第4話

 「ヒサメ、26……」


なんの気なしにつぶやいたら、ヒサメは苦しい顔をした。


「ぼくちん、なんかイヤなことしましたか……?」


嫌われると思ってビクビクしながら言うと、ヒサメはううんと声を出す。


「風邪引いたらかわいそうだから、ちゃんと乾かすなぁ」


ちょっと声を震わせながらもいつもの口調で言い、ドライヤーで髪を乾かし始めた。



気持ちいいくらいの力でぼくの髪を掻くヒサメの手と温風でふわりと舞う自分の髪が目の前にある銀色の鏡に映っているから、ぼんやりと見るぼくちん。


 これがご主人様だったなら、どんなにいいのだろう


 ぼくちんを飼い始めた時の優しいご主人様に戻って、今日は間違いだったと言ってくれたなら



考えただけで目頭が熱くなってきたから、強く目を閉じた後に目線を逸らした。


すると、その目線の先に墨で描かれた少年が金色の額縁の中で笑っていた。


そういえば、この家に上がった玄関にも廊下にも油絵に紛れて飾られていたなと思い出す。


伝統的な風景画もあれば人物画もあったし、濃淡のタッチと哀愁漂う感じを受ける趣を出せるのはある人しかないとぼくちんは確信した。



 「ミツの髪、ふわふわだぁね」


猫の手でぼくの髪を優しく梳いたり、わしゃわしゃと掻き回したりしているヒサメがやっぱり天使のようにかわいい。


でも、甘いのはどうしたらいいのかわからなくなるからどうにかしてでもその雰囲気を壊そうとするんだ。



「そこにある絵って、雲叢うんそうさんの作品でしゅよね」


それを聞いたヒサメの手がピタッと止まる。


「それはわかるんだ……まぁ有名な水墨画家らしいしなぁ」


地雷を踏んだみたいで最初の時のように低くてしっかりした口調になった。



「ぼくちん、空間デザイナーだったんでしゅ。新人の時に担当に抜擢されてお世話になったから……見ただけでわかりまちた」


デザイン学科の専門学校を出てデザイン事務所に就職したぼく。


若さゆえの奇抜な発想を買われ、現代の水墨画家で有名だった羽鳥雲叢さんのギャラリーのデザインを任されたのが今から5年前。


自分で調べたり資料を読み込んだりでは飽き足らず、雲叢さんの元を訪ねてお話を聞いたり作品を見せてもらってデザインしたから、とても気に入っていただけた。


それから3年前にご主人様の命令で辞めるまで、展覧会をするたびに指名していただいていたんだ。


‘‘息子’’だと呼んでくださったし、独立した時のために『サンジャオ』というネームももらうくらいだった。



「そんなにしてもらってたんだぁね」


髪を撫でていた手が耳を伝い、頬に触れた。


「ここまでしたお礼にさ、大金はいらないからぁね……ちょっと、絵を見てくれない?」


ぼくちんは背筋がゾワッとしてヒサメの顔を見ると、気持ち悪いくらいに穏やかに笑っていた。


「ぼくのお金は……?」


恐る恐る言うと、ヒサメが黒のサコッシュを持ってきてぼくにかける。


「茶封筒だけだと無くしそうだからカバンに入れといたからぁ、行く時そのまま持ってていいよぉ」


目を細めて笑うヒサメに天使なのか悪魔なのかわからなくなってきた。


「服が乾くまででいいからぁ、あに付き合ってくれるよねぇ?」


耳元で甘く誘うように言われたから、うなずくしかなかった。


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