御柱様と熊神様 3

 塔之原大通りは、この塔之原市でもっともにぎやかな繁華街だ。街で一番大きな通りの左右に商店街のアーケードが延々と並んでいる。

 今やその車道はパトカーや消防車で封鎖され、歩道は逃げようとする人々と整理の警官で押し合いへし合い、パニック状態だった。

 そして、車道の向こうにそれはいた。

 大型の肉食獣。それも、このあたりにはいないはずの羆、熊科では最大最強を誇る種だ。なかでもそこにいる一頭は、並外れて大きかった。身長は四メートルを軽く超え、体重も五百キロを優に上回っているのではなかろうか。妙なことに野犬の群れが羆を守るように囲んでおり、警官たちに吠え立てている。まるで羆が野犬を従えているかのようだ。

 祐矢がたどり着いたのはパトカーによるバリケードの手前。そこから羆まではかなり距離があるのに、その巨躯は圧倒的だった。

 車道には羆の玩具にされたとおぼしき車が転がり、アーケードの八百屋や魚屋、肉屋は蹂躙され、食い荒らされて無残な姿をさらしている。

 見たところ人は倒れたりしていないことに、祐矢は少しほっとした。真白がここにいる確証などないが、要は熊の周囲に真白がいなければよいのだ。

 バリケードに向かってゆっくりと歩いていた羆は立ち止まり、大きな頭を上げて鼻をひくつかせた。その黒く底知れない瞳に、大きな建物の入り口が映る。緑宝ストアだ。その奥からは芳しき香りがただよってくる。羆はそちらへと行き先を変更した。

 警官隊に動揺が走った。もうじき隣の県から猟友会のハンターたちが駆けつけてくる予定なのに、まだ民間人が退避しきれていない建物に入られては射撃が困難になってしまう。

 祐矢としては、さらにそれどころではなかった。あの店内に真白がもし残っていたら。片腕を吊っている上に杖なしでは歩けない今の彼女が熊と出会ってしまったら。

 祐矢はほぞを噛む。まったくうかつだった。怪我だろうと意に介せず元気に働き、外出し、お買い物をするのが真白なのだ。熊はともかくとしても、一人にすべきではなかった。

「ちょっと、すいません」

 歩道から流れてくる人をかき分け、パトカーをひょいと乗り越える。

「危ないぞ、止まらんか!」

 制止しようとする警官を振り切って、放置車両だらけの車道を祐矢は走った。熊を撃退することなんてできないが、真白を逃がすぐらいなら無理ではなかろう。

 緑宝ストアの入り口には、野犬の群れがたまっていた。野犬は露骨に敵意を表して、むき出しの歯とうなり声で祐矢を威嚇する。羆の重量で砕かれたアスファルトの破片を拾い、祐矢は野犬の群れへとそれを投げつけた。ことごとくが鼻先に命中。運が良い。野犬たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、尻尾を巻く。

 祐矢はその隙を見て、羆が消えていった緑宝ストアの入り口に飛び込んだ。扉のガラスは羆の一撃で粉々に粉砕されていた。

 祐矢は一階の食料品売り場を走りぬけ、誰かいないか確認する。さすがに一階からは退避が完了していたらしく、誰もいない。意外なことに熊すらもだ。熊は食料品狙いだとばかり考えていた祐矢は意表を突かれた。

 この階にいないのならば、上の階ということだ。祐矢は買い物籠を手に取り、熊の誘いに使おうかと、そこらの食料品を放り込んでから階段に向かう。予想通り、階段には熊の毛が落ちていた。ここを登っていったのだ。しかし熊というものは、人里に下りてきて初めて入った建物で、階段を理解してすぐ使うことができるものなのか。想定していた相手の知能を二段階ほど引き上げて、祐矢は慎重に階段を登る。

 緑宝ストアの二階は、服や雑貨類の販売コーナーだ。そこは今、阿鼻叫喚の場となっていた。まさかここまでは来るまいと高をくくっていた店員や客たちがパニックを起こしている。この店は古い二階建てで、非常口にあたるのは階段の一箇所だけ。階段から現れた羆に対して、もはや客たちの逃げ先はない。

 羆は天井に頭をぶつけそうになりながら、窮屈さにいらだつのか進路上の陳列棚をその太い腕で乱暴になぎ払いつつ、真っ直ぐにある一角へと進んでいる。その先にいるのは、腰までの長い髪にきゃしゃな体つき、片腕を吊って、もう片方の手には杖をつき、器用に買い物籠も提げている一人の少女。

 羆は間違いなくその少女、真白一人を見ている。鼻を鳴らして近づいてくる。真白の脚は震え、その顔は引きつっていた。だが恐怖の声を上げることもなく、涙目になりながらも懸命に耐えているようだった。羆の狙いは真白なのだ。

「真白!」

 大勢の客たちがうるさく泣き叫んでいる中、祐矢も叫んだ。その瞬間、真白の瞳が祐矢を捉えた。真白の表情が輝いた。

「旦那様!」

 そして彼女を助けようと走る祐矢の視界に映ったのは、真白の意外な行動だった。真白は脚の震えがきれいに止まっていた。その場に腰を下ろし、杖は傍に置く。羆に向かって頭をたれる。羆はその前で、腕を振り上げた。天井にぶつかり、蛍光灯の管を破砕する。電光が走った。

「なにをしてる! 逃げろ!」

 祐矢は籠に入れて持ってきていたサツマイモを羆に投げつける。続けてキャベツ、玉ねぎ、生の牛肉。熊は食料品の弾丸を煩わしそうに払い落とす。後ろから投げつけたというのに一つたりとも当たらなかった、なんという野生の反射神経だ。祐矢は細長い折り畳み式テーブルを引っつかみ、羆に向かって突きつけながら真白のいる方へと回りこむ。

 真白は頭をたれ、目を閉じていた。覚悟を決めている、というのでもない。自棄になっているのでもない。祐矢は見とれかけて、慌てて目を離した。全てを受け入れ、全てを許し、愛す。たかだか高校入学前の少女に聖母像を思い浮かべるなんて。

 羆と祐矢は、一対一で対峙していた。羆の目が、祐矢を見据える。挑発してはならないと、祐矢は目を外す。

 羆がうなった。うなりと重なるように声が聞こえた。

 汝が贈られ送る者か。ダーナか。

 どこからの声だ。祐矢は素早く左右を見回す。が、そこには羆しかいない。

 大地が血に呪われし今、我もまた血に呪縛された。血によりて我が力は猛り狂う。かくなれば、もはやダーナでなくば我を送ることがかなわぬ。

 パニックで大騒ぎの中、その声は真正面から祐矢を突き刺すように聞こえてくる。羆だ。声は羆から聞こえてくるのだ。羆のうなり声が意味を持って伝わってくる。自分は恐怖で錯乱しているのか。

 羆が威嚇するように唸る。

 汝、柱から贈られる者、柱を送る者、ダーナなれば、我を解き放て! 使命を果たせ!

 祐矢は羆と目を合わせた。羆をにらみつけた。

「使命なんてお断りだ!」

 使命から逃れることあたわじ! 送れ! 我を送れ!

 羆は咆哮した。祐矢の構えているテーブルを、熊が軽々と払い飛ばす。祐矢の手に痛みと強い衝撃が走る。

 と、その瞬間。

「伏せろ!」

 フロアの向こうから叫びが届いた。

 それに応えて祐矢は真白を押し倒し、覆いかぶさるように守る。手で真白の両耳をふさぐ。室内に銃声が轟き渡った。

 今日、車で飛鳥先生と祐矢を送ってくれた男がライフル銃を構えていた。隣には耳を押さえている飛鳥先生、それに警官たち。ライフル銃は轟音と共に次弾を送り出す。初弾と同じく、羆の頭部に命中する。

 羆は銃をにらみつける。続けて、第三弾も命中。羆は雄たけびを上げた。

 弾は確実に命中している。例え一発だけでも、頭部を貫通して脳を破壊するだけの威力を持っているのだ。だが、この羆は倒れない。恐怖に駆られて警官たちが短銃を構える。ライフル銃の男は冷静にそれを制した。ライフル弾が通用しない相手に短銃ごとき撃ったところで、無駄に刺激して客の危険を増すだけだ。

 祐矢の下で真白が身じろぎして、

「だ、旦那様、どいてください」

「今の内に逃げるぞ」

 祐矢が体を起こすと、真白も杖を手に取った。だが杖はつかずにそのまま両脚で立ち上がった。

 一瞬、怪我はたいしたこともなかったのかと勘違いしかけて、しかし祐矢は目を見開いた。

「な、なにをしてるんだ!」

 真白は顔面蒼白、苦痛の表情に顔は歪み、脂汗を浮かべている。捻挫している方の脚が、痙攣を起こしていた。片腕を吊っている包帯も、無理に外してしまう。痛みに逆らって強引に片腕を伸ばし、両腕で杖を構える。

 真白は激痛にあえぎながら、

「だ、旦那様。下がってください、ね」

 羆の後姿に向かって、真白は杖を突きつけた。

「真白が」

 息をついて、

「お、送ります」

「ば、馬鹿!」

 真白が振り上げた杖を祐矢がつかむ。

 そのときだった。

 どこからか、もう一組の手がそっと杖に添えられたかのように祐矢は感じた。

 ダーナよ、送りをなしましょう。熊神を、補陀落に送り還すのです。体の中、心臓からからその声は聞こえた。

 床から、大地から、力が足を這い上がってくる。力は足から腹へ、腹から胸へとねじれるように伝わり、腕から杖へと達した。体が力に震え、息が詰まる。杖が杖でなくなる。手がしびれる。力の塊を握っているかのようだ。

 真白が苦しそうにあえいだ。全身から力を奪われて顔面は蒼白となり、きゃしゃな体を引きつらせている。

 祐矢は力に満ち、真白は生命を削るかのように苦悶する。今、祐矢は悟った。大地を伝わってくるこの力は、真白が贈っているのだ。

 祐矢と真白に支えられ、杖の切っ先が走った。羆の分厚い毛皮を、肉を、さらにその奥の内臓までをも深く切り裂いた。

 いや、それは正確な表現ではない。万に一、億に一、それよりもはるかにわずかな確率を超えて、杖の進む先にある毛が抜け、皮が破れ、脂肪と筋肉細胞がありえない可能性に導かれて一直線に細胞死を起こし、その結合を解く。あたかも杖に切り裂かれるがごとく。

 杖は運命を支配していた。杖は羆のあばらとあばらの間を抜け、矢のごとく体内を進み、脈動する心臓を貫き通した。心臓が爆ぜた。

 今度は祐矢を下に折り重なって倒れた二人の前で、羆もまたゆっくりと倒れていき、崩れ落ちる。

 羆はその黒く深い瞳に祐矢と真白を捉える。羆は最後の唸り声を上げた。

 汝よ、我は送られる。我の遺せし贈り物を受け取るがよいぞ。

 羆の声が届く。

 ダーナよ、初めての送りをなしとげましたね。その声を祐矢は自分の体内から感じた。

 しがみついていた真白が、祐矢の胸に耳を当ててそっと呟いた。

「姉さん、ありがとう」

 羆の目がゆっくりと閉じられた。なにかがその体を離れて、高みへと遠ざかっていった。


 パトカーに送られて、祐矢と真白は家の前まで戻ってきた。飛鳥先生も一緒だ。

 羆の件は、もともと手負いだったのがあそこで力尽きたという見解になった。確かにあの杖はただの木製で、ずいぶんと古いことだけは珍しい代物だが、切る役に立つようなものではない。あのときの出来事をどう解釈したらよいか分からない祐矢も、そういうことだったのだと自分を説得した。

 病院で治療を受けてきた真白は、祐矢のリクエストによって、腕を吊る包帯がやたら厳重に巻かれている。今度はそう簡単には外せないだろう。杖も信頼できないと、祐矢は車から降りた真白を胸に抱きかかえる。飛鳥先生は悔しそうな顔をした。

 抱かれたままで、真白は空いている方の手をひらひらと振って示し、

「ほら、旦那様。そこ、そこ」

 うれしそうに告げる。表札が変わっていた。祐矢は読んでみて仰天する。

「白羽祐矢・真白、って。なんだよ、これ! その、夫婦みたいじゃないか!」

 真白は祐矢の胸に頭をくっつけ、心臓の音を聞きながら、

「旦那様だし」

「お、おい!」

 祐矢は照れながら、

「その旦那とか柱って、なんなんだよ!」

 文句を言おうとして、しかし祐矢は言葉を止めた。真白は寝息を立て始めていた。今日一日、ずいぶんと疲れたのだろう。自分の胸の中でこうまで安心されると、どうにも守らざるをえない気持ちになる。

 三人は家に入った。

 寝たままの真白は先生が着替えさせて、寝かしつけてきた。床の間へ戻ってきた先生に、祐矢はお茶を出す。

「すいません、真白のようにはうまくないですけど」

「いや、お前はよくやった」

 微妙に話がかみ合っていない。飛鳥先生はお茶をすすってから、

「私の研究によるとだな、御柱様と旦那は運勢共同体なのだ」

「運勢? 運命ではなくて?」

「私はこの地方に伝わる御柱様と旦那様の伝承を研究してきた。もはや伝える者がほとんどおらず、記録も消えうせていたのでずいぶんと苦労したのだが、驚いたことにまだ生きた伝承が存在していた。それが、御柱真白と白羽祐矢、お前たちだ」

「はあ」

「御柱様は旦那に全てを贈る。旦那は贈られた力を使って神を送る、と伝承にある。御柱様は、まず己の幸運を旦那に贈るのだ。御柱様に不運があると、釣り合うように旦那は幸運を得る。先代が亡くなった後、なにか良いことはなかったか。真白の怪我はそれに釣り合った結果のはずだ」

 祐矢の脳裏に、引越しの幸運を告げる父の言葉が浮かんだ。

「そして今日、山道で車がないという私の間抜けなミスにあい、お前は不運になりかけた」

「いや、幸運でしたけど。すぐ車に拾ってもらえて」

「それなんだよ! その幸運がどこから来たかだ!」

 真白は確かに今日ろくでもない目に遭った。二人で杖を振るったとき、伝わってくる力を感じもした。しかし、突拍子のなさすぎる話だ。真白の不運が自分の幸運だなんて。待て、その言葉はどこかで聞かなかったか。

 祐矢は立ち上がり、静かに、だが素早く二階に上がって自分の部屋から封筒を持ってくる。

 先生の前で封筒から証文を取り出し、広げてみせた。

「焼いたんじゃなかったのか。嘘つきめ」

 先生の抗議に、

「帰ってきたら焼くつもりだったんですよ。それよりこの文を」

 ましろの、ふうんは、だんなさまの、こううん、だんなさまの、しあわせは、ましろの、しあわせ。みはしらましろ。

 証文の裏に書かれている文字を、先生は読み上げる。表も確認し、ため息をついてから先生は祐矢の肩をつかんだ。

「こうも証明されてしまっては仕方ない。やはり証文にもある通りにお前が面倒を見るんだ。不本意ではあるが、できる限り一緒にいろ」

「あの、証文は焼くつもりで」

「元から面倒を見させるつもりでお前を呼んだのだし、真白には塔之原高校を勧めたのだ」

 先生の過保護ぶりに、祐矢は呆れてしまった。先生は続けて、

「真白の幸運と白羽の不運が釣り合うのなら、二人一緒にいればプラスマイナスゼロに近づくだろう。離れてマイナスになるよりも、ゼロの方がまだ幸運のはず。先代もそのつもりで証文を書かせて」

「あの」

 祐矢は話の腰を折り、

「じいちゃんは真白とたぶん会ったことがあって、証文まで取っていた。そして真白は、俺の幸運が自分の不運だって信じているらしいことは分かりました。でも言われなくたって、家主なんだし真白の面倒は見ますよ。変な伝承とか約束なんかで縛られないように、こんな証文はさっさと焼いてしまうべきです」

「分からんやつだな。先代の証文は縛らないためにあったんだ」

 先生は手を離し、立ち上がって、

「まあ、いい。お前はその証文を読んだ。後は煮るなり焼くなり好きにしろ」

 黒いカバンを手に取り、

「大切なのはお前が真白の面倒を見て、真白はお前の面倒を見ないということだ。そうそう、あのノートはしっかり読んで、御柱様の送りについて学んでおけ。新学期には返せよ」

 祐矢も見送りに立ち上がった。

「先生はどうしてそこまで真白の面倒を見るんです」

 先生は靴を履き、扉を潜る。そこで振り返って、

「私はこの地方の伝承を採取しにやってきたんだ。そこで御柱様と旦那様の伝承を知って、真白にたどり着いた。真白は今よりもずっと儚くて、放っておけばこの世から消えてしまいそうだったよ。昔なくした…… 私の師や友人みたいにな。私は……」

 先生はそこでいったん言葉を切ってから、天を仰ぎ、

「いや。縁があった、それだけのことだ」

 言い残し、ローヒールの音を石畳に響かせながら去っていった。


 翌朝、起き出してきた祐矢は、床の間にふと目をやって卒倒しそうになった。

 あの羆の姿がそこにあった。きれいなゴザが敷かれており、巨大な毛皮がその上に畳んで置かれている。並べられたお盆には羆肉が載せられており、頭は美しく飾られていた。

 その傍らでは真白が、茶色い毛むくじゃらのものにサツマイモをあげている。中型犬を一回り太らせたぐらいの大きさだ。丸々とした体に骨太な足。いかにも頑丈そうな大きい頭。ただしその体には商品タグがくっついていて、縫い目まである。

「真白!」

「おはようございます、旦那様」

 真白はにこにこと微笑んでいる。

「そ、それ!」

 真白はそれを片手で優しくなでて、

「キムンちゃんとクマちゃん、どっちの名前がかわいいかな」

「クマは適当すぎだろ!」

「じゃあ、キムンちゃん。ほおら、まだサツマイモありますからね」

 真白がイモを差し出すとキムンちゃんは両手でつかみ、おいしそうにむしゃむしゃと食べる。縫いぐるみだというのに。

「く、く、く、クマ!」

「今日の晩御飯はお祝いの熊料理ですよ」

 真白はこの状況に平然としている。怪我だろうと熊だろうと、なにが起ころうが実にあっさり順応できてしまうらしい。

 祐矢は口をぱくぱくさせて、

「い、いったいどこから」

「約束どおり、熊神様からの贈り物ですよ。ね、熊神様」

「我から汝らへの贈り物じゃ。謹んで受け取るがよい」

 その言葉に、祐矢はくらりとした。気が遠くなりかけるのを懸命に制した。

 そう言い放ったのは、そこにいる小熊の縫いぐるみだったのだ。

「汝らの送りが面白そうじゃから、この依代を借りて今しばらく留まることにした。手厚くもてなすがよいぞ」

「あっ、そうだ、先生も呼びましょ。おご馳走ですし」


 大量の羆肉をなんとか冷蔵庫に収めてから、祐矢と真白は朝食を用意した。祐矢は最近身についてきた習慣に基づき、理解できないことを整理するのは止めた。考えたって分かりっこないのだ。

 二人はテーブルに着き、手を合わせてから食事を始める。質素だが上質な和食のメニューだった。真白が全部準備したがったのを祐矢が懸命に止め、真白は指示と味付けを担当、祐矢が大半を作業した。

 二人の茶碗にお椀、お箸は真新しい。昨日の買い物で真白が選んできたものだ。

「どうでしょ、旦那様?」

「はっきり言って、うちの親よりもずっとうまいよ」

「いえ、そのお茶碗。真白のと、お揃いなんですよ」

 食器もまた、値が高くはないだろうがセンスはいい。この古びた静かな家と家主によくマッチしている。

「うん、らしくていいね」

「旦那様に似合いそうなものを、がんばって選んだんです!」

 真白は心の底からうれしそうだ。

「そのさ、旦那様って呼ぶのと敬語は無しにならないかな。家族みたいなもんだし」

 真白の箸が止まった。小さく震え始める。

「みたいなものって。家族じゃ、なかったんですか」

 うつむいて瞬きする。瞳に涙があふれる前兆だ。

「家族! 立派な家族だ! 表札も出てるし!」

 祐矢が急いで訂正すると、また明るい顔に早変わりする。そっちの言葉に反応するとは予想外だった。まったくもって難しい。こうも予測できないのは、つまるところ真白が祐矢本人をどう思っているのか、祐矢が掴みかねているからだ。

「そうだよな。なんで俺にこだわるんだ」

 祐矢が漏らした呟きに、

「旦那様ですから」

 真白が即答する。

 祐矢の胸が痛くなった。証文がなければ、曾祖父の跡継ぎとやらでなければ、真白は自分にこだわらないのだろうか。きっとそうなのだろう。

 真白は続けて、

「柱は旦那様のために生まれるんです。おじい様がそう仰ってました」

「おじい様って、もしかして俺の曾祖父ちゃん」

「ええ。柱を送るこの世にただ一人の方が旦那様なんですって」

「それは真白を俺がどこかに連れていくということ?」

 真白は小首をかしげて、

「真白は大勢を連れて、ふだらく、というところに行くんだそうです。でも、旦那様は行かないんですって」

「ふだらく、ってなんだよ」

 真白は小首を反対側にかしげ、

「そのときになればちゃんと分かるって、おじい様が」

「そういうものなのか?」

「この前だって、言われなくてもすぐに旦那様が分かったんですから」

 信じてもらえないのかと、真白がちょっとむくれた。

 真白は曾祖父の言葉に導かれるまま、自然に行動しているだけらしい。この分では、真白本人よりも先生の方がよっぽど詳しそうだ。祐矢はこの場で深く追求するのを諦めた。

 左腕を吊っている真白は、右手だけで箸と茶碗をどう使ったものか悩んでいる。祐矢は疑問と胸の痛みをとりあえず棚に上げて、真白の隣に座り直す。

 真白の茶碗と箸を取り上げ、

「ほら、口を開けて」

「あの、旦那様、恥ずかしいです」

「怪我人は素直に言うことを聞くもんだ」

 ご飯を軽く一口、真白の口に入れてあげる。

「慌てずに噛むんだぞ」

 真白は小さくこくりと頭を下げる。よく噛む。ごくりと飲み込んでから、

「おいしいです」

「真白の料理だからなあ」

「違いますよぉ、旦那様に食べさせてもらえるからです」

 と、そこでテーブルの片隅から、

「かくなるときに汝らの言葉では、やっとられん、とでも言うのじゃろうて。二人の世界を作りおってからに、我はおらぬ者扱いか」

 小熊が、じと目で二人をにらんでいる。テーブルには、小熊のために人参やリンゴを載せた皿も並んでいた。

 祐矢は心の中で、この熊は幻覚だ、ありえない夢だ、だから、いない者なのだと唱えつつ、

「いてほしいとか頼んでませんし。だいたい、なんでそこにいるんです」

「旦那様! わざわざ遠くから贈り物を持って来てくださった熊神様に、それはひどいです!」

 真白は眉を吊り上げて真剣に、キムンちゃん、もしくは熊神様をかばう。

「偉大なるカムイに失礼なやつじゃ、まったく敬うということを知らん」

 小熊が前足をじたばたさせて怒りを表明した。祐矢は冷たく、

「熊神様はその体を贈り物に遺してから、送られて還るんでしょ」

「我がそう告げてやったじゃろう。それがどうした」

「苦労して送ったんだから、戻ってこなくてよかったのに」

「罰当たりな! カムイは民のために戻ってくるのじゃ!」

 小熊はひっくり返って全部の足をばたばたさせた。不満を最大級に表明しているらしい。

「送りが近いのじゃぞ! そこら中のカムイが集まってきておるというに、我だけ離れておれるか! やっとられん!」

 その振動で、真白のお碗が真っ二つに割れた。

 昨日の騒ぎで、ひびが入っていたらしい。続けてお茶碗とお箸がテーブルから落ちる。

「あ」

 なんとか受け取ろうとした祐矢の手を滑って、当たりどころが悪かったのか、お茶碗は砕け散った。

「う」

 祐矢の足が、落ちてきた真白のお箸を踏み折っていた。真白の食器はわずか一瞬で全滅した。全くもって実に運が悪い。

 真白が泣くのではないかと慌てる祐矢の前で、しかし、真白はにっこりと笑ったのだった。

「旦那様、ほら! 旦那様のお湯のみに茶柱が! きっと良いことがありますよ!」

 その日のニュースで巨大羆が現場から行方不明になったと流れていたのを、祐矢は見なかったことにした。

 そして表札には、真白にお願いされた祐矢の手で、やむなく三番目の家族名が書き加えられたのだった。

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