廓の化鳥

木古おうみ

 何ぞ騒がしいと思ったら、鴉が鳴いとるんか。


 もうじき日暮れじゃいうて、急いで飛んどるんじゃろうが、巣に戻るだけなら静かにできんもんかな。

 私はあの音が嫌いでなぁ。煩くてかなわん。


 まぁ、鴉が好きな女郎もおらんか。


 声より羽の音じゃ。耳ん中に染みついて、三千世界の鴉を殺したところで、朝寝なんぞできる気がせんわ。

 年季が明けて、苦界を出たところで、こればっかりは消えてくれんじゃろう。


 女郎ならそのうちわかるようになるわ。

 わかりとうなくてもな。



 何じゃ。鳥の声かと思ったら、もしかして、お前さんの声がだったんか。

 お前さんもやっと水揚げが済んだんじゃろう。

 いつまでも禿かむろのつもりで泣いてはいられんよ。


 心配せんでもええ。今は右も左もわからんじゃろうが、お前さんは器量もええと聞くし、じきに大事にしてくれる客はつくわ。安心せえ。


 私も今でこそ馴染みもつくようになったが、始めは全く売れんかったんじゃ。


 ろくに話もできんし、愛想もないし、何より目が怖いと言われてなぁ。

 ひとの目じゃねえ、鷹じゃ鴉じゃ、人間様を上から見下げて突き回そうと考えとる意地の悪い鳥の目じゃと言われとった。


 名前がいけんかったんかな。


 雁金かりがねなんぞ、女郎の源氏名らしゅうない。

 私の故郷で雁と言うたら、冬と寒い時分に見かける黒い鳥じゃ。

 遠くから見ると鴉に似て、何となく縁起の悪いような鳥じゃった。


 そもそも、女郎が鳥の名前なんぞおかしな話じゃろう。

 くるわからどこにも飛んでいけんのに。

 それに、鳥と言えば「鶴」と名のつく遊女は「手こずる」と昔から言うてなぁ。


 何? お前さんのもらった名前、雛鶴ひなつるというんか。

 あら、まぁ。


 そうか……あぁ、昔もな、ここに鶴と名のつく遊女がいたんよ。

 お前さんが売られてくる前じゃろうか。話くらいは聞いたことがあるかもしれんのう。


 手こずる、なんてもんじゃない。

 私はその女が嫌いじゃった。


 お前さんが悪いじゃない。

 名前の耳触りが悪いというだけじゃ。

 鴉の羽音みたいにな。



 客が来るまで時間もあるし、まぁ少しなら話してもええじゃろうか。

 ええ話はできんけどな。

 私は本当にあの女が嫌いだったんじゃ。



 名前は千代鶴ちよつるといった。


 歳は私と同じじゃったが、売られてきたんはあっちのが早かった。

 同い年で、両方鳥の名前がついとるというだけで、何かとその女を引き合いに出されるもんだから、鬱陶しくてかなわんかった。

 そのふたつ以外、似ても似つかんかったというのに。



 私の生まれは何にもない、寒い貧しい農村じゃ。

 畑はあったが土が凍ってろくなもんが育たん。

 ひとも畑と同じひび割れた唇をして、青白くて硬い肌をしとった。

 野鼠も何もひとが取り尽くして食うもんなんぞないのに、鳥ばっかりは多かったなぁ。

 特に鴉。村の子どもや老人が死ぬのをいっつも待ち構えとった。


 木の根っこの入った汁を食ったきり、何も口に入れん日も珍しくなかったが、お父もお母も子どもだけはよう作った。

 まぁ、当然売られるじゃろう。売られる前にくたばった兄妹もおったわ。


 他にすることもなかったんじゃろうが、そんな気力がどこにあったか今でもわからん。

 村にいたよりかはずっといい暮らしをしとる私でも、客を取ったら疲れるのになぁ。



 廓に自分で来る娘なんぞおらんから、千代鶴も売られたのは確かじゃろうが、どういう出自かは全くわからん。


 来た時分から、琴を弾かせても歌を詠ませても、花魁たちに負けんくらいようできたらしい。

 よく自分は本当は高貴な血筋なんじゃと嘯く女郎もいるが、千代鶴はそうじゃなかった。


 どこぞのご落胤かと噂されたときは、

「滅多なことは言いなんすな。私はお金には恵まれずとも、ひとの縁には恵まれたので、行く先々で教えられただけでござんす」

 と笑っとったな。


 嫌味な女じゃった。

 こんな田舎の遊郭じゃなく、江戸でも京でも行きゃあよかったのに。そしたら私も会わずに済んだんじゃ。



 私はこの通り痩せぎすじゃし、昔は今より色と黒かったんで、色白で背も高い千代鶴と並ぶと、鶴と鴉がおるようじゃと言われとった。

 一緒に嗤うより、上手く使おうと思ったんじゃろうな。

 あの女は、私を見て「ほんに鴉の濡羽みたいな髪をしとるわ」なんぞ言いおった。


 鳥ならいつか一緒に苦界から飛んでいけるかなんぞと言って、育ちが良えふりをするのは構わんが、廓でやられても気味が悪いだけじゃ。


 本当に、何を考えとるかわからん女じゃった。



 一度、ここで物盗りがあってな。


 遣り手の櫛だか簪だかが失くなったというんじゃ。その遣り手が遊女だった頃、馴染みが京だかで拵えさせた特別なもんじゃいうて、本当かどうかもわからんが。


 客のものが失くなったなら大事じゃが、それでないにしたって遣り手婆は黙っとらん。

 犯人探しになるわなぁ。


 怪しいと言われた大部屋に、千代鶴がおった。


 新造から上がったばっかりで、まだ衝立一枚隔ててとっておったような頃じゃ。

 新人が真っ先に疑われるわなぁ。

 まだ何もないのに、姐さんのたちより人気もあったから、妬み嫉みもあったんじゃろう。


 主人の女房が折檻することになった。


 身体は売りもんじゃ。殴ったり蹴ったり後引くようなことはせん。

 その代わり水を使う。

 水責めなら痕にならんからなぁ。

 あれに関しては、男に打たれるより、女の手加減でやられる方が余計苦しむ。生殺しじゃからな。

 気を失うとまた水に浸けて起こすんじゃ。

 噎せても御構いなしで、最初は食ったもんを吐いても、そのうち吐くもんもなくなって、透明な清水みたいなもんだけ吐くようになる。


 千代鶴は水すら吐けんようになっても、誰がやったかは吐かんかった。


 女房や禿だけじゃ敵わんと、主人も出てきよった。

 裸にしてから縄で括って、水をかけると、縄が膨らんで蛇が締めつけたようになる。

 強情だったあの女もさすがに堪えたんじゃろうな。

 締められるたび叫ぶ声が、鶴の鳴き声みたいに聞こえたわ。


 私は本物の鶴は見たことがない。

 掃き溜めみてえな村にそんな綺麗な鳥は来んかったからな。



 私は本当は誰が盗ったか知っとったんじゃ。

 千代鶴と同じ部屋で寝起きしてた、揚巻あげまきという、牛みてえな固太りで、頭と同じくらい大きくて固い女郎じゃった。


 自分は武家の娘でこんなとこにいる女じゃねえと毎日言っとったが、そんなんだから客もつかん。借金ばっかり膨らんで、年季が明けても辺鄙な宿に飯盛女として回下げられるのは目に見えとった。


 普通は食うもんを切り詰めて、何とか金を貯めるもんじゃが、それは気位が許さんかったんじゃろうな。

 遣り手の幾らになるかも分からん櫛なんぞを盗んで、足しにしようと思ったんじゃろう。


 お茶を引くばっかの女郎が盗んだとばれたら殺されてもおかしゅうない。だから、千代鶴は庇っとったんじゃ。


 行燈部屋に押し込められて死んだように寝ながら、私と揚巻が前を通るのが障子の破れ目から見えたとき、あの女は力なく笑って頷いた。秘密は守るから安心さえというようにな。

 ばつが悪そうに揚巻は早足で去っていきよった。



 その夜、私は揚巻の部屋から遣り手の櫛を見つけて、主人と女房の前に差し出した。


 千代鶴は無罪放免。

 どんな目に遭っても姐さんを庇った情に厚い女じゃと評判もまた上がったっけ。


 助けた? 私が、お前さんも滅多なことは言わん方がええ。

 助けるわけがないじゃろうが。

 ただあの女の思い通りにしとうなかっただけじゃ。


 ひと助けをして死んで極楽浄土に行くなんぞ、許せるかいな。

 嘘吐きの女郎が行くのは地獄と相場が決まっとる。女郎に誠があれば陽が西から上るというてな。


 揚巻はちょうどええ厄介払いじゃ。責め苦に耐えきれず死んで、投げ込み寺で犬畜生と一緒に埋められたわ。


 自業自得じゃとみんな笑ったったが、千代鶴だけは哀れじゃと泣いとった。女郎がひとを哀れむ身分かいな。

 私は自分が櫛を見つけたんじゃと、わざとあの女の前で言ってやった。怒るところを見たかったんじゃ。


 でも、千代鶴は、

「そうか、あんたが助けてくれたんかえ」

 と、寂しそうに笑って礼を言っただけじゃった。


 本当にろくでもねえ女じゃった。

 天女だなんだという男もおったが、あれは物の怪の類じゃ。



 私はまだあの頃は話も床も下手じゃったからろくに客もつかんかったが、千代鶴はそりゃあ馴染みも多くついて、日に何人もの男があの女見たさに押しかけとったわ。


 お前さんも女郎なら起請きしょうくらいは持っとるじゃろう。

 熊野神社で配っとる神札に、年季が明けたら一緒になる男はあんただけじゃと血印を押すあれじゃ。


 あれも買っても買っても足りんと、言うとったっけ。


 いつも同じ着物は着てられんから、金もかかるじゃろうに、それでも客から菓子だ何だをもらったときは、必ず禿や仲間に分けてやっとったなぁ。


 そのうち、どこぞの金持ちの商人から、身請けの話も出て、やっと苦界くがいを抜けられることになったというが……神も仏もないもんじゃな。



 千代鶴は梅毒になったんじゃ。


 そりゃあ酷いもんじゃった。

 鼻が腐るならよくある話じゃが、そんなもんじゃねえ。

 白かった肌も全身紫色に膨れて、どこも鶴らしゅうない。馴染みの客もあの女とわからんようになったくらいじゃ。


 千代鶴は鳥屋とやに押し込められた。

 病気の遊女を離しとくあの小屋じゃ。

 鳥と名のつく女郎の最期には、何とも皮肉なもんじゃな。


 息をするたびに痛くて痺れるとのたうちまわって、肌から血も出て、膿んでちっとも治らんかった。

 本当に梅毒だったんかいな。

 もっと聞いたこともない悪い病気だったんじゃなかろうか。


 鳥屋は私の故郷でよく嗅いだ匂いじゃった。死人の匂いに誘われて、よく見た嫌な鳥が始終鳴いとったっけ。

 客どころか、千代鶴にようしてもらった仲間も禿も怖がって寄りつかんかった。


 寄るのは死肉食らいの鳥と、そこで生まれた雁––––、私ぐらいのもんじゃ。



 自分の金で飯と包帯を買って、あの女に毎日届けた。

 まだ助かるなんぞ思うとったわけじゃないで。


 死ぬ前に何としてでも認めさせたかったんじゃ。

 どこぞのご落胤でも天女でも何でもねえ、性悪のどこにでもいる遊女だとな。



 自分の身の上を恨んどるか聞いても、千代鶴は、

「こんなになっても世話してくれるひとがおる、私は幸せもんじゃ」

 と、目も開かんのに笑って見せた。本当に化けもんじゃで。



 身請けすると言った商人もとんと来なくなった。

 ただ便りでひとこと、なかったことにしてくれと言っただけじゃった。

 それを許そうが許すまいが、もうじき死ぬんじゃ、せいぜい化けて出ることくらいしかできんわなぁ。



 それはさすがに堪えたんじゃろう。

「そうか」とだけ言って、あの女の目から光が消えたのを私は見た。


 そうかじゃないじゃろう。


 憎いとは思わんのか、お前を売った親が。

 恨めしくはないんか、お前に散々世話になって借りも返さん禿や仲間が。

 悔しゅうはないんか、将来を誓った男に捨てられて。


 身体を拭いてやっとった布巾を投げつけて、私が問い質したとき、初めてあの女は言った。


「悔しゅうないわけが、ないじゃろうが」


 腐りかけの肉に埋もれた目から、血も膿みもないまぜになった黄色い涙を流して、とうとうあの女はそう言ったんじゃ。


 あの女に勝てたと思うたのは、後にも先にもあのときばかりじゃ。



 でも、それだけじゃ足りんかった。


 千代鶴の恨み言を聞いたのは私だけじゃあ、売れない女郎の僻みから出た戯言だと思われて終わりじゃ。

 そのうち、私ですら望みから見た夢だったかと思うようになったかもしれん。

 あの女の恨み辛みの証拠がほしかったんじゃ。


「やり返してやろうとは思わんのか」と、私は詰め寄った。


 千代鶴は「したくてもできんじゃろう。後はこの鳥屋で死んでいくばかりじゃ。客どころかあんた以外誰も逢いに来んわ」と泣きながら、笑っとった。



 だから、私は言うたんじゃ。

 伝染うつせ、と。



 あの女は目を丸くして、血を吐きながら笑って、私に言うた。

「やっぱりあんたも私もよう似とる。おんなじくらい悪い女じゃ」と。



 本当にあの女は根っからの女郎だったんじゃろう。

 身を起こすのもやっとじゃったというのに、死ぬ前の日までようやった。

 私に移すためにな。

 何人待ちの売れっ子に、毎晩ただで相手してもろうたんは私だけじゃろう。


 千代鶴からもらったんは、病だけじゃないで。

 どの遊び慣れた客より女のことは女が一番わかっとる。

 床での手管は全部、あの女から教わった。

「そんなに可愛らしゅうできたらすぐ客もつくじゃろう」と言われても、もう腹も立たんかったな。



 本当に妙な女じゃった。

 肌も何ももう死人と変わらんくらい冷たかったのに、指と舌だけは炎みたいに熱かった。

 何人客を取っても、そんな男には会うたことがない。

 これからも会わんじゃろう。


 ほとんど死にかけの身体で、熱く滾っとったのは、あの女が恨み辛みのすべてじゃ。


 今まで誰にも見せんかった分、胃の腑の底でずっと真っ赤な鉄みたいにあっためられとったから、あの世の遣いも熱うてかなわんと持って行けんかったんじゃろうな。

 あの女は全部、それを私に注ぎ込んだんじゃ。



 真冬の雪の降る日、千代鶴は呆気なく死んだ。


 どんなに美しゅうても気高くても、女郎は女郎。

 ひととして弔えば魂を認めたことになる。

 そうして化けて出んように、犬畜生と同じように墓穴に放り込んで捨てるのが習いじゃ。


 別に構わんよ。腐れた身体なんぞどうでもええ。


 あの女の魂は寺にも極楽にも行くものかいな。

 その代わり地獄にも行かせん。

 女郎は廓におるもんじゃ。

 どこにも飛んでいけん私のところに憑くのが筋じゃろう。



 千代鶴が死んでから、不思議と私に客がつくようになった。

 鳥の名のつく女郎だからか、どこか似とると言うて、あの女の馴染みまで来るようになった。

 何にもわかっとらんのに、よう言うわ。


 だから、私は千代鶴と同じように、金持ちにも行きずりの貧しい男にも変わらず相手してやった。

 その分たくさん移せるじゃろ。


 あの女の恨み辛み、醜いもんを墓場まで持っていってやるなんぞ冗談じゃねえ。

 この廓に来る者行く者全部に広めてやろうと、私は決めたんじゃ。



 昔、私に恐ろしい目をしてると言うたもんたちは、ようわかっとったんじゃろうな。



 何、気にすることはない。


 お前さんは可愛い顔をしとると言うし、年季が明ける前に身請けの話も出るじゃろう。

 ここでのことにゃ深入りせず、何でも笑っておけば、そのうち出ていけるわ。


 嫌味で言うとるんじゃない。

 私はお前さんの顔がよう見えんのじゃ。あの病気のせいでな。


 千代鶴と違って肌は腫れんが、その分目をやられたらしい。

 気づかんかったじゃろう。

 誰にも教えとらんからな。



 困ることはない。


 よう見えんでも、間違った方に行こうと来たり、何か良くないもんがあると、どっからか鳥の羽音が聞こえるんよ。


 虫の知らせとはいうが、鳥の知らせというのもあるんかな。そのお陰で不自由はない。



 今年でやっと私も年季が明けるんじゃ。

 故郷には帰らん。

 待っとるもんもおらんしなぁ。

 私もここに来る前何と呼ばれとったか、よう覚えとらん。


 この廓の白い鶴と黒い雁––––、高貴な鳥とは似ても似つかん、恐ろしい目をした女郎の雁金。

 それだけが私じゃ。


 こんな私でも身請けの話が出とるんよ。

 金持ちの商人の家じゃ。

 千代鶴と将来を誓った男かって?

 どうじゃろうなぁ。


 それでも、あの男が来たとき、ひと際大きい翼の擦れる音と一緒に声が聞こえたんじゃ。

 悲鳴に似た、甲高い鶴の鳴き声が。


 この苦界を出たら、私はあの男の家へ行く。

 目はよう見えんでも、羽音が導いてくれるじゃろう。

 何せあの男にやった起請の血印は、私の血じゃねえ。

 死ぬ間際の千代鶴が吐いた、血と膿みを染み込ませたもんじゃからなぁ。


 三枚起請なんぞと言って、あの女からもらった病を私が撒いとるうちは、死ぬのは鴉だけじゃ済まんで。



 あの女から和歌も教わったが、雁の枕詞は遠つ人というそうな。


 私を待ってるのは、娑婆の男じゃなかろう。

 空の上から死人の匂いを嗅いで今か今かと待っとるあの化鳥どもじゃ。


 そう急かさんでも、あとちょっと、やらねばならんことを終えたら、すぐ逝ってやるというに。




 お前さんも、ここで翼の音が聞こえたら、気ぃつけんといけんよ。


 私は見たくても見えんが、この廓の上は妙な鳥がよう飛んでおると、客が震えておったからのう。



 何せ、その中の一羽は、鶴の頭みてえに真っ赤に血走った、ひとの目をしとるそうじゃ。

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