忘れられない感触

みたか

忘れられない感触

 これは五年前の話だ。

 五年といっても、僕たちには日にちの感覚がないからよく分からないが、同じ季節が巡ってきたら一年ということらしい。隣の赤ペンがそう言っていた。

 蒸し暑い季節がやって来る前の、窓の向こうの穏やかな空を今でも覚えている。


 

 僕がこの部屋にやって来たのは、窓から見える木々に蕾が生まれる頃だった。それ以来、ここの住人は何にでも僕を試した。そして僕は何でも作ってやった。

 ペラペラな紙切れや折り紙で王冠を作る時はもちろん、大きな布でマントを作ってやったこともある。通信販売をよく利用していたこの家には、段ボールがたくさんあったから、それを使って家を作った時もあった。

 僕は何でも知っていた。どんな切れ味がするか、手に取るように分かった。

 そう思っていた僕にとって、触れたこともない不思議な存在がいることは、真っ白な心の中に一点のシミができたみたいに、いつも気になって仕方がなかった。窓辺に佇んでいる、桃色の花のことだ。

 その花は、僕がこの部屋に来た時には既にそこにいた。窓辺で日の光を浴びながら微笑んでいて、僕はその姿をペン立ての中でぎゅうぎゅうに押し込められながら見ていた。

「なぁ、彼女は誰なんだ?」

 隣に押し込められていた赤ペンに尋ねる。彼の頭には埃が溜まっていて、もう随分ここから出られていないようだった。

 モノは人間に使われなければ、意義を見出だせない。赤ペンのように忘れられてしまっては、存在していてもしていなくても、同じことだと思う。

 そのうちここの住人は赤ペンの存在に気付き、色が出るかどうかを試し、カスカスになったインクを睨んでから捨ててしまうのだろう。その日まで彼は、ずっとこのペン立ての中に居続けなければならない。

 人間とは勝手な生き物だと思う。

「やめておけ。あの方はお前など相手にしない」

 僕の気持ちを勝手に解釈した赤ペンは、そう言って呆れたように目を細めた。

 目を細めた、といっても、実際に目玉があるわけではない。我々モノ同士には、そう見えるという話だ。

「まだ何も言ってないだろ」

「あの方はちょうど二年前、雪の降る日にやって来たんだ。それからずっとあそこで微笑んでいる」

 赤ペンは花を見ながら、はあ、と小さくため息を吐いた。その時、彼の顔に付いていた埃がふわっと飛んだ。

「彼女と話したことはないのか?」

「ないさ。俺はあの窓辺にすら行ったことがない」

 このペン立てからでは、僕たちの声など窓辺へは届かない。赤ペンの後ろにいた黒ボールペンも、デコボコになった鉛筆も、花のことを何も知らなかった。

 僕はペン立てに刺さっている時も、使ったまま机に放られている時も、彼女を見つめた。

 どんな声で話すのだろう。どんなことを考えているんだろう。

 これまで何でも知っているつもりだった僕は、分からないことがあるというだけで、彼女が気になってたまらなくなった。

 自分には手の届かないひとだ、と思った瞬間に、恋に落ちてしまうことがある。それを僕は彼女に出会うことで知った。実際には、それまで恋などしたことがなかったから、他にどのような恋があるのかは知らなかったけれど。

 いつの間にか、僕の頭の中は花の彼女のことでいっぱいになっていた。この部屋にあるどんなものよりも美しく、僕の心を癒してくれる存在となった。

 

 

「あの花は桃色で美しい身体をしているけど、僕はどうかな?」

 どう見える? と赤ペンに尋ねてみたことがある。すると赤ペンはグフッと笑いを堪えるようにしながら言った。

「きみはスマートという感じではないな」

「そうかな?」

「持ち手のところが黄色くてでっぷりしているし、先っちょなんか丸々としていて、スマートとは言えないよ」

 なんだ、そうだったのか。

 自分の身体はもっと、鋭く尖ってギラギラした感じなのかと思っていた。こんな僕でも彼女と話すことはできるだろうかと、少し不安になった。

 幸いにも、僕は頻繁にペン立てから出してもらうことができた。リビングだけでなく、キッチンにも、玄関にも行ったことがあったし、時々そのまま忘れられることはあっても、必ずリビングに帰ってくることができた。

 そして、このリビングの中でも、窓の傍のソファーにまで行ったことがある。あの時僕は、これまでにないほど気持ちが高まって、何度も彼女に声をかけようと試みた。

 しかし、一言も発することはできなかった。その場所からなら、きっと声は届いたはずなのに。



 その日住人は、ぶらぶらと部屋を歩きながら、チョキン、チョキンと僕を鳴らしていた。

 何か切るものを探しているのだろう、と呆れていると、住人は窓辺に近寄って行った。窓辺に飾られている彼女に目をつけたのだ。

 僕の中に、ぞわっとした嫌な予感が溢れて、身体中をびりびりと流れていく。

「おい、待ってくれ。それは駄目だ。切ってはいけないものだ。僕は、それだけは切りたくない!」

 必死に叫んだが、そんな言葉はこの住人に伝わるわけがない。ふっと身体を持ち上げられた瞬間、他の仲間たちがペン立ての中から心配そうにこちらを見ているのが見えた。

 ああ、どうして。他のものなら何だって切ってやる。それなのに、どうして彼女なんだ。

 どうすることもできずに固まっていると、彼女がこちらを向いて優しく笑った。

「いいの、気にしないで」

 これが彼女と交わした初めての言葉だった。

「私は大丈夫なの。これが私の運命だったって、そう思ってる」

 彼女が喋ると、花弁に乗せていた埃がふわふわと舞った。それはまるで雪のように美しい。埃の塊をそんなふうに思うなんて、今まで一度もなかったのに。

「嫌だ、僕はきみだけは切りたくない。ずっと見ていたんだ。日に当たって窓辺で微笑んでいるきみを。きみはずっと僕を、僕たちを見守っていてくれた。だから、」

「本当に大丈夫なの。だって私、」

 チョキン。

「もうずっと、死にながら生きていたから」

 カサ、と乾いた音が部屋に響く。その瞬間、彼女は何も話さなくなった。

 僕の中に冷たいものがざあざあと流れていった。まるで氷水に浸されたように、全身ががちがちに氷ってしまいそうだった。

「ああっ! まーくん! お花切っちゃったの!?」

「うん」

 住人の一人がやって来て、僕を持つ住人に話しかけた。

「だめだよ、そういうことしたら。でも、そうねぇ。もうずっと前にもらったプリザーブドフラワーだし、色褪せちゃってるし、捨てちゃおう」

 僕は小さい手にぶらぶらと揺さぶられながら、美しい身体がゴミ箱に捨てられるのを見ていた。

 彼女の花弁は美しい桃色だと思っていたけれど、ごろんと落ちた頭の隙間からは鮮やかな赤色が見えていた。あとになってから、僕は彼女が日向では生きられない花だったことを知った。

 彼女の頭が落ちた時の音がずっと耳に響いていて、彼女を切り落とした感覚もまだ身体中にじんじんと残っていた。

 もし僕に手足があったら、止められていただろうか。僕を扱うこの人間を、きっと殴ってでも止めただろう。しかし僕には、手も足もなく、口すらないのだから、そんなことはできるはずもなかった。

 きみがいた場所には、いつの間にか違う花が飾られていた。



 僕は何でも知っていた。この身を使って、どんなものでも分かっていたような気になっていた。でも本当は、全然知らなかったのだ。

 こんな胸の痛みなど、知りたくなかった。

 今日まで色んなものを切った。たくさん切った。けれど、きみの感触がずっとこの刃に染みついていて、消えてくれない。

 でも、それでいい。僕はきみを、できればずっと、僕がこの部屋の住人から必要とされなくなって、捨てられてしまうその日まで、覚えていたい。

 きみは記憶の中の存在となり、今ではこの部屋の住人にも忘れられてしまった。

 それでも僕は覚えている。きみを傷つける時の感触を。


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