第2話 敵は本能寺になし
(…困った)
と、蘭丸は本能寺の夜空を見上げた。能天気に渡した提灯の列に、大きな垂れ幕が掛かっている。それは信長が用意させた光秀歓迎の垂れ幕だ。
『誕生日おめでとう いつもありがとう光秀』
あれを見て光秀はどんな反応をすればいいのだろう。
恐らく今、丹波を召し上げられた光秀はもう、見苦しいほどガン泣きしながら出兵の準備をしているだろう。
蘭丸も本当に今回ばかりは、信長の気まぐれに泣きに泣かされた。
「おっかしいーでや!光秀のやつめ、ピザが冷めてしまうわ!お蘭、お前ちゃんと光秀に声をかけたのであろうな!」
「はっ、はいその、それは抜かりなく」
かけられるわけがない。辛うじて、しかも高飛車に秀吉の応援に行く前に
困った。困った困った。
たぶん、光秀は怒って来ないかも知れない。これはもう、天才小姓の手腕と才覚を発揮しても、いかようにもしがたい。
て言うか、もう真夜中だ。
「ああっおっそいでや!光秀めえ、せっかくお祝いしてやろうと思ったのに!」
(来ないですよ、光秀は)
蘭丸はため息をつきながら、中天の月を眺めた。
その頃の光秀だ。
「殺すっ!殺すっ!信長殺すううっ!」
目が血走っていた。それもこれも、しめの台詞で思いっきりすべったからだ。
「殿もようやく、やる気になられましたな」
馬を並べた、斎藤利光も感涙しきりだった。
メンタルが弱くても、仕切りは繊細な光秀だ。一万五千の軍勢で、光秀はあっという間にぐるりと本能寺を包囲した。勢い余って信長の子、信忠が籠もる二条城まで包囲してしまったというから、念が入りすぎだ。
まあ実際、信忠は二条城にはおらず本能寺でお父さんが焼いたピザでアルゼンチン産の赤ワインを開けてべろんべろんに酔っていたのだが、光秀が気づくはずはない。
「いよいよこの時が来ましたな!」
斎藤利光が勢い込んで、光秀に突撃を進言しに行ったときだ。
「く、内蔵助っ、あれを見ろ!」
(な、なんだ)
四条西洞院本能寺である。誰もが眠るこの時間、夜の闇に沈んで久しいこの一角のはずなのに、本能寺に赤々と照明が灯っていたのだ。
花火もやっているのか火薬の音も聞こえる。近所迷惑だ。いやそれ以上に。寺の中は異常ににぎやかな人の気配で満ちていた。
「ど、どう言うことっ!?」
しかも、正門は全開であった。さらに入口には仮設テントの受付が用意され、信長が雇った若くて美人の受付嬢が、にこやかにパーティ客を案内している。
「これはまさか、何かの罠か…」
今まで誰も考えたことのない発想で、敵味方問わず人の度肝を抜いてきた信長だ。これももしかしたら恐るべき罠か策略か。なんにせよ、このまま普通に攻め込んだら、絶対何かあるに決まっている。
「どうする」
利光も光秀も判断がつかず、顔を見合わせた。そのときだ。
「おっ、おおおおっ、光秀来たか!」
「えっ、えええっ!?」
信長本人が現れたので思わず、光秀は目を見張った。シェフの格好をしているので別人かと思ったがやはり、あれはまさしく信長だ。
「遅いではないかっ!このわしを待たせるとは心憎いやつだでや!ほれほれまず、中へ入れ!ぜひともおみゃあに食わせたいものがあるでや!」
「かっ、完敗でござるっ」
それを見て、利光はがっくりと膝を突いた。
「信長公が何を企んでいるのか判らぬが口惜しいが、こ、これは謀反は筒抜けであったということでござる。殿、ここは内蔵助が命に代えても足留めしますゆえ、早くお逃げを」
「い、いやそのそんなこと言われても内蔵助困るよ…」
と、メンタルの弱い光秀がまごついていると、信長がその肩をぐっと抱いてくる。
「何をぐずぐずとしておるか。ピザが冷めるでや。大勢で来たゆえ、食いはぐれたものは後で何か遣わすで。まずおみゃあが来い!」
「ひっ、ひい、助けて内蔵助」
光秀はそのまま、信長に中へ連れ込まれた。
正直言って光秀はこのとき、死ぬほど後悔していた。
森蘭丸にあれほど罵られたときは絶対に信長を殺してやると思ったのだが、いざこうして会ってみると、長年の主従関係もあるし、本人のオーラが相変わらず物凄いので、メンタルとアドリブが弱い光秀は何も出来なくなってしまったのだ。
「ほらほら、こっちだでや」
「ひっ、痛くしないで」
もはや光秀は反逆をしに来た人には見えなかった。
こうして、信長に中庭に連れて来られたときにはぶるぶる震えて縮こまっていたのだ。
光秀はここで謀反を計画したのをさんざん怒られて、首を刎ねられるものだと思っていた。それがなんと、頭上に輝くのは信長が自ら大書したお祝いの垂れ幕だ。
『誕生日おめでとう いつもありがとう光秀』
「とっ、とのっ…」
何と言うことだ。光秀は感動が胸に迫りすぎて、膝をついたまま泣きじゃくってしまった。まさか、あの信長が。夜通し本能寺でパーティを開いて労ってくれるほどに、自分を大切に思ってくれていたなんて。
(あっ、足利家を見限って、織田家に仕えてよかった…)
さっきまでのどす黒い殺気はどこへやら、この垂れ幕一つで光秀は一気にそう思った。
「はははあ、このワイン、享録元年ものだでや。光秀、おのれが産まれた年のワインを買うてやったのだぞ。ほら、誕生祝いだでや」
「ああっ…殿自ら。本当にありがとうございますうっ」
しかも、とくとくとグラスに注がれる濃い琥珀色の白ワイン。なんと自分の生まれ年のビンテージだ。どれだけ高価なのだろう。光秀はそれを、感涙にむせんだままグラスに受けた。
「とっ、殿、いつも、いつも申し訳ありません!…メンタルが弱くて、光秀は、殿のことを誤解しておりましたっ!」
「キンカンめ、妙なことを申すわ!光秀、誕生日おめでとう!今日はお前が主役だでや」
小姓たちが料理と花束を運んでくる。その中に、うかない顔の蘭丸もいたが、光秀は感動のあまり気づかなかった。
「ありがとう!今日別に誕生日じゃないけど、みんなありがとう!」
それからは先は涙で何も見えない。
ピザもフォッカチャもスパゲティも、涙と鼻水の味しかしなくて、もう何を食べて何を呑んだのかも判らないくらいだった。自分の生まれ年のワインを開け、光秀は酔った。笑った。信長に絡んだ。
すっかり赤い顔の光秀がお土産を持たされて、門外に出たのは二時間後のことだ。
「とっ、殿、ご無事で!」
「ああ」
「どうやってお生き残りに!いったい中で何があったのですかっ!?」
まだ謀反する気まんまんの利光と庄兵衛は、単身、本能寺に連れ込まれた光秀をずっと心配していたのだ。
「早くご命令を!この利光、信長公と刺し違えても戦い抜きまするぞ!」
「…もういい」
と、ぽつりと光秀が言ったので二人は目を丸くした。
「ええっ!?」「とっ、殿、今なんと!?」
「もういいと言ったのだ」
「う、嘘ですよね?」「そうですよ殿、あんなに謀反したがってたじゃないですか」
「うっ、うるさい!みっ…皆のものよおく訊けえいっ」
ふらふらと立ち上がると、光秀は今までで一番の大声を上げた。
「てっ、てきは…てきっは、本能寺には…いなかったあああああああああっ…!」
真っ赤な顔をくしゃくしゃにして、泣き崩れる光秀。利光と庄兵衛は愕然として、お互いの顔を見つめたが、なんか釈然としないながら、全然いい答えが出ない。
中で何があったのか判らないが、まさかここまで光秀のメンタルが折れるとは思ってもみなかったのだ。
「…どうします?」
「全軍撤退、しかあるまい」
苦い顔で利光は言った。
「ええっ、自分、信長を討ち取るっていっちゃいましたよ!」
「知るか!殿がああ言っておられるのだ!敵はやっぱ、本能寺にいなかったって言えばよいのだ!」
「そっ、そんな無茶なっ」
無理やりなのは分かっている。だが大事なのは、主君光秀のメンタルを復活させてやることだ。すぐにそう決断した斎藤内蔵助利光はやはり、戦国屈指の名将だった。
「殿、殿、とりあえず謀反はやめましょう。何かあったのかなあ。とりあえず、今日は夜明かししましょうか。堺へ行けばまだ空いてるお店ありますよ。この利光、朝まで付き合いますよ」
と、声をかけると、
「う、うん、飲み直そうか。よおし、みんな今日は無礼講だっ、ぱあっといけ!」
シブい光秀には珍しく、財布ごと利光に預けてきた。これはまあ、よっぽど中でいいことがあったのだろう。一万五千人も飲ませるのにはもちろん足りないが。
「カラオケ入ってる店がいいなあ。今日はちょっと思いきり歌おう」
こうして光秀たち主従は、堺に空いているお店を見つけ明朝、出発した。
びっくりしたのは残された二条城の兵たちだ。光秀の大盤振る舞いを聞いて、本能寺の兵たちは撤退したのだが、二条城にいた人たちは命令を聞き損ねた。
「あれっ、殿帰っちゃったの?」
「みたいですよ。なんか、本能寺行ったらピザとかワインとか出たって」
「なんだよ、二条城空っぽだったしさ。て言うか俺ら、ピザ喰ってねえし!」
「今からでも遅くないですよ!本能寺行きましょうよ」
「そうだよな!信長倒してねえしな!」
わらわらと集まった軍勢はまだ何千人かいた。彼らが本能寺に集結したときにはパーティは完全に終わっていて、ゲートは開けたまま、中の七十人ほどの人間たちは酔っ払ってほとんどが眠りこけていた。
そこに、ピザを求めた光秀の残党が迫る。その数は京都の乞食たちも巻き込み、本能寺を埋め尽くすほどになっていた。
ちなみに史実の本能寺の変では、事件が起きたのは明け方のことだったらしい。あんまり騒がしいので朝っぱらから喧嘩だと思って、信長は起きたそうな。
来ないよ光秀!?涙の本能寺 橋本ちかげ @Chikage-Hashimoto
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