御柱様の旦那様
塔之原の衛生疫学研究所は、学際研究の一環として、近隣の塔之原大学から学生を一人迎え入れることになっていた。
かつてオコリ病が大流行した際に画期的な血清の発見で名を上げたこの研究所は、予算も増額されて上り調子にある。
「予算のついでに、学生まで押し付けますってかね」
同僚のぼやきに、オコリ菌研究担当の仁能ドクターは、
「まあ、そういうなよ。真っ先に新制度で対象にされたのは、それだけ期待が大きいのさ」
「面倒なのは仁能だのに、気楽そうだな。学生さんが来るのはお前んとこだろ」
仁能ドクターは時計を見て、
「その学生さんがそろそろ来る時間だ」
仁能研究室のドアがノックされる。
「どうぞ」
「失礼します」
私服姿の大学生が入ってきた。研究室の一同に礼儀正しく頭を下げて、
「お久しぶりです、仁能先生」
「ああ、気楽にして、そこにかけてくれ。君は我が研究所の大功労者なんだからな」
同僚は仁能ドクターの肩をつかんだ。
「おいおい! オコリ菌の血清を提供してくれた、そうだ、白羽君じゃないの! 安田教授が発表したオコリ菌の論文、重金属分解のやつさ。実はあれって、君がほとんどまとめたんだろ」
椅子に座った学生、白羽祐矢は照れた様子で、
「自分は基礎の考察とデータ集めをしただけで」
「その考察がユニークなんだよ! くそ、ずるいな、仁能。なあ、白羽君、うちも面白いぞ」
祐矢は頭を下げて、
「すいません、オコリ菌の研究が好きなんです」
「こんな菌のどこがいいのかね? なあ、俺の研究は」
仁能ドクターが同僚のわき腹を突付き、小声で、
「おい、察しろ」
同僚は、自分の額をぴしゃりと手で打った。
「……すまん、君もご家族を。失礼な発現をお詫びする」
仁能ドクターも、
「私が最初に適切な診断をできていれば、あるいは…… 彼女は本当に残念なことをした」
祐矢は朗らかに、
「いえ、先生。自分は好きだからやっているだけです。真白たちとはいつも一緒ですし」
そう言って、手で胸を押さえてみせる。
心の中にいるという意味だろうと、仁能ドクターたちは受け取った。
「ところで白羽君の呼び方なんだが」
「はい?」
「君はどこでも、同じ呼び方をされていると聞いたのだが」
「はあ」
「よって、当研究室でもこの呼び方を採用することにする。ようこそ、旦那様! 仁能研究室へ!」
それだけはご勘弁、という顔の祐矢に、研究室中から拍手が飛ぶ。この呼び名が承認された証だった。
白羽祐矢は、伝染病研究の道を歩んだ。大学卒業後は院に進み、それも卒業すると正式メンバーとして衛生疫学研究所に入った。彼の研究成果によって衛生疫学研究所は対伝染病の世界戦略拠点と呼ばれ、多くの人命を救い続けた。
彼にはもう一つの顔があった。世界になおも満ちる紛争、テロ。白羽祐矢は惜しみなく時間と財を投じ、それら暴力と貧困の被害者救済にあたった。飛鳥瑞希はそうした暴力の元となる思想や信仰の対立を解決すべく、物語を通じて世界に訴えかけ続けた。三月蒼と三月朱美の兄妹は、ジャーナリストとして、また救援物資の輸送活動で常に祐矢をサポートした。
世界中のどこでも、祐矢は呼ばれ続けた。旦那様、ダーナ様と。
「旦那様、そろそろ約束の時間だよ」
「おお、そうか。ありがとう。近頃はどうも忘れっぽくて」
床の間からの声に、縁側で外を眺めていた祐矢は、傍らに置いていた杖を手に取る。杖がないとどうにも歩きづらくなってしまった。
床の間の少年は、壁に架けてある写真に手を合わせてから、
「いい写真だね。この真白さんの写真は旦那様が撮ったもの?」
「どうなんだろうね」
あいまいな返事に少年は頭をひねる。
「クリスマスプレゼントにあげるつもりのカメラだったのだが、結局、真白に渡す機会がなかった。ところが、メモリーにその写真がなぜか収まっていたのだよ」
「旦那様が試し撮りして、忘れてたんじゃないのかな」
「ははは、まあ、そうかもしれん」
祐矢は杖をついて立ち上がった。
「さて、私は出かけるとしようか。今日は遊びに来てくれてありがとう。朱美さんによろしくな」
「うん。そうそう、おばあちゃんといえば、私さ。赤御蛙様を引き継いだんだよ。お父さんが悔しがって、へへ」
少年はポケットから紙の束を取り出し、それを小さな御蛙様に変じさせてみせる。
「ほう、やったな! ついに朱美さんも満足する後継者を見つけたか」
祐矢は我がことのように喜ぶ。
少年は祐矢の代わりに戸締りを済ませ、玄関から出てきた。
「じゃあ、また遊びに来るよ。旦那様」
祐矢は手を振った。
「また、か……」
杖をついて、夕暮れ時の塔之原高校へと向かう。三十年ほど前に建て替わり、すっかり様相も変わってしまったが、ホワイトオークの大樹だけは手を入れられていない。そこが約束の場所だ。
大樹は昔と変わらない姿でそびえている。間もなく本格的な春の季節が到来し、そうなれば濃い緑の葉をいっぱいに開かせることだろう。
「この木はいつ来ても変わりませんね」
木の下で待っていた文原綾は言った。
「あなたこそ、お変わりなく」
祐矢が挨拶する。
輝ける銀髪、深い翠色の瞳、透き通るような肌の少女。綾は出会ったときと変わらない姿だった。違いといえば、
「髪型をお変えになったようで」
綾は少し照れたように、
「皆歌がこういう髪型も好きだと言ったから」
「相変わらず元気なようですね」
「困ってしまうぐらいに」
祐矢は微笑んだ。綾は大樹を見上げ、
「七十年前に予測をお伝えした通り、この世界線は再び補陀落に接近します。これはあなたにとって最後の機会です。しかし」
「私はこの日を七十年待ってきました」
「もうこの世界線に戻ることはできないのですよ」
祐矢はしわだらけの手で大樹をなで、
「先日、贈られた力は全て送り終わりましてね。旦那の役割も、これで仕舞いです」
「補陀落は始まりも終わりもない永劫の領域。そこで傷ついた魂は永いときをかけて癒される。いつか戻る日のために」
夕闇の中、綾の体が輝いた。その背に銀の光が、あたかも翼のように浮かび上がった。
「最後にお伝えしておくことがあります。かつて私は異神に破れ、還ることのできぬ狭間の領域に落ちました。私の伝承は終わり、我が世界と共に存在を喪失したのです」
「でも、あなたはここにいる」
「終わった伝承は取り戻せない。しかし、新たに語られた伝承は新たな命をもってやり直すことができます。そうして我が妖精境は回復された」
綾の手が触れると大樹の幹は音もなく分かれていき、双樹となった。その狭間に果てしない暗闇が見える。祐矢は暗闇に足を踏み出そうとしたとき、思い出したように杖を綾に手渡した。
「この大樹についた宿り木で作ったものです。守りの役に立つこともあるかと」
綾はしっかりと受け取った。
「では、またいつの日にか。守語者の長、妖精境の主。妖精王よ」
「お預かりします。またいつかお会いする日がきっと来るでしょう。御柱様の旦那様」
祐矢の体は暗闇へと落ちていった。
光が見えてくる。暗闇の中、光が星のようにまたたいている。光の一つ一つが補陀落に眠る魂。
祐矢の体は宙をゆっくりと流れていく。その先には丸く球のように生い茂る大樹があった。枝は絡み合い、中に眠る者を臥所となって守る。祐矢が近づくと、枝は解かれ、静かに開いた。その奥に眠り続ける真白。彼女が見る安らぎの夢は傷ついた魂たちを慈しみ、悲しみを癒す。彼女は美しい。彼女は幸せそうだった。そう、いつも愛する者と共にあったのだから。
祐矢はその隣へと静かに体を横たえた。枝は再び絡み合い、閉ざされていく。御柱様と旦那様は一つの夢を見る、一つの星となった。夢は新たな伝承を語り始めた。
その日は曾祖父の誕生パーティで、ホテルの会場に大勢の客が集まっていた。
あの年でまだお祝いするのかと曾祖母は呆れていたが、悪いことではない。祐矢としては、まだまだ元気でいてほしい大好きな曾祖父だ。
とはいえ面倒を見させられる祐矢の両親は大変なようで、大勢の客を応対するのにてんてこ舞いだった。祖父と祖母も、これまた孫たちの相手で忙しそうだ。
今日はアメリカに渡っていた遠い親戚までお祝いにかけつける約束になっている。四人家族を代表して、次女が来日してくるそうだ。一人で無事到着できるのかと心配していたら、予想通りというか時間になっても姿がない。このホテルは駅からの道がかなり分かりづらいのだ。
祐矢はホテルを出た。細い道路を渡って、公園に入る。この公園が罠なのだ。道が込み入っている上に地図が不親切ときて、初めて来た人はほぼ確実に迷う。
別に祐矢が探さなくてもいいのだが、誰か困っていると反射的に体が動いてしまう。曾祖父譲りの難儀な性格だ。行き違いにならないよう、まず主な道を走って回る。ジョギングのお姉さんや散歩の老人しか見当たらなかった。次は小道。ここにもいない。案外、違うルートで会場に入ったのかもしれないと道を戻りかけたときだった。
公園の丘に、女の子がちょこんと座っている。途方にくれた迷子の子犬みたいな様子で、その子は紙片を眺めていた。見つけた! あれはパーティの招待状、ということは、あれが約束の子だ。
祐矢は女の子へと歩んでいく。彼女は腰まで黒髪を伸ばし、太めの眉にちょっとたれ目、きゃしゃな見た目で、正直言って祐矢のストライクゾーン。これ以上ないくらいに好みのかわいさだ。ただし意志はかなり強そう、手強いと見た。白いブラウスにロングスカート姿がよく似合う。
彼女がこちらに目をやった。祐矢はポケットから自分の招待状を取り出して頭上に振ってみせた。彼女はぱっと表情を輝かせ、立ち上がるやこちらに走って丘を降ってくる。祐矢の体も反射的に走り出す。なぜだか危ない、と感じたのだ。そのせつな、彼女の靴が草を引っかけて体が宙を泳いだ。
「きゃっ!」
彼女の叫びに、祐矢は跳ぶ。頭から突っ込んでくる彼女を抱きかかえる。勢いは止まらず、体勢を崩した二人は倒れこんだ。背中が大地に叩きつけられ、その上から彼女が落ちてくる。サンドイッチだ。肺の空気が叩き出され、衝撃に息が詰まる。良かった、俺が下だった。
倒れて抱き合ったまま、二人は目を合わせた。大丈夫ですか、初めまして、そう話しかけようとした祐矢は、彼女の瞳に言葉が止まった。その美しい双眸からは涙がしたたり落ち、かわいい顔がくしゃくしゃになっていた。顔は真っ赤だ。彼女の涙が自分の頬を濡らし、怪我でもさせたかと祐矢は慌てる。
彼女は祐矢を見つめた。彼女の唇が開いた。震える声で告げた。
「ただいま……」
そのときだった。祐矢は知った。還ってきたのだ。我が半身。魂を共有する者。
祐矢の唇が動いた。魂が動かした。
「お帰り……! 真白」
永劫の時を経て、今こそ取り戻したのだ。
「お待たせしちゃったでしょ」
彼女は身を起こし、泣きながら笑って言ったのだった。
祐矢は全ての思いを込めて応える。
「いや。ずっと…… ずっと一緒だったよ」
それはもはや語られることもなき、小さな街の小さな少女が大地を救済した物語。
御柱様の旦那様 完
御柱様の旦那様 モト @motoshimoda
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