第1話

 ぼくちんには見覚えがなかった……ご主人様をこんなにも怒らせる理由が何かということに。


「300万やるから、今すぐ出ていけ!」


分厚い封筒をぼくちんの方に投げて叫ぶご主人様。



 最初は今日お休みだから、いっぱい遊んでくれる前戯かと思ったのに、なんかイヤな雰囲気が漂っている。


「ぼくちん、なにか悪いことでもしましたか?」


ぼくちんに背を向けたまま、ご主人様は黙っている。


「ぼくちん、我慢できましゅよ……ご主人様のためならなんでもいたしましゅから」


ご主人様の近くに四つん這いで歩いていって、ご主人様の好きな微笑みを浮かべた。



ゆっくりと振り向くご主人様に安心してより気持ちを込めて微笑んだのに、返ってきたのは勢いのあるビンタだった。


「いいから出ていけ! お前なんかいらない!!」


いつもとは比べ物にならないくらい痛い頬を押さえているぼくちんをご主人様は引きずっていき、玄関から外へ投げ捨てた。


「帰ってくんなよ……お前なんか、もう知らねぇ」


ご主人様は吐き捨てた言葉と共に、またぼくちんの方に封筒を投げて、ドアを閉めてしまった。



 「ご主人様! ご主人様!!」


風で横やりに降っている雨が冷たいという感覚よりいきなり捨てられたのが理解出来ないぼくはドアを叩いて叫ぶ。




何十分、何時間そうしていたかわからないけど、ぼくは一旦諦めて二足歩行でアパートを離れることにした。


久しぶりの外に出て、久しぶりの雨に打たれながら久しぶりの二足歩行で歩いているから、足取りはおぼつかない。


もしかしたら、倒れたぼくちんをご主人様が助けに来てくれるかもしれない


なんて淡い希望を抱きながら、槍のように降る雨の中を歩いていく。



ぼくちんの気持ちと同じ灰色になった街の中をずぶ濡れになりながら、ゆらりゆらりと歩く。


高層マンションが並ぶ車通りの多いところに出たようで、雨の激しい音と車のエンジン音が拮抗していてとてもうるさい。


 騒がしさを避けようと適当なところで曲がると、路地裏に入ったようでザーザーやポチャポチャという雨音だけが鳴り響く。


「雨粒はまんじゅうの形をしてるって聞いたことありゅ……天からまんじゅうなら、幸せ降ってこにゃいかなぁ」


棚からぼたもちじゃあるまいし、と付け加えながらも空を見上げたのに、虚しく冷たい雨がぼくを突き刺して凍えさせようとするだけだった。



「とりあえず、どこかで暇をつぶそう」


持ち物は300万円が入っているらしい茶封筒のみ、上着はタオル地の長袖だからもうちょっと先にある駅まで行ける。


駅前ならマンガ喫茶もホテルもあるはずだから。


ぼくちんは下唇を噛んだ後、水分でへばりついた前髪をかきあげて一歩踏み出した。



 「冗談キッツ!」

いきなり聞こえてきた大きな声にびっくりして身が縮む。


辺りを見回すと、昭和の香りがしそうな一軒家が現れた。


黒の瓦屋根、茶色の壁、黄土色の引き戸……その前にある木のベンチに誰かが座っているみたいだ。


「まぁ、元気でなにより。 大切な人のそばにいるなら幸せなんだろうな」


恐る恐る近づいていくと、低くて落ち着いた声がぼくちんをくすぐる。


「あ、忙しいから切るな……バイバイ」


イラついたように耳元から板を外し、だらんと右腕を下ろしたのは見えるのに、雨のすだれで肝心の顔が見えない。



「今さら現れたって……遅いんだよ」


俯いた顔を上げた瞬間、一筋の光がさして雨がその部分だけ途切れた。


艶のある黒のショートヘア、縁の細い眼鏡から見えるアーモンドの瞳、上下の白い服の男性。


ぼくちんは天使だと、一瞬でわかったんだ。


「すいましぇん、あの!」


君が虚ろな瞳でぼくを捉えたからちょっと後悔したけ


ど、後には引けない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る