来ないよ光秀!?涙の本能寺

橋本ちかげ

第1話 麒麟ちょっと来れない

「うっ、うん…うんっ」


 明智光秀あけちみつひでは咽喉に絡まる痰を切った。これで何度目だろう。普段は痰持ちではないはずなのだが、緊張のせいか声を上げようとすると、痰が絡んで咽喉に詰まるのだ。


(言うんだ…おれなら出来る。今こそ、言うんだ)


 光秀は心の中で必死に自分に言い聞かせていた。


(『敵は本能寺にあり!』だ。さんざん練習したじゃないか!)


 この一言は、三日三晩、練りに練ってついに決定した、信長を倒すための格好いい決め台詞なのだ。

 流行語大賞など目ではない。


(これは歴史に残る)


 思いついたときはっきり言って、光秀は確信した。

 敵は、本能寺にあり。

 すっきり無駄もなく、シンプルでいて衝撃的インパクツ。


(文句なしだ)


 これはいける。信長を倒したら、この一言は五百年は残るはずだ。光秀を見て勇気づけられ、これから謀反をしたい、する人のための言わば代名詞的決め台詞になるだろう。


 敵は本能寺にあり、か。


 二回言っても素晴らしい。特許をとっておかなかったことは悔やまれるが、そんなことはどうでもいい。この本能寺の変が、歴史に残る一戦になるかならないか、それは光秀が発するこの一言に懸っているのだ。


 しかし今、その一言が出てこない。

 丹波亀山を発ってから、一時間。途中、無意味なトイレ休憩をこまめに挟んだりして光秀は、鏡の前で何度も練習したのだが、やっぱり本番になるとプレッシャーのためか思うように声が出ない。


「てっ、…てきはほっ…いやっ、あああっ、エフフン、エフン」


 実は丹波から京都まで至るまでにも、何度かチャンスはあったのだ。だがその都度、途中で噛んでしまったり、言ったはいいけどタイミング悪くて誰も聞いていなかったりしてついに桂川の辺りまで来てしまったのだ。


 どうしよう。


 もはや京都西洞院本能寺きょうとにしのとういんほんのうじは目と鼻の先だ。織田信長には中国に発つ前に軍勢を率いて挨拶に来いと言われているので別に不自然ではないのだが、そろそろ皆の気合いを入れて戦闘態勢を整えておかないと、このままでは普通に信長に挨拶に行くことになってしまう。


「今日の殿、何かちょっと様子がおかしいよな?」

「えっ、お前も思った?さっきから何回も何か言いかけているみたいだけど…」


 光秀の不自然な態度に、そんな声もちらほら。まずい。そう思うと余計に焦る。声が出ないのだ。ああ、どうしよう。


「殿っ、どうなされたのですっ。『敵は本能寺にあり』でしょ!言うんなら今がぎりぎりいっぱいですよ」


 そんな様子を見かねたのが、斎藤内蔵助利光さいとうくらのすけとしみつである。かの稲葉一鉄いなばいってつと光秀でとり合いになったと言うこの名将は、今いち神経の細い光秀のプレッシャーをちゃんと見抜いていたのだ。


「おっ、おお内蔵助!何度かその…言ったんだけど誰も訊いてなくて」

「殿の声が小さいんですよ。今、声の大きなものを用意しましたので、こやつに」

 と、進み出たのは光秀より十歳も若い溝尾庄兵衛みぞおしょうべえだ。

「だっ、駄目だよ内蔵助!こいつにやらせたら全部持ってかれちゃうじゃないか!この一言に、流行語大賞、いや私のすべてが懸ってるんだぞ」

「しかし殿、このままだと本能寺着いちゃいますよ」

「とりあえず、戦闘準備だけは命令しちゃいましょうよ」

 確かに。このままだと、謀反もくそもない。

「分かったよ。じゃあ、戦闘準備」


 光秀は京都に入る直前に、しぶしぶ将士に戦闘準備を命じた。それはまず平地戦闘に備えて長距離移動用の馬草鞋を捨てさせ、点火した火縄を短く切り、携帯させることだ。ここで初めてようやく、配下の間にいつもと違う雰囲気が伝わった。


「なんで火縄の準備を」「もう京都だぞ」「いくさがあるのか」


(ふふん、やっと気づいたな)


 一時はどうなることかと思ったが、これで場が温まってきた。光秀は咳ばらいをすると、大きく息を吸って胸を張った。みんな、まずは注目だ!


「みにゃのにょもの!」

 いきなり噛んだ。もうお終いだ。これでは到底かっこいい台詞は言えない。

「ううーっ、なんで噛むんだ!私のばかっ!煕子ひろこぉ(奥さん)…お玉ぁ(のちの細川ガラシャ。娘です)…わっ、私は、もう駄目だあ…て言うかもうやめよっかなあ、本能寺行くの!」

「とっ、殿のメンタルが折れた!これはいかん!」

「内蔵助殿、この庄兵衛にお任せあれ!」

 内蔵助の声に、さっきの庄兵衛が進み出た。

「皆の者、よおっくお聞きあれ!敵のおわすは本能寺にて御座候!」

 ええっ?

 この一言で、一万五千の軍勢がざわっと来た。


「本能寺だって?」「おれたち本能寺に攻め入るのか!?」「本能寺って信長さまがいるところだろ!」「謀反じゃないか!」「どう言うこと?!」


「落ち着け皆の者、騒ぐな!これは天道である!」


 四十四歳の男盛り、彼は台詞も噛まないし、声も堂々としていた。


「速やかに天下の悪逆、魔王織田信長を除き、王都を安泰なからしめんっ!こたび恩賞を立てれば、おのれらだけでなく一族郎党、望むままに褒章をやるぞ!」


 決まった。決まりすぎた。庄兵衛の一言が、まるで油紙に火をつけたように燃え広がり、一気に反乱軍明智勢一万五千を湧かせた。光秀の時と違う、うわあああって凄いどよめき。


「うおおおっ、褒章は思いのままじゃと!」「我らが歴史を変えるのだ!」

「さ、殿。場をあっためておきました!では何か一言!」

「こっ、これ以上何を言えと言うんだ!」


 悲鳴を上げた光秀にぬけぬけと、庄兵衛は後を譲る。しかしもはや実になりそうなことは、何も残されていないのが実情だ。


「ああっ…その、皆さん、これから本能寺に行きますが、くれぐれも怪我のないよう慎重に、と言うか、家に帰るまでが謀反と言うか…」

「校長先生ですか!」「へたれすぎますよ!」「もっと、なんかビッとすること言って下さい!」「やってらんねっすよ!」

「うううっ…」


 ぼそぼそと話を始めた光秀に容赦ない、野次の雨が降る。ただでさえメンタルの弱い光秀なので、もはや話はぐだっぐだになった。


「殿、時間ないんで巻きでお願いします」「て言うか早くシメてください。みんな、怒りだしますよ!」


「わっ、分かったよ」

 もう光秀はやけくそだ。

「とっ、とにかく!光秀謀反するから!信長倒すから!…その、光秀のことは嫌いになっても、謀反のことは嫌いにならないでくださいっ!」

 その光秀の中でどす黒い殺意が一気に噴き上がっていた。

(おのれえええっ、こうなったのも全部あいつのせいだっ!信長絶対殺すうっ!)


 その頃、京都西洞院本能寺は。


 何だか、いい匂いがしていた。しかもがんがん焚かれた篝火に、赤々と提灯まで吊られて昼のように明るい。しかも中はお祭りのように騒がしかった。


 街灯も二十四時間営業のお店もないこの時代、普通の人は暗くなったら寝るのだが、この織田信長と言う男に常識など、まるで通用しなかったのだ。


「お蘭、もう焼けただわ!窯を開けいっ!ピザが焦げるでやっ」


 短気を絵に描いたような信長の声に森蘭丸もりらんまるはあわてて、石窯の中のピザを引き上げる。手製のベーコンに、とろけるモッツァレラチーズ、朝もぎのトマトで作ったソースのナポリピッツァは信長自ら生地を練ってトッピングしたものだ。


 この夜、信長は庭に特設された特製石焼窯で、ピザを焼いていた。


 本格的なナポリピッツァの焼けるその大きな石焼窯は、京都だいうす町に在住の宣教師から話を聞き、石造りのプロ近江の穴太衆あのうしゅうに造らせた本格的なものだった。それが三つも庭に並べられてフル稼働なので、給仕はまるで一流レストラン並みの大忙しだ。


「あっ、あのっ石窯ピッツァ焼けました!」

「それは三番テーブルだでやっ!ああっ、遅い!そろそろ、我が自慢料理、雉肉の蜂蜜オレンジソースグリルが焼けるではないか!早く別の持ち場に回れえいっ」

 森蘭丸をはじめ、小姓たちは信長の指示に大わらわだった。


 立食パーティ風の会場には、モッツァレラチーズのサラダ、カルボナーラにニンニクと唐辛子のスパゲティ、シナモンフォッカチャ、鴨肉のロースト、雉肉のグリルなどが並べられ、デキャンターのワインやビールと一緒に、すべてセルフサービス、取り分け方式だった。


 帝国ホテルのシェフが立食バイキング形式を考えだす数百年前に、せわしない信長はこうしたパーティスタイルを考えていたとしても、まあ、不思議ではない。


(も、もういやだ)


 森蘭丸以下小姓たちは、慣れないイタリア料理に振り回され疲れ果てていた。いっくら天才とは言え、信長と言う人はどうしてこう、皆が大変なことばっかり思いつくのだろう。


「うわはははははあっ、またピザが焼けたでや!これ、五番テーブルね!いやあ、さすがに我は天才だでや!あれも美味そうに焼けたわ!楽しいなあ蘭丸!」

「え、ええ…」

「明日はこれで三河殿(徳川家康)の度肝を抜いてやろうでやっ!」

(ど、どうしてこんなことに…)


 蘭丸がよくよく考えてみると、ことの始まりは、徳川家康の接待で三河へ遊びに行ってからだった。信長はそこで、もう最上級、国を挙げての究極の大接待を受けたらしい。


「いやー我が馬で渡る橋をずううっと人が渡しておってなあ!富士山とかもめっさすげえで、また昼?その富士山一望できる宴会場で出た特製ランチが、めっさいきゃあ伊勢海老丸ごと乗っててどえりゃ(以下略)」


 と言う自慢を、蘭丸は十回くらい訊かされたのだ。


 そもそも長年胃痛の種だった武田勝頼が滅んでからこっち、信長は機嫌がいい日が多すぎた。確かに機嫌が悪いは悪いでそれはもう最っ悪なのだが、機嫌が良すぎてもこれがまった死ぬほど面倒くさいのだ。どっちに転んでも、小姓泣かせの人なのだ。


「おいお蘭よ、て言うわけで我は久々に感動したでや!なあ、訊いてるか!」

「は、はい」

 と、たまにお酒を飲んだりすると、信長はそうやって蘭丸に絡んだ。

「来年は絶対徳川殿を呼ぶぞ!こりゃあ、接待で負けるわけにはいかんでや!」


(ったく、すぐ人に影響されるんだから)


 結局、信長は色々と考えていたみたいだが、元来飽きっぽい人なので、家康が来たら来たでこう言うことは得意な明智光秀に丸投げしたのだ。長年信長を知っているので光秀も予想はしていたらしく、家康とはもう事前に打ち合わせていたみたいだ。


(ああこれでようやく、あの人の我がまま訊かなくて済む)

 光秀も上手くやってるみたいだし、蘭丸もほっと、肩を撫でおろした矢先だ。

「これを見い、お蘭!」

 本能寺の庭先に据えられた石窯を見て、蘭丸は文字通り度肝を抜かれたものだ。

「はっ、はははあっ、ようやく間に合ったわ!家康殿には、これで信長特製出来たてイタリアンを食べてもらうでや!」

(そ、そんな馬鹿な)

 唖然とした。

(て言うか、諦めたんじゃなかったのか)

 発想がぶっ飛びすぎていて蘭丸にも、それはさすがに予測出来なかった。

(これだから、天才の気まぐれは困る)

 て言うか、信長のそれは天災のレベルだ。


 それから大変だったのは、蘭丸にも相談せず驚天動地のサプライズパーティをねじこんできた信長の後始末だ。とりあえず徳川家康には色々理由をつけて堺見物に連れ出し、そのまま一泊させることに成功したが、一番困ったのは光秀のことだ。


(今さら接待を中止しろは言えないよなあ)


 でも言うしかない。信長は届けられたばかりの特注ピザ窯を見て、立食パーティを開催する気まんまんなのだ。誰も自分の手料理を食べないと知ったら、それこそ手のつけられないほど激怒して京都中を丸焼けにするかも知れない。


「明智殿、もうっ、接待のお金使い過ぎですよ!上様怒ってましたよ!」

「えっ、そんな…」


 蘭丸が注意すると、光秀は何を今さら、と言う顔をした。大体、金に糸目をつけず家康を接待しまくれと命令したのは、信長本人なのだ。今の注意が理屈に合わないことはよく判っている。いちゃもんだ。でもこれぐらい言わないと光秀だって、引っ込みつかない。


(よ…よし、もうひと押し)


「あっ、あのときは言わなかったけど、メインの鯛の塩窯蒸し、生臭かったですよ。僕だってあれはないと思いましたよ!」

 ごめんなさい光秀さん。胸に重い痛みを感じつつ、蘭丸は毒舌を続けた。

「だっ、大体なんですかっ!あんなにお金を使ったのに、料理は仕出しだったし、お酒はぬるかったし、オーダーは遅いし!女の子だってビール飲ませてボトル入れただけなのにこの金額はおかしいですよ!普段どんなお店行ってるんですか!これ、ぼったくりじゃないですか!」

「う、うう…」

 光秀は泣きそうだ。


 これが同僚の羽柴秀吉あたりだったら一発ギャグとか自虐ネタとかでお茶を濁すのに、この人、メンタルと胃腸が弱いのだ。アドリブ弱いのだ。へたれなのだ。心が痛い。でも言うしかない。蘭丸は胃痛を堪えて止めを刺した。


「もうっ、接待役はクビです!中国地方で秀吉さんが困ってるみたいですから、そっちに行ってて下さい!これ以上へますると、僕だって庇いきれないですよ!」


 あのときの光秀の顔。黒くくすんで亡霊のようだった。エリートをこてんぱんにすると気持ちがいいというが、正直あれは後味悪いだけだった。あの人も言い分があるだろうに、ううーっ、とか呻くだけでろくに反論しないからだ。


 しかしまあ、苦労したがそれでもようやく光秀を追い出せた。


(さすがは僕。えらいぞ自分を褒めてやりたい)


 と、ことが成ったとき蘭丸は自分で自分を慰めた。

 だが、災難はこれでは終わらなかったのだ。


「ようし!じゃあ、徳川殿が来る前に石窯の試運転だでや!蘭丸、光秀を呼べ!まずは接待役のあやつに馳走してやるだわっ」

「えっ、ええっ!?殿、光秀様は今、中国出兵の準備中ですよ!そんな無茶な」

「なーにそんなの行く前に、ちょっと寄らせればええでや。あっ、おいお蘭よ。光秀めは、誕生日はいつだでや」

「えっと享禄元年きょうろくがんねん(一五二八年)とはうかがいましたが、誕生日まではちょっと…」

「じゃあ、今日でいいでや!主君の我が決めたわ!おーいっ、皆の者、今日は光秀の誕生日を祝おうでや」

「ええっちょっとそんな」

 とんでもないことになった。

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