トンネル 前編
江井几の進言に誰よりもまず反対したのは、鍋島駅長の隣で佇むスーツの女性だった。河川敷に自生する葦のような背丈をもつ彼女は、「
江井几以外の4人は、この物静かに過ぎる女の唐突で突拍子のない発言にあきれるばかりだった。鍋島にしても、管轄するトンネル内での異例ともいえる行動を承認するとなれば、当然責任を負わねばならない。贅肉のマフラーにくるまった首がぶんぶんと左右に振れる。
保安係の指導員、キリオ助役だけは、江井几に賛成していた。江井几の考えは、一考の余地がある。単身となれば、いざというときにはトンネル内に設けられている坑道に退避できるからだった。この場合に限っては、列車は自分たちを殺す足かせになりうる。
几柳は、やはり反対を貫く様子だった。彼女は本社の人間だ。グループホールディングスとしての近鉄の経営を任される立場にあって、今は現場に配属されている。保安係の存在は一般には知られていない。彼女は<魑魅魍魎>を目にしたことがなかった。
助役は見習いたちに車内に戻るように言って、駅長と几柳を連れ立って階上の駅務室へとあがっていった。
赤いシートに、5人はまた同じ場所で座る。
「江井几、お前本気なんか」
「わたし?」
「そや」
「本気」
「でもサー、エイッキーのは無理あるんじゃないって思うナ。ね」
「ま、俺らは見習いやし、『鉄器』だってマトモに扱えへん。そんなんがぞろぞろついてっても、助役の助けもでけへんやろうが」
「といっても、今動けるのは助役と私たちだけなのかしら。応援を呼ぶこともできるとは思うのだけれど」
「ソレ、ムズカシーんじゃない? 保安係、人手不足だし、他のひとは今日はみんな非番なんだヨ。もう3時だし。ね」
「始発電車は5時台。ここで遅れを出したら、ダイヤ乱れにつながるっちゅうわけか」
「私たちだけでやるしかないのね」
「マ、助役っちをボッチでトンネルに行かせちゃったら、なにかあったときに生存確認できないジャン。結局、ワタシたちがやらなくちャってカンジ。ね」
「なんじゃそりゃ……。こんな無理のある仕事やおもてなかったで」
「みんな。どうするの。わたしがいったこと。やってくれるの」
返事こそ、誰もしなかった。もう月は山の向こうにおちている。
日誌、つづく。
(社員歴概要)
キリオ=サヴィルシャール=ウビーストヴォ(Kirio Savershal Ubijstvo)
大阪管区第11列車区助役。年齢、35歳。男性。名古屋管区第1列車区乗務員(運転士)・宇治山田駅助役を経て、対<魑魅魍魎>用保安係に登用。大阪管区転属、現在に至る。<人殺し>の噂がまことしやかに囁かれている。生駒駅駅長の鍋島はかつての上司。
使用言語:日本語東京方言、ロシア語
安藤美沙几(Ando Misaki)
大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、23歳。女性。本年4月入社。第2新卒。
<魑魅魍魎>への執着を見せる。
使用言語:日本語東京方言
江井几暦(Ejki Koyemi)
大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、22歳。女性。本年4月入社。新卒採用。
体が丈夫ではなく、意見を口にすることも少ない。と思われていたが、ためらいなく意見具申することもあるようだ。
使用言語:日本語東京方言
神代拶几(Kamiye Satzuki)
大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、18歳。女性。本年4月入社。高卒採用。
<魑魅魍魎>や<保安係>、社内の事情になぜか詳しい。
使用言語:日本語東京方言
几島義輝(Kidzima Yeshchiteru)
大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、24歳。男性。本年4月入社。修士卒採用。
ムキムキ。
使用言語:日本語近畿方言、英語
巴几巳斗(Tomoe Kimito)
大阪管区第11列車区保安係見習い。年齢、22歳。男性。本年4月入社。新卒採用。
見た目やしぐさはエリート候補生のようだが、実際は脳内一人語りが激しく、考えている振りをよくする。
使用言語:日本語東京方言
近鉄奈良線、或いは魑魅魍魎に関する一考察 からゐ @abenobashi
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