君に似た雨

浅雪 ささめ

君に似た雨

 僕の頬に雨が一滴。ぽつんと落ちた。


 夕べから降り続いているパチパチとした雨が、舗装されていない地面を打ち付けている。天気予報は向こう一週間雨。


 本格的に梅雨入りしたと、この前テレビでストレートヘアの人気お天気キャスターが言っていた。六月に祝日がないのも憂鬱だ。いっそのこと「梅雨休み」を作ってほしい。沖縄はもうすぐ梅雨明けするらしいから、とてもうらやましく思える。

 まあ、天候のことなど僕にはどうしようもなく仕方のないことだが、最近はずっと雨ばかりでいやになる。

 長靴を履いて雨を楽しんでいた小学生の自分は、もうどこかに忘れてきてしまったようだ。水溜まりを見るだけで嬉しい気持ちになっていたのは、消えつつある懐かしい記憶。


 学校帰りのバス停で一人。やむ気配は微塵も感じない激しい雨の中、僕はバスを待っていた。

 東京とか都会の方に行けば、バスも電車も五分に一本くらいあると聞いたことがあるが、こんな田舎に来るバスなど一時間に一本しかない。

 だから一つでも逃してしまうと、学校には遅刻するし家に帰るのも遅くなるし困ったことになる。別に帰りが遅くなったからって、親に怒られるわけでもないが、登校の時に逃すと確実に遅刻してしまうのだ。

 学生が使うのだから、もう少し本数を増やしてもいいと思うのだけれど。せめて三十分に一本とかさ。贅沢を言えば十五分に一本は欲しい。


 学校から傘を差してバス停に向かう途中、どんどん小さくなっていく、花火のようなバスのブレーキランプを見た。だからこうしてバスを待っているわけなのだが、この雨の中待つのはかなり憂鬱だ。

 幸いバス停に屋根はある。スマホをいじっていれば一時間なんてすぐだろう。丁度ソシャゲのイベントが始まった頃だ。


 しばらくベンチに腰掛けていると、僕の通う学校の制服を着た女子に、遠慮がちに声を掛けられた。リボンの色からして同学年か。だから少し見覚えがあるわけか。


「ねえ、ここいいかな?」


 耳を抜ける女子の透き通るような声。僕はどうぞと、席を一人分空ける。

 ちらっとしか顔を見ていないが、かなり端整な顔立ちだ。要するに可愛い。それも、一回見れば忘れない可愛さだ。なるほど。見たことがあるのは、廊下ですれ違ったとかだろう。


 ありがとう。そう言って彼女は僕の隣に座り、尋ねてきた。


「ねえ、次のバスいつ?」


「えーと。だいたい一時間後だね」


 僕はスマホの時計を見ながら答える。


「ええ⁉ うそでしょ。じゃあ、さっきいったばかりじゃん!」


 立ち上がりながら本当に驚いたように声を上げる彼女に、僕の方が驚いてしまって、彼女の方へと顔を向ける。

 目が合ってしまって少し気まずくなり、すぐに視線を下げる。

 と、目に入るものがあった。


 透けていたのだ。

 この大雨の中を走ってシャツが透けてしまい、下着が見えていたわけではない。いや、シャツも濡れて透けてはいるのだが、僕が言いたいのはそこではない。

 そう。いま重要なのはそこではない。


 僕の目は今、胸よりも下に向いている。と言っても、スカートが透けているわけでもない。


 足が透けているのだ。


「えっと、あの、足透けていませんか?」


 大丈夫なのか、それ。もしかして、聞いてはいけないものだったのか? 他人には言えない病気とか。秘密なんて誰にでもあるものだし。だったら謝らないとな。と構えていたのだが、


「あー、そうだよー。まあ、死んじゃったわけでもないんだけどね」


 と軽い調子で言うものだから、僕は肩透かしをくらった気分だ。透けているだけに。

 幽霊。その言葉が僕の頭の中を巡る。僕の語彙力がないからかもしれないが、それ以外の言葉は見つからなかった。彼女が女の子だったら、今のシチュエーションには興奮するものなのだろうが、生憎と僕は今混乱していてそんな余裕はない。


「その、なんだ……。さわれるのか?」


 バスの運転手が聞いたら、止まらずに走り去っていきそうな台詞が口をついて出た。

 うーん、と手を口にあてる。かわいい。


「今なら触れるのは膝より上かな」


 触ってみる? とか聞いてくる彼女に、恐る恐る手をのばす。同級生に見られたら終わるななんて思った。


 スカートと制服のちょっとの隙間。

 彼女の柔らかいおなかにふれながら、

「『今は』ってどういうこと?」


 と聞いてみた。


「こうなったのは最近なの。最初の頃は足先だけだったんだけど、段々上の方まで透けてきてるの。今じゃこんなくらい」

 そう言って彼女はスカートをたくし上げた。試しに僕が膝の下、すねあたりに手を伸ばすと、すっ、と通りぬけた。恐ろしい感覚だ。何かが腕にあたっている風でもない。しかし、透けていても足は見えているから視覚と触覚があわなくて、もどかしい感じ。背中がムズムズする。

 例えるなら、VRがしっくりくるだろうか。そこにあるけれど決して触れない。最近は触覚さえも再現するとか言われているが、そこに関して今は目をつむっておく。


「ね? 本当でしょ」


「そ、そうだね。うん」


 もう認めるしかなかった。目の前の美しい彼女は幽霊なのだ。いや、死んでいないなら幽霊ではないのか? 正確にはなんて言えばいいのか分からない。


「それ以外はいたって普通の女の子だよ」

 あまり気にしていないかのように目を細めて笑う彼女。

 この時から僕はもう彼女に惹かれ始めていたのかもしれない。


 それからバスが来るまで色々なことを話した。初めて話すわりには話しやすかった。そこが彼女の魅力だろうか。

 彼女の名前は遠野とおのなぎといった。確か前のテストで学年一位がそんな名前だった気がする。僕なんか下から数えた方が早い所に位置するから、月とすっぽんってやつだな。


「気軽に凪って呼んでね」


「うん。じゃあ僕のことも悠真ゆうまでいいよ。よろしく、凪」


「分かった。あ、ほら、バス来たよ。乗ろっか、悠真」


 ほとんどの生徒は僕が乗り逃してしまったバスで行ったようで、車内には僕と凪、あとは数人の老人が座っているだけだった。凪が二人掛けに座り、僕は傍らで手すりをつかむ。

「悠真も座ればいいのに」


 不思議そうに聞いてくる凪。あいにくと僕にはそんな男気はない。

「すぐだから大丈夫だよ」

「そっか」


 車内ではそれ以上何か話すでもなく、凪の降りるバス停の方が先だったから、またね、と言ってそこで別れた。

 また明日会えたらいいな。そんな風に思う。そんな意味を込めてのまたね。淡い期待とともにバスに揺られる。


 その日から毎日、バス停で会うと凪と話をした。ある日はバスを一本遅らせたり、またある日は学校からバス停まで一緒に帰ったりもした。ちょっと恥ずかしかったけれど、相合い傘もした。

 一日、一日だと気づきにくいが、確かに少しずつ凪の透けている部分が多くなっていく。

 今日は膝まで。凪と会えるのはあと何日だろう。

 今日は腰まで。近づく別れの予感とともに、胸に痛みが走る。

 今日はへそまで。だいたい半分か。明日はどこまで透けるのだろうか。

 今日はおなかまで。気づいた時には透けている部分のほうが多くなっていた。

 彼女と過ごした日々の記憶が走馬灯のようにめぐり、自然と瞼の裏が熱を帯びる。


 毎日「今日はここからだよ」と言って、恥ずかしげもなく服をまくり、境界線を見せてくる凪には正直戸惑った。そんな僕を見て凪は笑う。


 またある日、透けた部分から手を上げていくとどうなるのか、という僕の質問に凪は「内臓に触れるわけじゃないよ」と言った。何か固く平らなものに当たるだけだよと。実際試してみると、そこから下は体から真っ二つに切り離されたようなそんな感じだった。


「ね?」


 と笑う凪はとても愛らしかった。


 学校では別のクラスだし、廊下ですれ違っても挨拶くらいしかしなかったが、毎日バス停で、バスの中で、たわいもないことを二人で話した。

 最近聴いている音楽の話や、英語の先生への愚痴。そして最後には決まって「またね」と。

 最後にはこの「またね」も言えなくなるほど透ける日が来るのだろうか。

 段々と透けていく凪を見るのは辛かったけれど、それをごまかすようにいっぱい笑って、いっぱい会話をした。


 そしてまた数日が経ち、そんなごまかしで見て見ぬ振りもできないくらい。胸の下あたり、七割ほどが透けている日に。

 僕はたまらなくなって凪に告白をした。


「私透けてるけど、それでもいいの?」

「透けていようが僕は凪がいいんだ」

「同情ならいらないよ?」

「僕が凪といたいから。ただそれだけだよ」

「そっ、か」


 凪は驚き、怒り、呆れ、しまいには「しょうがないなあ」と言って了承してくれた。バス停には小雨が降っている。

 その日からは毎日、片方が遅い日に校門前で待ったりして。帰りは手をつないで一緒にバス停まで行くようになった。もうすぐ透けてしまうだろう凪の手を握るたび、僕はやり切れない思いで胸が痛んだ。


 僕の頭の中には『このまま最後まで透けたらどうなるか』という不安が残るばかりだった。

 凪は笑ってごまかすけれど、おそらくは消えてしまうのだろう。そう思う根拠なんて全くないけれど、そんな感じがする。

 なんで凪なのか。なんで消えるのかなんて僕は知らない。ただ一緒にいることで、お互いの不安を見て、見えないふりを続けた。


 凪と出会ってから、もう既に二ヶ月が経った。その日の凪は完全に透けてしまっていた。足の先から髪まで。文字通り透き通っている。

 もう僕は凪にふれることはできない。

 凪は「はは」と薄い涙を流しながら乾いた声を漏らす。「もう悠真と手をつなぐことは出来ないんだね」と。


 僕と凪、どっちが言ったかは分からない。


「キスしてみようか」


 僕のくちびるに一筋の雨が流れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君に似た雨 浅雪 ささめ @knife

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ