鵼の偽人狩り

デッドコピーたこはち

第1話

 1人の少女が夜道を歩いている。歳は小学校高学年ぐらいに見える。電柱に据えられた街灯と満月の光だけが彼女を照らしていた。街灯の周りには蛾が飛び交っている。

 少女の足取りは軽い。閑静な住宅街の人気のない通りに、アスファルトを純白のスニーカーで蹴る音だけが響いている。少女は薄い空色のワンピースの裾と長く伸ばしたぬばたまの髪を揺らして、闇夜をずんずんと進んでいく。

 満月を一匹のコウモリが横切ると、少女の背後、民家の塀の陰に飛び込んだ。すると、そのコウモリが赤黒い靄に転じた。赤黒い靄は一瞬で広がった。初めは朧げだった輪郭が徐々にはっきりしたものになり、最終的には人の形をとった。赤黒い靄がダークスーツに身を包んだ男に変化したのだ。その男は痩身で、その肌は病的にまで青白かった。男の艶のある黒い髪は丁寧に撫でつけられていた。

 男は一度首を傾げて鳴らすと、前方を歩く少女を見据えた。男の瞳孔は猫のように縦に裂かれたようになっており、一瞬だけ緑色に光った。

「お嬢ちゃん、夜道で一人きりなんて危ないよ」

 男は少女に声をかけた。少女は脚を止めて、振り返った。彼女の幼くも整っている顔立ちが街灯に照らされて、白と黒の陰影をつくった。

「なんで危ないの?」

 少女は首を傾げ、鈴を転がすような声で答えた。彼女に戸惑う仕草はなかった。急に人が現れた驚きや警戒心はないようだった。

 男はくつくつと笑った。

「それはね……悪い吸血鬼に襲われちゃうからだよ!こんな風に!」

 男は口角が裂けんばかりに大口を開けた。男の鋭い歯列と長い牙が露わになった。それはヒトのものより、むしろ犬や狼に近い様に見えた。

 男が跳躍し、少女に飛びかかった。男と少女は優に5 mは離れていたが、その距離が詰まるのは一瞬だった。少女はその間全く身動きしなかった。

 男が少女の両肩に手を掛け、喉元に喰いつかんとした正にその時、男の胴が千切れ飛んだ。

「えっ?」

 男は少女の両肩に手を掛けたまま、路面のアスファルトの上に転がった自分の下半身を見つめた。次の瞬間、男の両腕は力を失い、男の上半身が路面に落ち、べちゃりと音を立てた。

 大量の返り血を浴びた少女は顎先から血を滴らせながら、真っ二つになった男を見下ろしていた。その琥珀色の瞳は凍る様に冷ややかだった。

 少女の右腕は異形と化していた。丸太の様に太い獣の脚によって、ワンピースの袖は内側から裂かれていた。鋭く大きな爪と、強靭な筋肉を覆い隠す毛並みが、裂かれた袖の間から覗いていた。腕の外側は黄褐色で、内側は白く黒い縞があった。それはまるで虎の前脚のようだった。爪の先からは血が滴っていた。

「はあ……人を襲うならもっと上手くやれ。なんだ、あの古臭いセリフは。時代遅れにも程があるぞ」

 少女はいった。鈴を転がすような声は変わらなかったが、その雰囲気は変わっていた。吸血鬼の男は少女の威圧感に気圧され、震えていた。

 男の裂かれた胴から流れだした血がアスファルト上に血だまりをつくっていた。その血だまりは徐々に大きくなり、少女の純白のスニーカーを赤く染め始めた。

「それに、人を殺したのもまずかった。なんでお前ら吸血鬼は自制が効かんのだ?適当に酔っぱらったサラリーマンの血でも吸って、公園に転がしておけば何の騒ぎにもならんのに。なぜ、わざわざ処女なんぞ狙う?」

 少女はその場でしゃがみ込み、爪で男の頬を引っ掻いた。男の頬の皮は容易く引き裂かれ、血が滴った。

「た、たすけて……」

 男は絞り出すような声でいった。

「ダメだ。お前は一線を越えた」

 少女は男の上半身を両手で掴んだ。いつの間にか少女の左腕も虎の前脚になっていた。少女が口を開けると、彼女の口元が大きく裂けた。みるみるうちに彼女の大口はさらに大きくなり、彼女の頭部は大蛇のあぎとへと変化した。

 男の顔が恐怖に歪んだ。

「やめっ」

 虎の前脚が男の上半身を大蛇の口の中へと放り込んだ。大蛇はごくりと喉を鳴らし、それを一飲みにした。二又にわかれた舌がチロリと鱗に覆われた唇を舐めると、虎の前脚が男の下半身を掴み、また大蛇の口の中へと放り込んだ。


 なにもかも終わった後、血まみれの少女だけが残った。男が居た形跡は跡形もなく消えていた。大蛇が舐めとった為に、アスファルトの上の血だまりすら跡形もなく消えていた。

 大人一人の体積はどこへやら。少女は男を喰らう前と全く変わらない様子だった。

一条いちじょう、もう出てきていいぞ」

 少女はすこし声を張っていった。それを聞いた俺は電柱の陰から飛び出し、少女の方に駆け寄った。

 俺は少女の目の前まで行き、自分の肩にかかっているエナメルのスポーツバックからバスタオルを取り出して、彼女に差し出した。腰をかがめて視線を合わせるのもわすれない。少女の格好をした時の彼女の背丈は、俺の胸に届かないくらいしかないのだ。

呼子よびこさん、今日は手早く済みましたね」

「うん、相手から来てくれるならこれほど楽なことはない」

 少女はバスタオルを受け取り、自分の顔にかかった血糊を拭いながらいった。


 眼の前の少女――正確には少女のフリをした異形だが――は俺の雇用主でもあった。

 木下きのした呼子よびこ、それが彼女の人間界での名前だった。彼女の仕事は『偽人ぎじん狩り』、人に化け、人の世に溶け込む『偽人』と呼ばれる異形たちを狩る事だった。

 最も、呼子さん自身も『偽人』である。彼女自身が狩られないのは政府のとの古い契約によるものだと彼女はいっていた。つまり、彼女は同胞を狩ることで人間社会に居ることを許されているということらしい。異形を狩る異形。それが彼女だった。


「明日も仕事があるから、朝7時までに事務所に来い」

 血を拭い終えた呼子さんはこちらに丸めたバスタオルを差し出していった。俺はその血だらけになったバスタオルを受け取り、あらかじめ用意しておいたポリ袋の中に入れてから、スポーツバックに放り込んだ。

「二日連チャンですか?しかも朝早いし……呼子さん、そういうのは先に言ってくださいよ。こっちにも予定ってもんがあるんですよ」

「何が予定だ、暇なクセして。大学生一年生の夏休みだろ?金を稼げよ」

 呼子さんはこちらの鳩尾みぞおち目がけてパンチを繰り出して来た。少女の見た目通りのふにゃふにゃパンチだった。全く痛くない。

「やめてくださいよお、呼子さん。こっちがアルバイトだからって邪険にするのは……そういうのパワハラって言うんですよ」

「やかましい。着替えは?」

 俺はスポーツバックから呼子さんが着ているのと同じ新品のワンピースを取り出して、彼女に渡した。

「どうぞ。で、どういう仕事ですか?」

「ある人物が『偽人』と入れ替わってないか確かめて欲しいんだと」

 呼子さんがワンピースを受け取ると、彼女は黒い霧に包まれた。数瞬後、彼女は新品のワンピースを着ており、彼女の手には血まみれのワンピースがあった。俺はその血だらけになったワンピースを受け取り、またポリ袋の中に入れてから、スポーツバックに放り込んだ。

「つまり、やっと――」

「そう、お前の出番って訳だ」

 呼子さんはこちらにウインクを決めながらいった。


 俺は昇ったばかりの日を背にして、懸命に自転車を漕いでいた。立漕ぎは太ももにくる。自転車の前の籠に入れているスポーツバックがやたらと重く感じた。俺は息を切らし、空を見上げた。空には雲一つない。快晴だ。朝日がじりじりと後頭部を焼いてくるのを感じる。今日も暑くなるだろう。

 さて、俺が向かっているのは呼子さんの事務所な訳だが、これが微妙な所にある。

 人口13万人を数える地方都市、宇賀市。その中心地といえる宇賀駅とその隣駅の北宇賀駅のちょうど間にある雑居ビルの2階、そこが呼子さんの事務所だった。

 俺はバイクや自動車などと言う高級品は持ち合わせておらず、呼子さんの事務所の近辺はバスも止まらない公共交通機関不毛の地であるために、自転車で行き来しなければならないのが実情だ。

 とはいえ、呼子さんの事務所は俺の住んで居るアパートから徒歩10分、自転車で5分ほどの距離なので、別に問題はない。

 つまり、こうして俺が必死こいて自転車を立漕ぎしているのは、呼子さんの事務所が遠くにあるからだとかそういう訳ではなく、単純に寝坊したからだった。

 早朝の車一つ通らない道路を疾走し、和菓子屋前の十字路を曲がると、目指す雑居ビルが見えた。その3階建て雑居ビルの壁面に据えられた看板の一番上には『東東ダブトンビル』と書かれており、その看板には『2階 木下探偵事務所』の文字もあった。

 一階に入っている喫茶店の入り口にはまだシャッターが閉まっていたが、その前には1人の少女が立っていた。リボン付きの麦わら帽子に、白いキャミソール、デニムのショートパンツを着た姿は、儚げな彼女の印象と相まって、まさに正しい夏の化身といった出で立ちだった。

 ただ、一つ残念なのは、遠目から見てもわかるぐらい、彼女の顔が苛立ちに歪んでいる事だった。

「いやー、いい天気ですねえ。呼子さん」

 俺は呼子さんの前で自転車から降りながらいった。

「……遅いぞ、一条。2分遅刻だ」

 呼子さんは黄色いネックストラップに繋がったスマートフォンの時刻表示をこちらに見せつけながらいった。俺は立漕ぎのせいばかりではない額の汗をぬぐった。

「ホントにすみません。ちょっと……寝坊しちゃって」

 俺は呼子さんに頭を下げた。こういう時は素直に謝るに限る。

「先方の都合もあるんだから、遅刻しそうだったらその時点で電話なりメールなりして来い。事故にでも遭ったのかと思ったぞ。そもそもな、『もしかしたら遅刻しないかもしれない』っていう……あー、あの、アレだ。このまえいってた……なんだっけ?」

 呼子さんは腕を組み、うーんと唸り始めた。

「“ワンチャン”ですか?」

「そうそう!ワンチャンに賭けようとするんじゃない!全く……今回は特別に不問とするが、次無断で遅刻したら減給だからな」

「はい!わかりました。すみませんでした」

 呼子さんは長く生きているだけあって、厳しい所もあるが、素直に謝れば、いつもこの通り大体の事は許してくれるのだった。

 俺は東東ビルとその隣の金物屋の壁との間、裏路地ともいえないほど細いその隙間に自転車をいれた。

「まあいい、とりあえず事務所に入ってくれ。ざっと今回の仕事の説明をするから」

 呼子さんは手招きをし、東東ビルの階段をのぼって行った。俺はそれに続いた。


 ビルの二階にのぼると『木下探偵事務所』と表式に書かれたドアがあった。呼子さんはそのドアを開き、中に入った。

 なぜ『偽人狩り』であるはず呼子さんの事務所が『探偵事務所』という事になっているかというと、登記上の問題らしい。

 呼子さんは玄関横のコートラックに麦わら帽子を掛けた。

 事務所に入ってまず見えるのは、窓際に置かれた事務机と、応接用のテーブルとソファだ。玄関からは死角になっているが、パーテーションで区切られた部屋の向こう側は呼子さんの生活スペースになっている。事務所の中はよく冷房が効いていて、俺の汗はみるみるうちに引いていった。

「そこのソファでいいや。座ってくれ」

 呼子さんはソファを指差した。俺は彼女に従ってソファに座った。

 彼女はスッとパーテーションの奥に消えると、しばらくして二つのグラスを持って戻ってきた。

「ほい、麦茶」

 呼子さんは応接用のテーブルに氷と麦茶の入ったグラスを置き、そのうちの一つを俺の目の前に移動させて対面に座った。

「あっ、ありがとうございます」

 俺は麦茶を一口飲んだ。良く冷えた水分が火照った体に染み渡るのを感じた。

「さて、今日の仕事は昨日みたいに警察からの依頼じゃない、企業からの依頼だ」

「企業からですか?」

「マジ卍だ」

「……そういう使い方はしないですね。『マジだ』でいい所です」

「そうか、なるほどな……」

 呼子さんは感心するように頷いた。曰く、彼女は1000年以上生きているらしく、最近の言葉がわからないとのことで少しずつこうして教えているのだが、そもそも女児にしては話し方が固すぎるのには気が付いていないらしかった。俺は面白いので、彼女にそのことは秘密にしていた。

「で、ある社員が『偽人』と入れ替わってないか確かめて欲しいんだと。どうもここ最近、時々話したはずの事を覚えていなかったり、要領を得ない受け答えをする事があるらしい」

「ただ忘れっぽいだけじゃないですかね?」

「かもな。でもそれを確認するだけで金をくれるっていうんだから得だろう?」

 呼子さんはそういって麦茶を一口飲んだ。最近、こういう依頼が多い。SNSで偽人による被害やその恐怖を煽るような投稿が増えているのもあるのだろうか。偽人による被害を受けるのは、確立的には飛行機の墜落事故に遭うぐらい稀なはずだが、話題にしやすいらしい。

「ま、とにかくお前はその社員を『視る』だけでいい」

「それだけで良いんですか?なんか悪い気がしますね」

「実態もないような人の不安で金を儲けるなんて、私らしいだろ?なにせ私には――」

「『真の名も形もない』でしょう?聞き飽きましたよ」

「……ふん、よく覚えてるじゃないか」

 呼子さんは麦茶を一息に飲んだ。呼子さんの頬は氷でリスの様に膨れた。そして、口の中からごりごりという氷をかみ砕く音が聞こえてきた。

 あれだけ一気に氷を食べたら、頭が痛くなりそうなものだが、その様子はなかった。時々、呼子さんがヒトでないことを忘れそうになるが、こういう些末な部分で違和感を感じる事がある。彼女とヒトとの本質的な違いだ。

 そういった違和感は、俺にとって震えが走るほどのだった。だからこそこのアルバイトができるのだが。

 俺は呼子さんが氷を食べ終えた頃を見計らって、話しかけた。

「それで……ここから例の依頼人の家まではどうやって行くんですか?」

「タクシーで行く。もう呼んである」

 呼子さんはスマートフォンの画面をちらりと見た。

「7時15分って事で呼んだから……そろそろ来るはずだ。もう下におりとくか」

「はい」

 俺は麦茶を飲み干した。


 呼子さんと俺はタクシーで依頼主である企業まで移動した。そこは宇賀市の郊外にある工業団地の一角だった。

東北村ひがしきたむら工作所、間違いないですね」

 俺は敷地の入り口に門の柱に彫られた文字を見ていった。東北村ひがしきたむら工作所は鉄骨加工が主な仕事らしい。敷地内には事務所と思しき建物の他に、大きな鉄工所の建物があった。

「始業前にケリを付ける手はずになってる。鉄工所に行こう」

 呼子さんに従って鉄工所に行くと、その通用口の扉の鍵は空いていた。

「失礼しまーす」

 呼子さんと俺は来客用のヘルメットを被り、鉄工所にはいった。鉄工所の中には固定式のクレーンが二台あり、壁際には溶接機やその他のなんだかよくわからない機械が置いてあった。

「へえ、鉄工所の中ってこんな感じになってるんですねえ」

「一条、お前は工業大学生だろ。見学とか来ないのか?」

「工業大学生っていっても、生物学部ですから。溶接とかはやらないんですよ」

「ふーん、そうなのか」

 呼子さんが興味なさげにいった。興味がないなら初めから聞かないで欲しい。

「あのう、木下さんですか?社長から特別な健康診断って言われて……」

 声がした方に振り向くとそこにはワイシャツにスラックス姿の中年男性が居た。黒縁メガネを掛けている。どこかおどおどしている感じだ。

「あっ、鈴木さんですね。私が木下、こっちは一条です。一条の前まで来てもらって良いですか?」

 呼子さんがいった。鈴木さんは呼子さんと俺を怪訝な顔で交互に見つめた。

「あっはい」

 鈴木さんは歩いて俺の前まで来た。やはり呼子さんのことが気になる様でチラチラと横目に見ていた。

「あのう、これはどういう検査で?」

「まあ大したもんじゃありませんよ。すぐ終わりますから。俺の方を真っ直ぐ見て下さい。

 『不気味の谷現象』、人形などの姿を人間に似せていくと、ある点で急激に不気味さや嫌悪感を感じるようになるという心理現象だ。俺はその不気味さを感じ取る感覚が鋭い。俺は生まれつき人に混じる偽人たちを見分けることができた。

 呼子さん曰く、人間の中にはそういった者が一定数いるらしい。偽人を見分け、自分たちの群れを守る為にそういった感覚を持つ様になったのではないかと彼女は推測していた。

 いつもなら、対峙しただけで偽人かそうでないかだと断じることができるが、今回は仕事であり、実在の人物と入れ換わっているかもしれない悪質な偽人の可能性がある。見分け損ねるのはマズイ。

 そう思い、俺が念を入れて、神経を集中し始めたその時だった、

「あのう、木下さんですか?社長から特別な健康診断って言われて……」

 声のする方に振り向くとそこにはワイシャツにスラックス姿の中年男性が居た。黒縁メガネを掛けている。どこかおどおどしている感じだ。鈴木さんとそっくりだった。

「こりゃあ一体」

「これは……ドッペルゲンガーか」

 呼子さんはいった。

「あの、自分と瓜二つの相手に会うと死ぬっていう……?」

「そうだ、どっちかが本物の人間で、どっちかがドッペルゲンガーだ。なるほど、前々から機会を伺っていて、今日まさに入れ換わろうとしてたんだな」

 二人の鈴木さんは信じられないものを見る目つきで、同時に互いを見合わせた。

「どちらがニセモノかわかるか?」

 俺は神経を集中し二人の鈴木さんを観察した。見るのは、顔の細部ディテールと全体の均衡バランスだ。巧妙な擬態であっても、人外が人を真似る以上、どうしても違和感がある。二人の鈴木さんを観察していたある一瞬で、俺の背筋に怖気が走った。

「わかりました。こっちがニセモノです!」

 俺は後から出てきた方の鈴木さんを指差した。

「よし、お前はもういい!早く逃げろ!」

 呼子さんは自分の右腕を虎の前脚に変化させて、俺の眼の前にいる方の鈴木さんの肩を押した。。

 鈴木さんは恐怖と困惑の表情を浮かべながら出口に走っていった。

「じゃあさっさと――」

 呼子さんが良い終わる前に、ドッペルゲンガーが彼女の方に向き直り、直立不動の体勢をとった。その次の瞬間、鈴木さんの形をしていたドッペルゲンガーの輪郭がぶれると、右腕が虎の前脚に変化した。

「なんだと、厄介な。マネできるのはヒトだけではないか。離れてろ、一条」

 呼子さんは眉を寄せていった。彼女の眉間に寄ったしわは徐々に深くなっていき、彼女の額に深い山谷をつくると、やがて彼女の顔面全体が歪んでいった。両唇は強くむすばれ、顔全体が並外れて充血して真っ赤に染まっていく。鼻口部マズルが伸び、唇の間から白い牙が頭を出す。青毛の髪がたてがみと化し、首回りを覆った。

 服が内側から弾けるように破れ、黒い横縞のある黄褐色の毛並みが露わになった。足も虎の後ろ脚に転じ、たくましい大臀筋の間からは、尻尾の代わりに大蛇の頭が生えてきた。

 呼子さんは狒々の頭、虎の胴、蛇の尾をもつ完全な異形と化した。

「オオッ!」

 呼子さんの狒々の頭が吼えた。鉄工所に稲妻のような咆哮が轟いた。その振動が腹まで響いてくる。俺は慌てて鉄工所の柱の陰に隠れた。

 その叫びを真正面で受けたドッペルゲンガーは一瞬その輪郭がぶれると、その姿をまた変じた。

 狒々の頭、虎の胴、蛇の尾。それは、呼子さんと同じ姿だった。

 ドッペルゲンガーの狒々の頭が吼えた。稲妻のような咆哮だった。

 瓜二つの異形と異形が対峙した。まるで、鏡を見ているようだった。二つの異形はしばらく互いに円を描く様に動き、けん制しあった後、同時に飛びかかった。狒々の顔が互いの首筋に噛みついた。そのまま、二つの異形は絡み合ったまま鉄工所のコンクリートの床に倒れ込んだ。

 それから、二つの異形はもみ合いになった。互いの虎の爪が肩の肉を引き裂き、大蛇の頭が腹に喰いついたが、もう俺にはどちらが呼子さんで、どちらがドッペルゲンガーなのか区別がつかなかった。戦況も互角の様に見えた。

 俺がどうすべきか悩んでいると、異形たちが互いに距離を取りあい、また互いに円を描く様に動き始めた。両者とも血まみれで疲弊している様子だった。俺はどうにかどちらが呼子さんなのか見分けるために、もっと視界を確保しようと足を動かした。そのときつま先が柱の根元に置いてあった消火器に当たった。俺はひらめいた。

「呼子さん、跳んで!」

 俺は叫んだ。俺の叫びに応じ、片方の異形が鉄工所の天井に届かんばかりに高く飛んだ。俺は床に取り残された方に消火器を投げつけた。

 ドッペルゲンガーは虎の前脚で消火器を薙いだ。消火器が紙細工の様に引き裂かれ、中から大量にピンク色の粉末が噴出した。ドッペルゲンガーが一瞬ひるんだ。その隙を突いて、落下してきた呼子さんがドッペルゲンガーの顔面に一撃を加えた。頼子さんの右前脚は、ドッペルゲンガーの顔面の皮を丸ごと剥ぎとっていた。

 彼女は右前脚を口元に持っていき、その皮を喰った。

 皮の剥がされたドッペルゲンガーの顔面を見た時、俺は息を呑んだ。そこには、何もなかった。肉も骨もなかった。ただ、闇よりもなお暗い漆黒が広がっているだけだった。

 次の瞬間、ドッペルゲンガーの輪郭がぶれた。まだ、何かをしてくるつもりか、と思っていると。ドッペルゲンガーの姿が崩れ始めた。狒々の頭、虎の胴、蛇の尾の形が、徐々にあいまいなものになっていく。呼子さんの精巧な似姿が、幼稚園児がこねて作った粘土細工のように覚束無いものになっていくのだ。

 身体の凹凸がなだらかになって、色もディテールも失われていく。やがて、その身体は、顔面の漆黒が残るだけになった。そして、それもみるみる小さくなっていく。最後には黒い点になり、消えた。


 ドッペルゲンガーが完全に姿を消すと、呼子さんは崩れ落ち、横たわった。

「呼子さん!」

 俺は呼子さんの元に駆け寄った。彼女の異形の身体が変化し始めた。大蛇の尻尾が消え、虎の足から毛がなくなって、か細い少女のものになっていく。

 俺はスポーツバックの中からバスタオルを取り出し、彼女が人間の少女に転じる前に、彼女の身体を包み込んだ。

「大丈夫ですか?呼子さん」

「ああ、問題ない。私は真の不死身だ。少し、疲れただけだ」

 呼子さんはいった。確かに異形だった時についた傷はなくなっているようだった。

「よかった……」

 俺は心の中で胸をなで下ろした。

「今……何があったんです?」

「ドッペルゲンガーの野郎、私のガワだけマネしても勝てないと踏んで、もっと奥の方をマネしようとしたんだ」

「もっと奥……?」

「私の本質は言うなれば『空』だ。真の名も形もない。形なきものの形をマネしようとすれば、どうなるか……」

「消滅、ですか」

「その通り」

 呼子さんは頷いた。

「そうだ、アレをくれ」

 呼子さんは思いついた様にいった。

「なんです?アレって」

「着替えだよ」

 呼子さんはそういって微笑んだ。

 

 鉄工所の壊れた設備とかそういった補償の問題は一旦後にして、俺たちは事務所に帰る事にした。呼子さん曰く、そういうのは保険で降りるそうだ。『偽人狩り』が入る保険というのも気にはなるが、俺はそれ以上聞かなかった。

 呼子さんは帰りのタクシーの中で「事務所に着いたら起こしてくれ」といって、眠ってしまった。俺はタクシーの隣の席から彼女の寝顔を見つめていた。彼女の寝顔は穏やかな少女のもので、ちょっと前に偽人と殺し合いをしていたとは思えなかった。


 呼子さんはドッペルゲンガーは彼女の本質をマネしようとして消滅したのだといっていた。それは、ある意味で彼女の本質が、ドッペルゲンガーのあの漆黒よりもなお空虚なものであることを意味するのではないだろうか。

 呼子さんの外見がどれほど愛らしい少女のものであっても、その本質がヒトとはかけ離れているのを俺は知っている。どれほど気の合う様に感じても、そこにはどうしようもない壁がある。俺が彼女にどれほど友情を感じても、それは彼女の擬態した薄皮に対してであって、きっと彼女自身に対するものではないのだ。


 俺は彼女を見つけた時の事を、いや、彼女に見つけられた時の事を覚えている。

 駅前のスクランブル交差点、信号待ちの人ごみの中で、不意に違和感を感じたのだ。100匹の羊の中に1匹だけ山羊が混じっているような、そんな違和感を。俺はあたりを見まわした。すると、交差点の斜向かいの彼女と目が合った。その瞬間、混じっているのは山羊ではなく、羊のフリをした狼であることを理解した。全身から冷や汗が噴き出し、俺は唾を飲んだ。

 信号が青に変わった。俺は人の流れに逆らう事ができずに、押し出される様にして横断歩道を歩きだした。彼女もまたこちらに歩いて来ていた。俺は彼女の目から視線を外すことができないでいた。らんらんと輝くその目は、獲物を捕らえた狩人の目、念願の探し物を見つけた歓喜に満ちた目だった。電子音の郭公カッコウの鳴き声がやたらと脳内で響いた。

 スクランブル交差点のド真ん中で、俺たちは対面した。彼女は足を止め、笑みを浮かべた。俺も足を止めた。確かに眼の前で見てみても、彼女は花も恥じらう美少女にしか見えない。だが一方で、その艶やかな黒色の髪、人懐っこそうで愛らしい紅顔、子どもらしいどこか危なっかしい歩き方、彼女のそういった外見上の要素全てが、相手を油断させる為の擬態であることを、俺は本能的に理解していた。

 彼女が口を開いた。俺は喰われるのだと思った。

 だが違った。

「おまえ、私と一緒に働かないか?」

 彼女はそういった。

 

 俺は彼女に才能を見出された。小さな頃から理由もわからず、他人に言いようのない嫌悪感を抱いてしまう自分自身を嫌っていたが、彼女との出会いで、初めて自分を肯定することができた。彼女が、何者であろうと、何者でもなかろうと、彼女は俺の恩人であった。それは変わりはない。

 なぜ彼女が俺を雇っているのかはわからない。今まで彼女は『狩り』を長年一人で続けてきたはずだし、「よく見ると偽人かどうかわかる」程度の能力しか持たない俺を相棒とする必要は今更ないはずだった。でも、まあいい。彼女が求めるなら、俺は応えるだけだ。

 眠っている無防備な彼女の横顔を見ていると、何とも言えない胸の暖かさを感じた。そして、ふと、『真の名も形もない』怪物であっても、誰かに偽らざる自分をさらけ出したくなる時はあるのだろうか、とそう思った。


 タクシーが東東ビルの前に到着した。俺は呼子さんの肩を揺すった。

「呼子さん、着きましたよ」

「ん、おう」

 呼子さんは目をしばたかせていった。彼女は電子決済でタクシー代を払い、領収書を受け取った。呼子さんと俺はタクシーを降りた。

「呼子さん、仕事があったらまた呼んでください」

 俺は東東ビルとその隣の金物屋の壁との間にいれた自転車を引っ張りだした。

「おう、今度は遅刻するなよ」

 呼子さんはいたずらっぽく笑った。

「わかりました」

 俺が呼子さんに手を振ると、彼女も手を振り返した。俺は真昼の太陽が照り付ける中で、自転車を漕ぎだした。 

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