀の折、妖しを封ずる鞘より剣が刃を解き放った典越は心身を凍えさせることになる。試しは昨今死人を用いて行われるのだが、あろうことか此度に限っては咎人は未だ生者。生き試しである。

 これに関して典越はしかし動揺はしなかった。己が主が決めたことである、臣とはその意にただ従うのみ。彼が驚いたのは列べられた咎人の数であった。

 七人。七人もの人が堅物を着込まされずらり列べられているのだ。それらが奏でる呻き声たるはまるで地獄の如く。怨み辛みがそれからは容易に感じ取ることが出来た。それを前に典越は必死に心を落ち着けんと深い呼吸を繰り返す。だがそこに更に忠隣は言った。

 ――一薙ぎにて一掃せよ。

 その言葉にこそ典親は肝を冷やす。鎧を着せた人間七名を一振りで全てと忠隣は言い、望んでいた。

 それはもはや神業。鬼を伐つとはそれほどのものなのかと典越の唇は見る間に干からびる。しかし出来ぬと言うことは、それこそ出来ない。やるしかないのである。主にやれと言われた士は、やるしかない。そして許されるにはやり遂げる他になく、失態は己が失墜に他ならない。

 忠隣に命じられたその後すぐには、七人を前に鬼殺しを構えた典越がそこには在った。妖刀の白刃が不気味にも美しく輝き、それは今か今かと生き血を求め典越を急かしつけているよう。

 呑まれまいぞと今一度己の心の在処を確かにした典越が構える。何も忠隣、典越と天剣流を知らずに無理を言い付けたわけではない。父たる辿険を凌ぐ典越の腕、そして二の太刀要らずの天剣流への信頼が在ってこそである。

 そして縄に繋がれ横並びにされた咎人七人の前に立った典越が構えた刃を中段で寝かせ、それを脇へと引き込む。七つにもなる胴を一閃しようというのだ。その背中を見守る忠隣には典越の身体が一回りほど大きく膨らむのが見えた。今は着物に秘匿されている鍛え抜かれた彼の肉体が筋肉で隆起しているのだ。

 そうして忠隣が瞬きを一つ落とし、そして目蓋が再び持ち上がった時、彼の眼に映ったのは中空を泳ぎ出す刃文。やがてそれは閃きとなり、忠隣の認識が追い付く頃にはもう、典越は構えを解いていた。

 何が起きたのかを忠隣が理解しようと咎人らを見る。彼らは未だ呻き声を挙げたままだ。しかし典越はそれらに背を向けると縁側で成り行きを見定めている忠隣の元まで歩み寄り、そしてひれ伏す。

 忠隣が問いただそうと口を開きかけると、すると典越の後ろで咎人らが呻き声を挙げたまま、全員余すことなく鎧を纏った胸の中程から横断されて崩れ落ちた。逃れられぬよう縛られ吊るされた胸から上を残して。庭に血と臓物が放つ臭気に満たされ、思わず忠隣は鼻を覆う。そんな彼に典越は伏したまま告げた。

「この剣なれば例え岩で出来た鎧とて断ち切る事が可能でしょう。無論、鬼とて。不肖この典越、鬼退治仕り候」

 彼が伏したまま差し出す鬼殺しの白刃に付着した赤い血液が見る間に消えて行くのをその時、忠隣は見た。



 鬼による殺戮が起きたとされる村々の位置から、次に鬼に狙われるのではないかと思われる村に目星を付け、典越と精鋭の藩士らがそこに潜伏。鬼が現れるのを待った。

 日が暮れ、夜が明け。それを繰り返すこと七日目。他の健在する村に待機させている藩士らからの知らせではいずれにも変化は無く、今日も結局何事も無く七日目の朝を迎えるのだろうと典越以外の者たちが思い始めていた。

 典越と藩士らが寝泊まりしているのは村を治める者の屋敷であり、典越は一人部屋を与えられ他の藩士らは一つの部屋にぎゅうぎゅうになりながら夜を過ごしていた。大した村ではないし、一番立派な屋敷といえどたかが知れている。部屋とて多くはないのだから当然であるが嫌気を覚える者が出てくるのもそろそろ。

 一度人選を改める必要があるかと一人部屋でじっとしていた典越の脳裏にそんな考えが過った。緊張状態も続けば害となる。もし本当に鬼が出たとして、緊張疲れした剣では十分な働きが出来ないからだ。

 となれば文を書くのは早い方が良い。夜襲に備え目を慣らしていた典越であったが書き物が必要となれば灯りが欲しい。彼が行灯へと手を伸ばし、それに火を点そうとした時であった。外から響いて来たのは凡そ人の物とは思えぬ声。だが間違いなく悲鳴であった。命のやり取りをする者ならば知らぬ者などあろう筈もない、それは断末魔と呼ばれる声だ。

 既に立ち上がり脇差とそして借り受けた鬼殺しの刀を引っ提げた典越が誰よりも疾く外へと飛び出す。部屋で灯りも点けずにいたお陰で闇に慣れた眼は月すら無い村の闇をしかし見る事ができた。そこで彼が見たのは地面に倒れた見回りの藩士二人と、そしてその二人にぴたり張り付き蠢く、それは村民の姿であった。

「何事か」

 腰の鬼殺しを抜き放ちながら叫ぶ典越。すると倒れた藩士二人にくっ付き何やら咀嚼する音を立てていた村民四人がぴたりと動きとその音を止める。そして徐に叫んだ典越の方を向いた彼らの顔に、典越は息を呑んだ。

 暗がりでも分かるほど蒼白く変わった肌は藩士のものか血で口元から赤く染まり、剥き出しにした歯が咥えるのは人の肌。その両目に生気は無く、白濁した双眸がゆらゆら揺れながら典越を見ていた。

 これが鬼――異様な姿と雰囲気を放つ村民を前に典越は思う。壊滅した村と殺された藩士たち。全ては同じように変貌した村民により引き起こされた事だった。唯一帰還を果たした藩士に見られた傷は村民に引っ掻かれたり喰われたりした痕だったのだ。

「餓鬼め。者共、出合え出合えい」

 剣を構えながら叫んだ典越。その声に引っ張られたように残る藩士らが次々と屋敷から飛び出してやってくる。皆、変わり果てた村民を見た反応は同じであった。

 怯むなと典越が一喝する事により彼らは次々と剣を抜き、上段に構えを取る。天剣流が基本である。

 典越を始め藩士ら合計五名が同じ構えにてよろよろと覚束ない足取りで迫り来る餓鬼と化した村民四名を待ち受ける。餓鬼が双眸は白濁し焦点の合わないそれは醜い有様であるが、典越らの眼光もあまりに鋭く獰猛で獣じみていた。一度剣を抜けば、その有り様こそが士なのである。

 そしてやがて餓鬼四頭が間合いに入ろうとした時、師たる典越の手を煩わせまいと彼の左右に控えていた高弟二人が気合いを発しながら飛び出した。典越もその二人、辰茂たつしげ芯兵衛しんべえを頼り止めはしなかった。

 その二人が力強い踏み込みと共に振り下ろした剣は見事に餓鬼二頭を袈裟斬りにし、彼らを足掛かりに残る二名の藩士もまた餓鬼へと斬り掛かって行く。餓鬼らは大した抵抗も出来ず、ただ切り倒されて行くばかり。

 脅威ではない。弟子たちでも充分に相手出来ると典越がその蹂躙を見て思い始めていると、不審な物音が彼の耳に届いた。家々の戸が開く音である。

 この騒動を聞き付けて村民らが起きてきたのであろうかと、あばら屋の一つに典越が横目を向ける。だがそこに居たのも顔面蒼白、見当違いの双眸を揺らした餓鬼と化した村民であった。

 更に別の家屋へと目を向ける。そこからも二親にその子らまでも同じ餓鬼として姿を現し、呻き声を挙げながら騒動へと向けて頼りない足取りを向けていた。

「この村落、既に……」

 どういう理由か、村の民全てが鬼へと堕落している。ともすればこれまでの殺戮、最終的には村民同士が互いを殺し合い壊滅するという運びだと気付いた典越であったが、遅かった。

 挙がった悲鳴は藩士の者。それも聞き慣れた声、辰茂のもの。見てみると彼は袈裟に切り裂かれたはずの餓鬼に喉を食い千切られていた。彼だけではない。芯兵衛も、他の藩士も。切り伏せたはずの餓鬼が足元に縋り付き、そして押し寄せた別の村民らに押し倒され腹を裂かれてしまう。

 その光景にざわざわと背筋を騒がせた典越。彼は再び構えを改め、そして気合いを発しながら遂に自らも闘いへと赴く。典越の駿足が瞬く間に残る藩士二人を取り囲む村民の輪へと到り、振り下ろされた天剣流が剛剣が餓鬼の一頭を脳天から股下まで一刀両断にかち割る。

 二つになっても動けるものか――腕と脚が一つずつでは死なずとも動けまい。餓鬼が死なぬ事を悟った典越の戦法は敵の無力化であった。故に輪の中に躍り出た彼は藩士二人に襲い掛からんとしている餓鬼に向け剣を踊らせ、その首と四肢を切り落としてしまう。残る二人も典越を見習い敵の手足を落とし、そして胴体が地面には無数に転がることとなる。

 そこまでしても餓鬼とは死なず、胴体や切断された手足は蠢いていたし首は呻き声を挙げ続けていた。悪夢であると二人の内どちらかが零し、典越もそれには同意を覚えるのだった。

 ただ斬り捨てるのではこの怪異は死なぬ。ともすれば、残る手段とくればそれは――

巧御こうみ朝倉あさくら、跳べえ」

 餓鬼を完全に屠る為の策を思案していた折、典越の慧眼がとあるものを捉えた。そして残る二人にそう呼び掛けながらその身を怪異の包囲からまろび出させたが、憐れにも巧御及び朝倉の足は少々遅かった。典越が土埃を纏いながら地面を転がる中、彼の暗闇にあった世界がぱあっと昼間の如く明るく照れた。

 更に押し寄せる熱に典越は堪らず立ち上がることも出来ないでそこから離れるべく、何度も地面を転がりその身を泥に汚した。

 充分に距離を空けた所で彼は面を上げる。しかし闇に慣れすぎたその目はすぐには事態を認識できなかった。青白く、だがそれが炎である事だけは分かった。

 一体何が起きたというのか、地に這いつくばりながら同胞と共に餓鬼を焼き尽くすその地獄の業火が如き熱と明かりを前に、典越は驚愕に口を閉じることが出来なくなってしまう。

「い~い目だ、しかも身軽だ。忍かなあ、お士さん」

 人を小馬鹿にでもするような調子の声。若いわけではないが、老いてもいない。その声は典越と同じ三十絡み程であろうか。その声がこの炎を放った。怪異すら焼き尽くす業火……即ち――

「鬼……」

 然り――苦々しく呟かれた典越に即答を返す、それは業火が未だ照らさぬ闇に揺らめく焔。ゆらりゆらりと漂うそれは二つあり、その有様は正しく鬼火。

 やがて典越の目にもその鬼火が正体、その姿を現す。

 それは人であった。ぼろ衣を纏った無精髭の男。しかしその男の両腕は凡そ人に非ず。青い炎を纏った鎧が如き光沢を伴う双腕は鋭き爪と刃を纏い、双肩には青鬼が横面がそれぞれ揃って火を噴いていた。

僧吉そうきちと言うもんでさ、お士さんよ」

 語る鬼、僧吉を前にゆらり典越が起き上がる。典越の僧吉を見る目は獣が如し。今の彼を突き動かすは主君忠隣が命のみであった。そんな典越を見て僧吉が笑う。そして彼が構えた妖刀鬼殺しを指差すと言った。

「その御立派な刀も、出来損ないの血じゃあ満足しねえよな」

 それはまるで己を斬らせようとしてるかのような挑発の台詞であった。それを怪訝にこそ思えど、僧吉が鬼だと確信を得た典越に剣を下げると言うような選択肢は無い。例え眼前の鬼こそが異変を鎮めてきたものだとしても、主君より剣を授かり斬れと命じられた以上はそれを全うするが士であり、士として育てられてきた典越にとってそれは迷いすら振り切るのである。

 そんな人形が如き生き方を僧吉は笑ったのだ。そして楽で分かり易い生き方を羨ましいとも思っていた。

 対しその実士の、それを是とする世の中、時代に、そして自らの心の在り方に疑問を懐き、自由に生きる民草や鳥を羨ましいと思う典越。思いながらも武士道に甘んじることしか出来ず、彼はその内、母に褒められたはずの笑みを忘れた。

 正反対であった。相対する両者の心は、同じ憧れを懐きながら正反対だったのである。故に決して重なり合うことはなく、だから互いの牙を見せ付け合う。もはやそこに争い合う意味など無かった。故、争う。

 既に村民たちの血を不味かろうとたらふく飲んだ鬼殺しの切れ味は最高潮に達そうとしていた。それを卓越した技術と、そして圧倒的な膂力を誇る天剣流が典越。彼が上段に構えたればそれは人にして鬼に金棒。

 対する正真正銘の鬼たる僧吉に金棒は無かった。必要無いのだ。本当に鬼である彼には武器などと言う、弱者が弱者故に手にした物など必要無かった。燃ゆる双腕の爪のみをそれは剥く。

 静寂に陥る二人の周囲は僧吉が放った燐火の青に包まれていた。火の手が回り村一つを焼く大火へと成長していたのだ。

 やがて骨子が燃え尽き、支えを無くした村長の屋敷が野太き悲鳴に似た音を立てて火の中に崩れ落ちて行く。その騒音が睨み合う典越と僧吉、両者の緊張の糸を断ち切った。

 そこからは正に一瞬だった。ほぼ同時、しかし先に動いたのは僅かに僧吉だっただろうか。蛇のように青鬼の腕が伸びる。それは比喩ではなく、本当にその腕が伸びたのである。僧吉は未だその場を動いていない。しかし彼の爪は確実に典越へと届こうとしていた。

 だが同じく典越もまた動き出していて、襲い来る蛇の牙を身を低く疾走しながら掻い潜り、そして既に脇に引き込んだ左片手握りの鬼殺しの切っ先を典越の心の臓が居座る胸の中央へと突き込んだ。脱力して放つその突きは速く鋭い。妖刀の切れ味とぶれることなく真っ直ぐに進む軌道。これさえ在れば急所のみを射貫く突きに力は必要無いのである。

 更に典越はその時、半身を開いて射程を伸ばすのに加えその勢いを利用しより素早く強い突きを実現していた。鬼の堅牢が目に見える場所だけな筈がないと言う、獰猛さの中にも冴える典越の冷静さを窺わせる所作である。

 しかしそんな切っ先は虚空を斬る。間一髪、胸部を薄皮一枚斬らせながらも同じように半身を開いた僧吉がそれを躱していた。

 じわり胸に広がる熱は、しかし痛みでは無かった。今の二人を痛みが苛むことは出来ない。命を懸けるとは、命に劣る全ての感覚が希薄になると言うことなのだ。

 僧吉が浮かべたる笑みの一端を担う双眸が典越の無表情を見下ろし、士以外の心を封じた典越の色の無い双眸が悦楽に歪む僧吉の顔を見上げていた。

 何故に笑える。何が可笑しい。愉しい――典越は思う。何故にそれを思うのか、それは既に典越が己の勝利を確信しているからに他ならない。しかし、だと言うのに僧吉の笑みは強がりに非ず。その笑みは心からの感喜故のように典越には見えて、思えて、それは彼の心に大きな影を落とした。

 そして典越の神速の突きをも躱した青鬼僧吉が右拳を固める。拳骨からは四本の刺が生え、炎を纏う。その燃ゆる拳にはこの一撃にて幕引きにするという意志が感じられ、躊躇うこと無く僧吉は拳を典越の顔面へと向けて打ち下ろした。

 轟と風が鳴き、鮮血が舞い散った。超常なりし妖艶なる青い炎に炙られた夜空を横切るは流れゆく星に非ず。それは放物線を描きやがて地に墜ちた。果たしてそれの正体はなんぞや。それは果たして鬼の一打により弾け飛んだ典越の肉片かや。

 否、地に墜ちたそれは未だ炎を宿す青い異形の腕なれば、それは鬼の横面が備わった肩ごとごっそりと切り飛ばされた青鬼僧吉の右腕そのもの。

 僧吉は更に引き戻した左腕の拳で以て、右手で剣を振り抜いた典越を狙う。が、翻った閃きが僧吉の残った左腕すら切断せしめた。その時典越が剣を握りたるは左手であった。

 天剣流、諸手三段突き。本来突きの要たる引き手をより迅速に行うための小手先であるが、典越はそれを用い突きからの斬撃二振りをいずれも攻撃の終点から神速にて放っていた。

 左で突いた後、既に動き出していた右で剣を掴み一閃。更にそれを追っていた左にてまた剣を掴みもう一閃。計三度にも及ぶ典越の剣はしかしたったの一度にしか並の者には見えぬであろう。たったの一振りで三度斬る――それが典越が三段突きであった。

 しかし僧吉との接戦の最中、決死の覚悟でそれを放った後の典越は正に死に体。青鬼の拳二つを斬る為に典越、その身を投げ出していたのだ。

 僧吉が両肩の在った箇所より鮮血を噴き、その血飛沫が舞う中を地面に倒れる典越。受け身もままならない転倒は彼に思いもよらぬ激痛を与えた。

「かっ、やるねい。流石はお士さんだ」

 苦痛に身を捩る典越の耳に届いたのは僧吉の声であったが、彼のその声には苦痛の色は見られなかった。まさかと思い痛みを押し殺して面を上げた典越の視界に飛び込んできたのは、肩ごと双腕を喪失しこけしが如き姿になり果てた僧吉の青白い、しかし笑みであった。

 やはり典越を見下ろす僧吉の眼、その瞳であるが、それを見た典越が連想したのは己に負けを宣言した者たちの瞳。勝ったのかと、確信していたはずの勝利にしかし疑問を懐く典越。そんな自分に彼はなお驚いた。

 驚愕を孕み揺れる双眸で、ひたすら僧吉を見上げ続ける典越へと彼は告げた。血を失い、青く変色した唇を僅かに動かし、そしてこれから待つ死に対し一切の恐れなく、それを齎した相手へ一切の憎悪を孕まず、ただただ清々しくも穏やかな声で、青鬼僧吉は告げた。

「腕と首級くびは土産にくれてやる。精々それで旨い飯をたらふく食いな、お士さん。それと、村の外れの雑木林に己の子が居る。まだ赤子だ」

 それを教えて何になると言うのか。典越の目に疑念が宿る。するとそれを見抜いたのか僧吉は続けた。

「好きにしな」

 それで全てであった。

 典越が徐に起き上がる。正真正銘、鬼の血を浴びて鬼殺しが放つ妖艶は絶頂にあった。けれど尚も貪欲にそれの血を求める妖刀の魅力にすら典越の士は勝り、己が主の為、士典越は剣を構える。その目に迷いは無く、まして己すら無い。

 それを前に、僧吉はまた小さな笑みを浮かべた。

 その刹那、閃く白銀。堂々と立った二つの足が傾き、ぼとりと一塊の肉塊が地面に劣る音が鈍く響いた。驚くことに村を包んでいた炎の全てがその瞬間、それが夢幻であったかのように消え失せた。

 残された黒炭の中、ただ一人立ち尽くしていた影がそこを去る。その足取りは決して軽やかとは言えないものであった。



 原田辿険典越はそうして、精強なる藩士らと村一つを失う壮絶な戦いの果てに見事、鬼退治を仕遂げた剣客として天剣流と共にその名を広く轟かせることとなる。

 彼が討滅せし鬼の首級とその両腕は嘉俵の青鬼として祀られ、藩に更なる威厳と畏怖を集めさせた。

 禄の加増と共に新たに立派も立派な屋敷を忠隣より賜った典親であったが、大藩の主君より直々に与えられた屋敷以上に鬼を斬り捨てた妖刀鬼殺しの価値は勝る事となっていた。そしてそれを預かる身となった典越も然り。この世に二つと無きもののふとして、無双の名は真実となった。それはおとぎ話の如く。

 そんな彼が屋敷には、彼の二人の子供が居た。一人は辰慧たつえと云い、典越が青鬼を滅した二年後に生まれた男子。今は十つになり、その剣筋は父典越に勝るとも劣らぬ天才と謳われている。そしてもう一人、その出自は辰慧とは異なる。

 名前を寅衛このえ。十二になる、弟辰慧と並び才覚に溢れた見た目麗しい男子であると、皆はそう云った。



 全ては家の為、主の為。それが悪と断ずれば、そもとして善悪も関係無く命じさえされれば斬るのが士。分かっていながら、いつまでも典越の心を苛むのは鬼の浮かべた笑みであった。

 僧吉と名乗りし鬼は悪では無かった。異変の全ての元凶は餓鬼へと変貌せし民草であった。鬼は、それを滅していたに過ぎず、それは本来典越らの役割の筈。

 何故彼が死ぬ必要があったのであろうと、典越は赤く染まった包みを腰に揺らしながら思った。そして何故、彼は弁明の一つもしなかったのかとも。

 様々な疑問が胸をざわつかせる中、典越が雑木林を当て所なく彷徨っていると彼の耳に何かの音が届いた。獣の足音ではない。

 それが何かを熟考する前に、典越の足はその音の方向へと向かい始めた。未だ彼の頭は鬼の事で一杯であった。故に己が今何処に向かっているかを知ることもない。

 これまでもしてきたことである。今さら何を悩む。これを迷えば、自分自身に纏う事になり、ともすれば主すらも疑うことになる。典越の士が彼を咎めた。ならぬ、と。

 すると不意に典越の足が止まった。そして彼のうつむきがちな双眸が見下ろしていたのは、まるで鳥の巣のように雑に敷き詰められた藁の上に寝かされ、そして鳴き声を挙げる、腹掛けをすっかり汚した赤ん坊だった。

 これが鬼の子である。既に典越の手は剣の柄へと掛けられていて、握り締めようとするのは士の典越であった。全ては家の為、主の為。士としての使命を全うせよとそれが告げる。しかしどうだ、目の前に居る赤子が鬼に見えるか。肌は赤くもなければ青くもない。角も牙も、柔肌の何処にも存在しない。

 これは人の子である。柄を握り締めんとするのりえつを、典越が遮る。めきめきと骨子の軋む音を響かせ、震える右手は樹木のように節くれ立っていた。

 そしてやがて典越の手が剣より離れ、その両手が赤子へと伸びた。すっかり冷えてしまったその肌に指先が触れた時、心が揺れた。既に使命は果たされたのだ。鬼は今、己が腰に掛かっている。さすれば今、剣に代わり諸手に抱きしはただの哀れな遺児でしかない。

「これは、人にござる」

 人の子を見詰めるその瞳もまた、人のものでしかなかった。

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