ヤマ野辺の待ち人

美木間

ヤマ野辺の待ち人

 祖母からの依頼はいつも突然だ。

 突然だけれど依頼は他愛ないものが多く、必ず対価が支払われた。


 祖母はブックカフェをやっている。

 依頼は、多分、その手伝いか留守番だろう。


 短大を卒業後、希望した大学への編入試験に落ち、定職につくでもなくぶらぶらしていた私にとっては渡りに舟だった。


 祖母の住む町は、都心から電車で約1時間のところにある。ただし、それは最寄駅までの話で、そこからまだけっこう距離がある。

 落ち着いた街並の郊外の駅で降りて、バスに乗り換える。

 行き先は、萱原かやはらキャンパスタウン。

 東京郊外の文教都市として知られている。


 駅前通りを抜けてしばらくすると、くぬぎやこならなどの落葉広葉樹の林が現れる。春の陽射しに、やわらかく萌え光る緑の木立ち。少し開けた窓からは、すがすがしい葉群れの吐息。ささやかな旅の気分を味わう。

 バスに揺られて40分ほど、なだらかな丘陵を一つ越えると終点だった。


 萱原キャンパスタウンは、自然豊かで文化政策に力を入れた街づくりをしていることから、そこに魅力を感じた中高一貫校を持つ私立大学、美術系、自然環境系の専門学校などが次々と集まって形成された。


 公立図書館は、蔵書の豊かさと、さまざまに使い勝手のいい施設が併設されているということで知られていて、本の文化を求める人たちが多く訪れている。図書館で本を知り、手元に置きたくなった本を求めて新刊書店に立ち寄る人も増え、本に関して理想的な環境が整えられている。


 そうした場所に、ブックカフェが根付いたのは必然だった。

 商店街にごく自然に並んでいたり、住宅街に週末だけオープンの店として運営されていたり、形態はさまざまだったが、祖母が営んでいる店はイベントなども開催していると聞いていた。

 近くの大学の学生サークルが読書会や講座を開催したり、美術系専門学校の生徒が壁面ギャラリーで展示をしたり、地元のハンドメイド作家がテーブル席でちょっとしたワークショップをしたりすることもあるらしい。


 意欲的な気風のその町に、私は、少し気後れしていた。

 何をするでもなく、時間だけしか手元にない私は、恥じる気持ちを脇に押しやり、祖母孝行だからと自分に言いわけしながら、店のドアを開けた。


 濃いコーヒーの香りが、私を出迎えてくれた。

 心地よさに、思わず深く息を吸い込んだ。

 古い紙のにおいが微かに混じっている。

 祖母の趣味の蔵書が、壁際の棚に品よく収まっている。

 カウンター5席、4人掛けのテーブル席が五つのこじんまりとした店。

 樹林を守るために伐採された雑木で作られた椅子が、温もりを添えている。


 「喫茶ロム」


 カウンターに置かれた銀色のペーパーホルダーの、薄手の白い紙ナプキンに、サイダーグリーンで店名が印字されている。


「いらっしゃい、急に悪かったね」


 カウンターの向こうに立つ祖母は、目元の笑いじわにやさしさが、こざっぱりと整えたショートカットに混じる白髪に年齢の自然さが、漂っている。

 私がものごころついた頃からずっと、今の姿だったような気がする。

 そんなはずはないのだけれど。

 祖母の時間は、世間とは流れが違っているのかもしれない。


「久しぶり、元気だった」

「変わりはないよ」


 祖母の声は、低めだが艶がある。


「今日は午後営業はなしにしたから、ゆっくり話せるよ」


 私はうなづくと、カウンターに並んだ5つの丸椅子の端に腰かけた。

 ボリュームを絞ったクラシックが、ここに来るまでの喧騒に疲れた脳をほぐしていく。


「マンデリンが好きだったね」


 祖母がコーヒーをサーブしてくれた。


「ありがとう。マンデリンの甘さって、ほっとする」


 学生時代によく友人たちと集っていた、時間も懐も気にせずにいられるたまり場のような場所を提供したいというのは、祖母の秘かな夢だったそうだ。

 その夢を実現するのにちょうどいい広さのある平屋建ての一軒家を手に入れることができ、そこを改装して住居兼店舗にしたのがこの店だった。


「それで、今回は、店番、留守番、何をすればいいの」


 たっぷりとはいるコーヒーカップを両手で抱えて飲みながら、私はたずねた。


「そうだね、待ち人をお願いするよ」

「待ち人?  」


 祖母は自分のカップでコーヒーを美味しそうに飲むと、


「そう、待ち人」


 と繰り返した。

 私は面食らって問い返した。


「待ち人って、なに、わけわかんない」

「待ち人は、待ち人さ」


 祖母は、それだけ言うと、あとはすましている。


「なにそれ。ほんっと、いつもわけわかんないこと言うよね」


 飲み干したコーヒーカップを置くと、すぐに二杯目が注がれた。


「サービス」


 祖母は自分もカップを持つと、カウンターの中のスツールに腰かけた。


「誰を待つの? 知り合い? 」


 祖母はうなづくと、コーヒーをひと口飲んでから、テーブルワゴンの上に重ねられた文庫本を一冊手にとった。その本のタイトルには見覚えがあった。昔、祖母が小説家だった頃に参加した、一つのテーマで数名の作家が共作したアンソロジーだ。

 デビュー作こそ注目されたが、その後鳴かず飛ばずだった祖母にこの話を持ちかけたのは、大学時代の知り合いの編集者だったと聞いている。

 祖母は、寡作だがいいものを書くと言われていたが、ある時からぱったり書けなくなったのだという。

 そして、自ら廃業宣言をして、この店をオープンしたのだった。


「営業はしなくてもいい。開店時間の間、待つだけでいいんだよ」


 祖母はしおり代わりにはさんであった写真を指にはさんで、ひらひらとあおいだ。


「待つだけって言われても」


 いくら給料をもらえるとは言っても、開店時間の間ずっと待ち人として拘束されるのは割りに合わない気がして、ため息がでる。


 私が思い悩んでいるうちに、祖母は文庫本を読み始めていた。

 全く、マイペースだ。

 読書をしている時の祖母は、文学少女の顔をしている。

 少し目を細めて活字を追っているのも、活字を追うのに夢中になってだんだん猫背になっていくのも、どことなくかわいらしかった。

 祖母をかわいらしいと感じるのも妙なことだけれど、社会で揉まれても擦れない部分を持ち続けている人ならではの雰囲気があるのだと思う。


 いつだったか、しおりをはさんだ本を枕にうたた寝をしていた祖母の顔に、本の角であとがつくのをかわいそうに思い、そっとタオルを巻いた枕と入れ替えたことがあった。

 その時に本から滑り落ちたのは、しおりではなく祖母が今手にしている写真だった。


 白い縁に囲まれた少し褪せたカラー写真。

 海を背景にした若者たちの集合写真。

 女子学生達が、思い思いの立ち姿でポーズをとっている。

 

「この写真、大学の時の? 」

「ああ、サークルの合宿の時のだね」

「サークルって、読書サークルだったよね。これって、ただ海水浴に行ったんじゃないの」

「合宿では、海をテーマに短編か詩作をするのが恒例だった。日が落ちたら焚火を囲んで朗読して」

「なんか、時代を感じる。若者たちの時代」

「時代って、大げさだね」


 私は、ふうん、とうなづくと、写真をもう一度眺めた。

 まん中はサークルのリーダーらしく、この中では派手な顔立ちの学生で、彼女の両隣りにはそれぞれ腕を絡めた女子学生がおどけたポーズをとっている。

 その右側に、化粧をしていないが銀縁メガネをとったらさぞ美人だろうと思われる学生が、ハードカバーの本を胸に抱えて立っていて、彼女の隣りには小柄な栗色のくせっけの少女のような面立ちの学生が立っている。

 反対側に、今とは違ってロングヘアを艶々と背に流した祖母と、大人しそうなきれいな女子学生が立っている。

 彼女は、祖母と同じまっすぐなロングヘアで、髪の先を人差し指に巻き取っていて、陽射しがまぶしいのか、もう一方の手をかざして陽射しをさえぎり、心なしか顔を祖母の方に向けて目を細めている。

 祖母もその眼差しを受け止めるように、視線を彼女に投げている。


「動けるうちに、地方にいる友人たちに会っておきたいと思ってね」


 ふいにこぼれた祖母の言葉は、元気そうに見えても、寝込むとすぐにやせて弱ってしまうことの多くなった姿を目にしたことがあるだけに切実だった。


「だけどね、音信不通の子がいて、一番仲が良かったんだけどね、お互い引越しやらなにやらで、疎遠になってしまってね。元気でいるかどうかもわからなくて」


 祖母の目に影が射した。


「最後に会った時に、この町でカフェをやりたいって話をした。そしたら、きっと来るって、言ったんだよ。人の手で作られた自然に囲まれた、人の手で作られた町が好きだから、って言ってたっけ」


 そういえば、この辺りは、昔はすすきやちがやなどの原だったことを思い出す。

 武蔵野は、この地の人々が植林して作り上げ、ヤマと名を呼ぶ平地の森林に守られた野辺なのだった。


「だから、いつ来てもいいように、定休日無しでやってる。たまたま、私が出かけているうちに行き違いになったら、悲しいからね。彼女が来たら、私に連絡して欲しいんだよ」


 祖母の声が、しみた。


「そういうことなら、わかった」

「ありがとね。頼んだよ」

「で、私が待つのは、この人、だよね」


 祖母は、私の指先に一瞥を投げると、口元をゆるめた。


「じゃあ、頼んだよ」


 その言葉を残して、祖母は、翌日朝早く出かけていった。


 私は、祖母が置いていったアンソロジーの文庫を開いた。

 はさんであった写真は、そこになかった。

 少し探してみたが、見当たらなかった。

 祖母が持っていったのか、仕舞い込んだのか、わからない。

 照れ隠しで私の目に触れないようにしたのが、あの写真をいつもそばに置いておきたかったのか、それもわからない。


 わからないけれど、私は、ここで、待つことにする。

 祖母を微笑ませる彼女が、ドアを開けて入ってくるのを待つ人になる。

 彼女が、どのような姿になっていても、ヤマに守られた野辺に在るこの店を訪れてくれるのを待つ人になる。


 私は、祖母と彼女が再会できる日が来ることを願いながら、オープンと刻まれたプレートをドアに掛けた。















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