雑木林(ゾウキリン)

シラサキケージロウ

雑木林(ゾウキリン)

 埼玉県には、東京との間で板挟みになった結果、安い骨付きチキンみたいな形になった新座という市がある。武蔵野台地のへそに当たる部分にちんまりと鎮座するその小さな市に、私は小学生の時分から今に至るまでずっと暮らしている。


 埼玉県の各市町村の例に漏れず、新座市にはこれといった特徴もないが、それでも誇るべきものがふたつある。


 ひとつが平林寺。道路を挟んで新座市役所の向かい側にあるその寺は、上皇上皇后両陛下がいらっしゃったことがある由緒正しき場所である。本殿の裏側に広がる雑木林はまさに〝ミニ武蔵野台地〟と呼ぶべき広大なもので、春夏秋冬を選ばず様々な種類の木々が葉をふさふささせ、風が吹くたびにざわざわと鳴き声を上げる。


 もうひとつがゾウキリン。のっぺりとした顔のゾウをキリンの色で塗ったデザインの、新座市のマスコットキャラクターだ。知名度こそくまモンの千分の一にも満たないだろうが、その見た目はかわいらしく、新座市民にはそれなりに愛されている。


 さて、あれは私がまだ小学一年生だった頃の夏休みの話だ。新座に越してきて間もない私の両親は、近くに立派な寺があることを知り、当時ポケモンに夢中だった私を外へと連れ出した。その立派な寺こそ、他でもない平林寺である。


 車に揺られて十分もしない距離にその寺はある。近くにあるたけ山という店のうどんで腹ごしらえした後、私達は街中にあるには似つかわしくない古びた木製の門をくぐった。生い茂る木々が影を落とすおかげでいくぶんか涼しくなった空気の中で、蝉の声があちこちからやかましく響いていた。土の匂い混じる空気が鼻に通った。


「すごいな。家の近くにこんな場所があるなんて」と父は言った。「うん、すごい。軽井沢みたい」と母が続いた。すごいことは間違いないが、その時の私にとってはポケモンの方がずっとすごかったので、「すごい」とは口に出さなかったと思う。


 私達は三人並んで境内をずんずん進んでいった。緑のもみじが影を落とす石畳の道を進み、金剛力士像が睨みを利かせる山門を抜けて、鯉が大きな口を開けて餌を待つ池の脇道を通過していけば、松やら楓やらくぬぎやらの雑多な木々が参拝客を左右から見下ろす散歩道へと続いている。探検隊の隊長よろしく家族の先頭を歩く父は、道に落ちていた松ぼっくりやセミの抜け殻を拾い上げて私や母に手渡した。母はきゃあきゃあと嫌がりながらもしっかり楽しんでいたが、私の方はさほど楽しくなかった。


 境内をしばらく歩いて行けば、錆びついた雰囲気の墓所群が見えてくる。中には松平信綱夫妻の墓もあるのだが、当然のことながら当時の私にはそのすごさがわからない。ただ、「かくれんぼしたら楽しそうだな」と考えたことはよく覚えている。


「松平信綱ってなにした人だっけ?」と父。母はそれに「徳川将軍のひとりじゃないの?」と答える。


「でも、だったら徳川じゃないとおかしいだろう」

「あれ? でも信綱っていたよね? それに松平って名前の偉い人もいたでしょ」

「いや。全員名前に〝家〟がついた気がする」

「でも、吉宗はいるでしょ? 暴れん坊将軍の」

「ああ、そうだ。だったら、この人はなんで松平なんだ?」

「……歴史のロマン?」

「いやいや、待て待て。家康から順番に思い出してみよう。家康、秀忠、家光……」


 境内にほとんど人はいない。車が通る心配もない。だから父も母もいつものように私の手を握っていない。徳川家歴代将軍を指折り数えはじめた両親を置いて、暇を持て余した私が無暗に歩き出したのは必然だったかもしれない。


 墓所群を尻目にどんどんと道を進む。一歩進むたびに、インクを重ね塗りしたように緑はより濃くなっていく。蝉の声が不思議と遠くなる代わりに、雑木林の鳴き声が絶えず私を包んだが、両親から離れて行動するという未知の経験によりポケモントレーナーの気分になった私にとっては、その音はむしろ高揚感をより煽るばかりだった。


 しばらく歩いているうちに私は、ペグとロープに囲まれた3メートルばかりの高さの小山に到着した。野火止塚という名のその山には、さまざまな木々が茂って剣山みたいになっている。


 あの中にはきっとポケモンがいる。


 そう考えた私が、ピカチュウの尻尾を求めてロープを跨ごうとしたまさにその時のこと、木々のざわめきの中に「ぷえぇ」という奇妙な音が聞こえた。おもちゃのラッパを吹いたような気の抜けるその音に強く惹かれた私は、ピカチュウを一旦脇に置き、音の正体を探ることに決めた。


 耳を頼りに音の聞こえた方へと進んでいく。ラッパの音はどんどん大きくなる。もしかしたら、新しいポケモンがいるかもしれない。そんな風に考える私は、きっと曇りなき瞳をキラキラさせていたに違いない。


 やがて私は在原塚までたどり着いた。かの歌人、在原業平が京から武蔵野へ来た際、ここで足を止めて休んだということに由来して名前が付けられた場所だ。


 ラッパの音はその塚の裏から聞こえた。隠れているポケモンに気づかれぬよう、首筋に流れる汗を拭いつつ四つん這いになった瞬間、草むらから私の眼前に〝それ〟が飛び出してきた。


 ポケモンではない。別の何かだ。


 体長は40センチメートルほどだろうか。ゾウのような鼻を持ち、黄色を基調とした体毛に所々茶の斑点が見られる。ずんぐりむっくりした体系で、肌はやたらとすべすべしている。二本足で立ってこちらを見上げるその瞳は、「なんだコイツ」とでも言いたげであった。


 当時の私はその不思議な生き物を新種のポケモンだと勘違いして抱き上げようとした。しかし彼は私の手をはたき、「ぷえぇ」と大きく鳴いてそれを拒んだ。威嚇という概念を当時の私は知らなかっただろうが、少なくとも嫌がっていることは理解できて、おとなしく一歩引いてから、まずは対話を試みた。


「なんて名前のポケモンなの?」「どこから来たの?」「ピカチュウ知ってる?」


 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、彼はただただ「ぷえぇ」と答えるばかりだ。このままでは仲良くなれない。そう考えた私はポケットを探って、彼の興味を惹けるものを探したが、あるのは松ぼっくりばかり。

「これじゃだめだ」と肩を落とした私に、どういうわけだか彼はよちよちとした歩き方で迫ってきた。恐る恐る松ぼっくりを差し出してみれば、短い両手でそれを受け取った彼は小さな口でもごもごと食した。どうやら彼の主食は松ぼっくりであるらしい。


 私は彼のために松ぼっくりを拾い集めて食べさせてやった。十個ばかり食べさせた頃には、彼はすっかり私に心を開いたらしく、松ぼっくりを渡してやると自ら胸に飛び込んでじゃれてくるほどであった。


 雑木林を共に歩く中、彼は私に話しかけてきた。はじめのうちは「ぷえぇ」としか聞こえなかった彼の言葉も、しばらく共に過ごすうちにだんだんとわかってくるようになった。


「オイラはきみがうまれるまえからここにいるんだぜ。なにかあればぼくをたよれよ」


 かわいらしい見た目のわりに、なかなか頼もしいことを言っていたことをよく覚えている。


 それからしばらく遊んでいたせいで、空には夕焼けの光が満ちてきた。父と母が恋しくなって、鼻の奥がむず痒くなってきた私が「そろそろ帰らなくちゃ」と呟くと、彼は「そっか」と悲しそうにうつむいた。私も無性に悲しくなって泣きそうになったが、「なくな」と彼に言われて我慢した。


「オイラたちはもうこうしてあえないかもしれないけど、オイラはずっときみのそばにいるぜ」


 彼が私の膝小僧をぽてぽてと叩きながらそう言ったその時、「おぅい」という声がどこからか聞こえた。風が木々を激しく揺らし、蝉の声が急速に近づいてくるような気がした。


 次に気づいた時、私は母の膝枕に後頭部を預けていた。身体を起こすと、いつの間にかそこは見慣れたリビングであった。


「あの子は?」と私は訊ねた。「あの子?」と母は首を傾げた。「よく遊んだから、いい夢でも見てたんだろう」と父は笑って缶ビールを呷った。


 彼の正体がゾウキリンであることを私が知ったのは、それからしばらく後のことだ。


 あの日以来、私は彼に会っていない。あの出来事が白昼夢だったのか、妄想だったのか、真実だったのかすらわからない。全ては藪の中ならぬ、雑木林の中だ。


 しかしひとつ確かなことがある。彼は今日も、私の乗る原付のご当地ナンバープレートで、元気に呑気にずんぐりむっくりしている。


「オイラはずっときみのそばにいるぜ」


 私もずっと、君のそばにいるぜ。

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