御柱様と御蛙様 1

 その日の塔之原高校は、いつもと一味違う登校風景だった。

 まだ朝も早いというのに校門には風紀委員がずらりと並び、生徒を威嚇する。中でも薙刀を構えてにらみつけてくる少女の姿が恐怖の対象だった。彼女は一年生のときから風紀委員を事実上締めていたと噂される影の風紀委員長、文原皆歌。二年生になった今、もはや風紀委員は完全に彼女の支配下となっている。近いうちに真の風紀委員長となるのは既定事実だった。腕も立てば度胸もあり、その上に美しいとくれば、猛者ぞろいの風紀委員たちですら心酔するのも無理はなかろう。

 赤髪の地毛をポニーテールに結び、深い翠色の瞳を持つ異国生まれの彼女は、それだからこそ違反に敏感である。

「そこ!」

 彼女の薙刀が走り、通り抜けようとした一人の生徒を阻んだ。三年生の男子生徒だ。ラグビー部の彼は、文原皆歌の優に二回りは大きい。

「も、文句でもあるのか」

 開き直ろうとする彼の前で、皆歌は薄く笑った。白刃の刀身が放つがごとき磨きぬかれた殺意にあてられて、

「ひっ」

 恐怖の叫びを漏らした彼の前で薙刀が踊り狂う。彼の体になんの衝撃を与えることもないままに、ワイシャツのボタンがことごとく外され、カバンが開かれ、ポケットの中身が薙刀の上に載せられる。

 文原皆歌は宣告した。

「胸のネックレスは校則第八条違反、カバンのディスクは十八禁、そして煙草はお姉様に違反です! お姉様が煙草の煙を嫌いと知ってこの仕業、断じて許しはしません!」

 煙草に関しては、法律がどうこうといった問題ではないらしい。文原皆歌の姉は、塔之原高校の生徒会長である文原綾。皆歌が風紀委員をやっているのは、ひとえに姉を守るためだ。彼女の姉は煙草の煙が大の苦手だった。ルールもへったくれもない公私混同の主張だが、結果として風紀の活動を外していないのと、そもそも皆歌が言うことを聞くのは姉だけ、ときては仕方ない。

 薙刀の嵐に凍り付いていた彼を、風紀委員たちが連行していく。哀れな彼には生徒指導の先生からこってり絞られる運命が待っているのだ。

「旦那様、すごいですね、今の!」

 登校してきた御柱真白は、ちょっとたれ気味の大きな目をさらに見開いて、皆歌の薙刀技に感動していた。

 季節はもう初夏。真白はブラウスにスカートの夏服で、包帯を巻いたりはしていない元気な姿だ。春のときの怪我は、贈り物の羆肉をいただいてからすぐに完治していた。

「皆歌を怒らせるんじゃないぞ」

 一歩前を進む白羽祐矢が優しく言う。本人的にはそのつもりはなさそうだが、真白には優しく聞こえる。

「はい! 旦那様」

 真白は祐矢に続いて校門を通る。祐矢が一歩前を行くのは、真白を気遣ってくれているからだ。その証拠に、祐矢は後ろを見ていなくとも真白との距離が付かず離れず。二人はぴったりのリズムで歩いていける。だが、それに目をつけた者がいた。

「彼女というより、長年の夫婦に見えるのはどういうこと。二年八組十七番、学級委員長の白羽君」

 薙刀の皆歌が立ち塞がる。祐矢は苦笑しながら、

「親戚だって言っただろ」

 形式的にカバンを開けてみせる。その横に並んで、緊張した面持ちの真白もカバンを開く。皆歌は覗き込んで、同じ匂いのお弁当が入っているのを発見、にやりとした。

「ご協力ありがとう。今日は春巻きと八宝菜でしょ、おいしそうね」

「手作りだから。それより抜き打ち検査って、どうしたんだ風紀委員は。この前の全体委員会じゃ予定はなかったよな」

「お姉様に害をなさんとする者がいるのです!」

 和やかな様子だった皆歌が、祐矢の言で一変した。皆歌が薙刀を一閃してからその柄先を地面に叩きつけると、地響きのような衝撃が走る。竹製の薙刀が、まるで焔でも噴き出したように見えた。通り過ぎようとしていた生徒はおろか、風紀委員たちまでが恐怖の表情を浮かべる。皆歌の怒りは誰かに叩きつけられねば収まりそうにない。

 真白が、祐矢の前についと出た。

 皆歌はきょとんとする。追い詰められたうさぎのような面持ちで体も震えている一年生が、祐矢の前に立って手を軽く広げ、皆歌に真っ直ぐ顔を向けてくる。どういうつもりなのか。

 ぽんと手を打ってから、皆歌は吹き出した。この子はわたしから祐矢を守ろうというのだ。この、小さくきゃしゃで戦う術も持たない子が。

 皆歌から殺気が霧散した。張り詰めていた空気がふわりと緩む。

 皆歌は真白の肩を軽く叩き、

「あなた、ちょっとお姉様みたいね」

 風紀委員の列に戻っていく。

 真白は緊張から開放されて力が抜け、よろけかける。後ろから祐矢が肩を支えた。

「お姉様?」

 いぶかしむ真白に祐矢が、

「あれが最高のほめ言葉なんだよ」

 皆歌の姉である生徒会長の文原綾は、絶世の美少女、という言葉では足りないほどの美しさ。肉体の重さを感じさせないまでに軽やかで、光輝あふれる妖精のよう。彼女が生徒会長になって以来、この学校は空気の香りが変わったとさえ言われている。

 ちょっとたれ目に太い眉がかわいらしい、小さな真白とは違う世界に住んでいる存在だ。比べられた相手がすごすぎて、真白はぴんとこない。

「生徒会長も引かない人だからな」

 祐矢は真白に微笑み、歩き始めた。真白もちょこちょこと付いていく。やっぱり旦那様と一緒ならいつでも安心、いつでも幸せ。


 抜き打ち検査の件で、学校では授業中も激しく噂が飛び交っている。

 日本史の授業が行われているこの一年三組でも、情報の書かれた紙が生徒たちの間を回っていた。携帯が厳重禁止のここでは、情報伝達も伝統的方法に頼るほかない。

 黒板に書かれた年表を懸命に筆記していた真白は、背中を数回つつかれてようやく、後ろの席から紙が回ってきたことに気付いた。差し出された手から紙片を受け取り、読んでみる。

 学校のあちこちで、煙草が発見されているらしい。それも一本や二本ではなく、箱ごとだ。トイレに始まり、廊下、体育館、ついには生徒会役員室の前に一カートンが置かれるに至って、裏の風紀委員長がぶち切れた。お姉様への挑戦は断固として許さじ。号令一下、風紀委員は立ち上がったのだ。

「御柱! 御柱真白!」

「は、はい!」

 突然呼ばれ、真白は慌てて返事する。一年三組の担任にして日本史の教師、飛鳥先生が目を怒らせていた。生徒同様、先生も夏めいた姿に衣替えしてブラウスにタイトスカート。スタイルの良い体がさらに目立つ時期となったが、うっかりその魅力的な胸を眺めたりしているとどんな目に合わされるか分からないので、男子生徒にはうれしくも恐ろしい季節だ。

「その紙を出せ」

 素直に真白は紙片を渡す。飛鳥先生はちらりと眺めてから胸ポケットに収め、

「昼休み、進路指導室に出頭しろ」

「はい!」

 周囲の生徒たちが同情の目で真白を見た。たまたま回ってきたところを怒られるだなんて、実に運が悪い。

 生徒指導も担当している飛鳥先生は、その厳しい指導ぶりに定評がある。どれほどの責め苦が待っているか想像するだに恐ろしい。ただし真白当人はといえば、心を弾ませていた。このところ忙しくてあまり相手をしてくれなかった先生が、たっぷりとお話をしてくれるのだ。そのお題はともかくとして。

 授業が終わった。昼休みだ。

「御柱、カバンを持って来いよ」

「はい?」

 先生の言に、真白はカバンを持って教室を出る。無言の応援を背に受けながら。

 進路指導室は、一階の職員室近くにある。その場所だけでも不人気だが、窓は擦りガラスで中から鍵をかけられる防音の部屋ときては、生徒たちにとってこの上ない禍々しさといえた。

「職員室に寄ってくるから、先に入って待ってろ」

 先生に促されて、真白は進路指導室に足を踏み入れた。初めて入るそこが面白くて、真白はくるくると回り眺める。

 くくっと笑う声がした。飛鳥先生が入ってきて、扉の鍵を閉める。

「進路指導室で踊るやつは初めてだ」

 先生は自分の手提げカバンから、サンドイッチに缶コーヒーを取り出した。阿吽の呼吸で、真白もカバンからお弁当箱を出す。

「いただきます」

 昼食会が始まった。真白のメインディッシュに先生は、

「二人で作ったのか」

「はい」

「仲はいいみたいだな」

「はい!」

 先生は一拍置いてから、言いづらそうに、

「その、健全な付き合いなんだろうな。保護者としては、なにかあっては困る」

 親がいない真白の保護者役を飛鳥先生はやっている。高校生の二人住まいが学校で問題になっていないのも、なんとか先生がごまかしているおかげだった。それもこれも、真白と祐矢を引き離すと真白だけがろくな目に遭わないからだ。やむをえない措置だったとはいえ、高校生の男女が二人きりで住むのだから先生は心配でならない。しつこいぐらいに祐矢本人には、手を出したら殺すと釘を刺していた。

 さて、先生の言も真白には今一つ意味が伝わっていないようだった。小首をかしげる真白に、

「なんだ、あの、お風呂で背中を流したりとか、してはいないよな」

 真白は得心して、ちょっと悲しそうな顔で、

「やろうとしたら、物凄く怒られました」

 先生はほっとため息をつく。祐矢がむしろかわいそうになった。無心にくっついてくる真白をはねのける毎日はさぞかし苦行だろう。

 防音された静かな部屋で、しばらく静かな昼食会が続いた。春巻き一本とサンドイッチ一片が交換され、先生は久々の手作り料理に舌鼓を打つ。

 と、ドアが激しくノックされた。せっかく邪魔の入らない場所を選んだというのに、先生は不機嫌顔で立ち上がった。ドアの覗きレンズから来訪者を確認した先生は、軽く笑う。

 先生はドアの鍵を開け、少しだけ開いて来訪者に顔を見せた。

「先生! 真白がなにをしたって言うんですか! 紙が回ってきたぐらいで」

「白羽、命令だ。急いでカバンを持ってこい」

「はあ?」

 来訪者、白羽祐矢は戸惑った様子だったが、部屋から流れてくる匂いに悟ったのか、

「後で窓を開けたほうがいいですよ」

 と言い残し、教室へときびすを返した。三分もせずに、カバンを提げて戻ってくる。

 先生は面白そうに、

「どうやって聞きつけたんだ、白羽」

 祐矢はカバンからお弁当を取り出しながら、

「国語テストのマークシートを埋めてたら、なんていうか、幸運が来ちゃって。真白に不運があったんだろうと」

「二年は模試だったな」

「国語はたぶん満点ですね」

 祐矢は心配だった。真白の呼び出しはたいした不運でもなかったようだし、満点の幸運と釣り合ってくれるだろうか。

 同居し始めてすぐの頃、祐矢は真白といろいろゲームを遊んでみて、御柱様が旦那に運を贈るというのが事実であると認めざるをえなくなっていた。トランプでババ抜きをやれば、最初から真白はババを持っていて、一度も祐矢が引くことなく勝負は終わってしまう。ポーカーで何度やっても自分にロイヤルストレートフラッシュが来たときにはめまいがした。無論、真白は常にブタだ。双六では真白がいつまでたっても一回休みから脱出できず、ゲームにすらならなかった。

 マークシートで運に一切頼らないのは極めて難しい。今後はどうしたらよいものやら。しかし真白の楽しげな様子に、今は不安を表に出すのを止める。

 これで昼食会のメンバーは三人になった。

 まだ幼い頃に両親も双子の姉も失って祖母と二人で暮らしてきた上、祖母も亡くしてしまった真白は、にぎやかな食事がまるでお祭のようにうれしい。ずっとずっとおいしくなる。はしゃいで、

「お父さんお母さんと食べるのって、こんな風に楽しいのかな? 先生、旦那様」

 祐矢がむせる。先生は、

「もしかしてだな、白羽が父さんで先生が母さんか」

 真白は頭を左右に振って、

「先生がお父さんで、旦那様がお母さん」

「そうか、白羽はお母さんか? それは気の毒だな、白羽!」

 先生は祐矢の肩を景気よく叩く。笑いが止まらない。祐矢は憮然として、

「先生の役はお父さんですよ」

「私は構わないが。保護者だからな。いやはや、心配していたのが虚しくなったぞ」

 先生は平然とかわした。旦那様がなんで気の毒なのか、真白にはどうしても理屈がつかない。お父さんの方がうれしかったのだろうか。

 楽しい食事が終わった。もうすぐ予鈴が鳴る時間だ。片付けてから、先生は窓を開放する。

「真白。皆に聞かれたら、こってり絞られたと言っておけよ。それと白羽。放課後は歴史研究部まで来てくれ。かなりのひねくれ者だが、会わせたいやつがいる」

 先生は言い残して、職員室に戻っていった。

「ねえ、旦那様。お母さんは嫌?」

 カバンを手に、真白が尋ねた。

「嫌というか、さ。俺自身を見てほしいね」

 真白は大きく首をかしげる。もっと分からなくなった。

 悩んでいる真白に胸の痛みを覚えた祐矢は、話を切り替えることにして、

「今日はテストなんで、俺は終わるのが早い。真白は終わったら、歴史研究部まで呼びに来てくれ」

「はい、旦那様!」

 二人は進路指導室を出た。と、真白は妙な空気を感じた。いつもの清浄な香りじゃない。よく見れば、廊下のあちこちに枯れ草の切れ端みたいなものが散らばっている。わずかな量なので目立たないが、確かにそれが匂いを発していた。煙草の葉だ。祐矢と分かれて教室に戻っても、その匂いが薄まることはなかった。同級生たちは気付いていないようだが、教室にも煙草の葉が撒かれている。

 真白は知った。今、学校中が煙草の匂いに覆われつつある。


 マークシート方式のテストで、運に一切頼らないのは神経を非常に消耗する作業だ。ようやくテストから開放された祐矢は、ぐったりとしていた。いっそ自信のない設問には無記入で答えるか、右端だけマークすればどうかとも考えたが、いい加減な回答をするのは自分が許せない。へたをすれば、問題文が間違っていたとかで、無記入すら正解という幸運に恵まれるおそれもある。とことん考え込んで回答するしかなかった。

 模試が終わり、今日はいつもより早い放課後。さっさと家に帰りたい気分なのに、頼まれごとを無視できないのが祐矢の悲しい性だ。体は勝手に、約束の歴史研究部部室へと向かっていた。

 校舎の裏手には、バラック作りの文化部部室が細長く並んでいる。通称、文化部長屋。資料が多いせいで、歴史研究部は他よりも大きな部室を与えられていた。単に、顧問である飛鳥先生の声が大きいせいかもしれないが。

 夏はより暑く冬はより寒いと評判の文化部長屋は、あちこちで窓が全開になっていた。それが歴史研究部は閉まっている。無人なのかと窓を覗いたところ、意外や誰かいるようだった。祐矢がノックすると、鍵を外す音がしてからドアがゆっくり開かれた。

「これは白羽祐矢君。運が良いですね、ちょうど分析がまとまったところですよ」

 顔を出したのは三年生の三月蒼、ただし通称のミカエルで呼ばれることがもっぱらだ。青みがかった地毛が特徴的な彼は、四月に転校してきたばかりの帰国子女。世界各国を兄妹一緒に渡り歩いてきたが、妹の朱美と共に生まれ故郷の日本へ戻ってきていた。噂によると病気療養のためらしい。確かにいつも顔は青い。彼の通称であるミカエルというのは、各国で呼ばれてきた中でも彼がもっとも気に入っている呼び名なのだという。

 ミカエルは資料収集や調査が大の得意。歴史研究部に入るやたちまち頭角を現して、先月の文化祭発表では塔之原の憑き神伝承について独自の考察を発表し、塔之原大学からも注目を浴びているほどだった。祐矢も学級委員長として文化祭実行委員会に参加させられた縁があって、ミカエルの顔ぐらいは見知っている。頭脳優秀、眉目秀麗にして背も高ければ運動もこなすミカエルは、これであまりに理屈っぽくさえなければ、結構もててもいただろう。学校で彼と親しく話す女性ときたら、今となっては妹である二年の三月朱美か、飛鳥先生ぐらいのものだった。

 その三月蒼ことミカエル三月がドアを開いて、祐矢を歴史研究部の部室に招き入れた。

 窓が閉められていた部室は、むっとする暑さだ。部屋の片隅で白い電気器具が動いている。違反の冷房器具かと思いきや、それは蒸気を吹き出している加湿器ではないか。

「暑くないですか、三月先輩」

 額の汗を拭う祐矢にミカエルは椅子を勧めて、

「これが健康にいいのですよ。それとボクのことはミカエルと呼んでください」

 病気療養のためであれば仕方ないかと諦めて座った祐矢は、机上の大学ノートに目を留めた。御柱様伝承フィールドワークその一、と表紙に記されているそれは、祐矢が三ヶ月前に飛鳥先生から借りたものだった。古文体でメモされたそれを読んで分かったのは、代々の御柱様は十八歳が享年であること、旦那は代々がこの地方の名士として貢献してきたこと、それぐらいだった。繰り返し使われている表現だけをなんとか理解した成果だ。真白が十八歳になるまでは、まだしばらくある。心配だが、それ以上のことは専門の飛鳥先生に任せるつもりだった。しかし、あのノートがここにあるということは。

「私が今取り組んでいるのは、この御柱様伝承なのですよ」

 席に着いたミカエルの言に、祐矢は落ち込みそうだった。飛鳥先生は、このミカエル先輩を頼ったのだ。自分はただ任せただけ。しかし、それどころではなかった。

「このノートに記録された伝承から、ある重大なパターンを私は発見した、と言ったらどうします」

 ミカエルが青白い顔に薄笑いを浮かべる。この気味悪さも不人気の秘訣だ。それでも文化祭発表の見事さを知っている祐矢は、

「三月先輩! 聞かせてください!」

 飛鳥先生が自分を呼び出したのも、きっとこの件だろう。真白に関わる重大な真実が明らかになったのではないか。

 ミカエルは含み笑いをしてから、

「飛鳥さんが来てからにしましょう。その前に、別の話をしてあげます。御柱君と白羽君に関して、とても興味深い事実ですよ」

 まさか二人暮しの件でもあげつらう気かと、祐矢は身構えた。学校への建前では、真白は真白の両親と暮らしていることになっている。祐矢はそこに下宿ということにしていた。ちなみに祐矢の両親は、祐矢がおばさんと同居だと信じている。広い意味では間違ってはいないものの、先生のせいで祐矢は辻褄合わせに苦労していた。

 再びドアの閉められた部室は、まるでジャングルみたいに蒸し暑い。全身から汗が吹き出てくる。

 汗一つかいていないミカエルは、机上に並べていた封筒から数枚の紙を取り出し、

「私と妹は情報収集が得意分野でしてね」

 それは英文の書類だった。氏名、住所、電話番号、職業などの個人データが並んでいる。アイディーカードのコピーまであった。氏名は真白の両親と同じ、添えられた写真は、真白とどことなく似ていた。そこにある日付はごく最近のもの。

 祐矢は目を疑った。

「真白の両親はアメリカでの事故で亡くなったはず」

「親に捨てられる子供が哀れで、そういう話にしたのですな」

 祐矢は明確な悪意を感じ取った。

「嘘だ。でたらめに決まっている。こんなもの、いくらでも偽造できる」

 祐矢の闇雲な反論をミカエルは鼻で笑って、

「この大半は公開情報です。真実であることは十分に確認できます。なんなら電話をかけてみるといい。さて、こちらは古かったので若干時間がかかりましたよ。ごらんなさい」

 ミカエルが示したのは、英文の契約書らしきものだった。四苦八苦しながら意味の読み取れた部分をつなぎ合わせてみるに、それはドナー承諾書のコピーらしい。臓器提供者が万一の際に臓器提供を承諾した証だ。本人ではなく、家族が代わりに書いたものだった。家族の氏名は、真白の両親。提供者の名前は、マキ・ミハシラ。真白の姉。

 そして提供した臓器は、心臓。

「ま、まさか!」

 祐矢は息を呑む。ミカエルは次の紙を示した。心臓移植手術に関するレポートだ。奇跡的な幸運で、完璧な成功を収めた移植手術。十数年を過ぎても患者はまったく問題なく日本に健在。すばらしき成功例として記録されている。

 見たくない。その先を知りたくない。

「ドナーはマキ・ミハシラ。提供を受けたレシピエントはユウヤ・シラハネ。君ですね」

 そうだ。名前、年齢、状況、全てが符合する。この胸の中で、真白の姉さんからもらった心臓が動いているのだ。それだけであれば、すばらしい奇跡であるかもしれなかった。

 ミカエルはその暗く整った表情の奥で、喜びの感情を漂わせていた。かすかにその声にも興奮をにじませながら、

「御柱様の不運は旦那様の幸運、これが伝承に述べられている法則です。次代の旦那様となるべく生まれた白羽君は、不運にも心臓に病があった。それも放置しておけば致命となる重い病が」

 祐矢の頭に、ミカエルの言葉が響く。

「君を助けるべく! 御柱様となった御柱真希は! 究極の不運を得たのです!」

「止めてくれ……」

 祐矢の力ない懇願に、ミカエルは昏くその瞳を輝かせて、

「君には知る義務があります! 御柱真希は生贄となって、その心臓を旦那様に贈った。これが事実です! 御柱様とは、旦那様に命を贈る、ただそれだけのために生まれてくる犠牲! 旦那様とは御柱様の命を吸って生きる存在!」

「止めろ! 止めろ……」

 祐矢は力なく立ち上がった。この場を逃げよう。この嘘から脱出しよう。だが、真白はなんと言っていた? 旦那様のために生まれたと。祐矢の胸に手を当てて、姉さんは立派な御柱様になったと。

 真白は分かっていたのだ!

 ドアを開けて、よろよろと部室を出ようとする祐矢の背中に、ミカエルの言葉が投げつけられる。

「御柱家が幼い師妹を連れてアメリカに渡ったのは、御柱様の運命から娘たちを引き離すためでしょう。だが、旦那様のほうが心臓を奪いにはるばる海を越えてやってきた! こりゃ、こりゃ最高におかしいですよ! 傑作です。御柱真白が日本に一人いたのは、諦めた両親から捨てられたのですな! いや、売られたんですよ!」

 聞き捨てならない言葉に、祐矢の動きが止まる。

「手術の後に、先代の旦那様であった白羽頭矢氏は、白羽君と共に御柱真白も日本に連れ帰っているのですよ。両親にはたっぷりお金を渡してね。そのときでしょうな、証文を書かせたのは。いやはや、御柱様を二人も持った旦那様は知られている限りただ一人。白羽君は、最高に幸運です!」

 許せない。曾祖父と真白の両親、なによりあの真白を侮辱することは許せない。殴りかかってやろうとした祐矢の動きが止まった。

 真白がいた。授業が終わり、約束通りに部室までやってきたのだ。目を見開き、祐矢をただ真っ直ぐに見つめている。

 祐矢の心と体が張り裂けた。

 聞いて、いたのか。

 なにが真白を守るだ。自分の命は、御柱様から贈られたものなのだ。いずれ真白が十八歳になったとき、あの石柱に記された年齢になったそのとき。真白もまた、旦那に命を贈るのか。命をかけて俺を守るというのか。俺の存在が真白を殺すのか!

 逃げたい。あらゆるところから。自分自身から。

「旦那様?」

 真白を振り切って、祐矢は駆け出した。その背中を甲高いミカエルの笑い声がなぶった。

 ひとしきり笑った後、ミカエルは誰もいないはずの部室へと話しかける。

「ここまでは大成功だ。次は任せたぞ」

 蛙の鳴き声が、それに応えた。

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