第8話 それでも焼き肉が好き

 焼き肉について考える。


 煙がもうもうと立ち込める中、ジューっジューっと、ただただ鉄板の前に座り肉を焼いて食べる。


 時に炭火、時にガス。


 カルビ、ロース、タン、ハラミ、ホルモン。


 真っ黒な醤油ダレの時もあれば白濁したネギ塩ダレもある。ごま油に塩もいい。変化球で味噌だれも。


 白い飯を片手に野獣のごとき形相で食べるもよし。キンキンに冷えたビールやレモンサワー片手に「カーッ!」と叫びながら食べるもよし。


 飯によくって酒によい。


 それが焼き肉なのである。




 子供の頃、私の家では焼き肉は月に一度くらいでやってくるまあまあ特別な日のメニューだった。私は生意気で子供らしくない子供だったので、ハンバーグもオムライスも手巻き寿司も、大して好きではなかった。しかし焼き肉というワードだけは、私の思考を即座に支配してしまう魔法の言葉であった。


「今日、焼き肉行こうか」


 という母の台詞を聞いた途端に、心の中は行ったこともないリオデジャネイロのど真ん中にワープしてしまう。全自分が総出でサンバを踊りださんばかりだ。


 冗談はさておき。


 


 実家は商売をやっていた。日曜日は特に休みというわけではなかったが単純に週末は商売は忙しくて晩ごはんの用意が面倒だったのだろう、よく外に食べに行っていた。



 自分で家庭を持った今でもたまに行く焼き肉屋のFは、老舗という看板を掲げるに相応しい外見をしている。


 油と煙で燻され、茶色くなった外壁は恐らく昔は白かったのだろうなと容易に想像がつく。


 ショーウィンドウにはもう何年も変えていないだろう陽に焼けた食品サンプルが並んでおり、一見の客ならまず選ばないであろう見てくれの店だ。


 しかし近年、インターネットの発達でFが美味い店だと世間に知れ渡ってしまった。正直、複雑な気分になった。


 Fは土日平日に関係なく待ち人が列を成す店になってしまった。地元の人間も他県からの客も分け隔てなく受け入れるのがFのスタンスである。それ自体は素晴らしいことなのだが、やはり近所のいつも使っている店が、六本木や恵比寿の店の如く連日の超満員だと複雑である。


 店としては中規模だったFは、連日連夜の盛況の結果、慢性的な人手不足になり、人員補充の為にやむなく値上げを敢行した。


 三年くらい前まで夫婦で飲み食いしても七千円程度だった会計が最近ではゆうに一万を超える。


 無料だったものは有料になり、メニューの種類も減ってしまった。


 店が繁盛するのは大いに結構だしファンとしては心から喜びたいところだが、いきなりの爆発的な右肩上がりはよくない連鎖を生み出しかねない。


 コロナの影響もあって最近は足が遠のいてしまったが店は相変わらずの繁盛のようだ。


 愚痴はそこそこにしてFの何が美味いのか、それを説明していきたい。




 美味い焼き肉屋というには2種類ある。


 ひとつは肉が高品質な店。よくあるA5ランクや何処産などを大いに謳った店だ。テレビなどに出てくるのはこの手合いが多い。サシの入った分厚い肉を炭火でじゅうじゅうと焼く。ナントカ岩塩をちょいとつけていただけば「トロける〜」がお決まりの合言葉。


 私個人としては、これらの店を「ただ良い肉が焼ける店」だと思っている。


 私も先輩や友人などに誘われていわゆる高級肉を出す焼き肉屋に何度か足を運んだ経験がある。だが得てしてこれらの店は大きな弱点を抱えている。


 サイドメニューが美味しくないことが多いのだ。もちろん、全ての店に言えることではない。恐らく例外もあるだろう。


 しかしステータスを肉の質に全振りしてしまっている店が多いのもまた事実。やたら高い肉をパフォーマンスたっぷりに出している故にその肉を食べるタレやナムル、しめの冷麺やスープやクッパ系などが雑な味付けになってしまうのだろうか。


 考えてみてほしい。そもそも美味しさとはなにか。肉の柔らかさ?脂の甘さ?まあそれもある。だが果たして料理の味付け以上に大事なものがあるだろうか。


 Fは「良い肉の焼ける店」ではない。もちろん肉も、良質なものが出てくるがなによりもまずタレが美味い。肉が漬かっているタレも焼いてから着けるタレも。最高に美味い。程よい酸味と塩味と柔らかで奥深い甘み。あのタレだけでご飯が食えるが、あのタレの味がして肉がないなんて残酷過ぎるのでやはり肉が欲しい。


 ナムルの盛り合わせも美味い。豆もやし、ほうれん草、ゼンマイ、大根の細切りのナムルがこの店の盛り合わせだが、どれを食べても美味いし全部一緒に食べても美味い。もやしとほうれん草は言わずもがな、ゼンマイと大根もクセがなく食べ易い。シャキシャキとした歯応えに控えめな塩気。焼き肉のお供はこれくらいでいい。これだけで白米がワシワシと食べれてしまう。若い頃はカルビのニ、三枚とこのナムルで丼めし一杯ペロリだった。今は流石に難しい。


 肉の話をする。


 ここのカルビは他店の上カルビと言われている。それほどに脂のノリがいい。だが悲しいかな、最近の私では脂がキツ過ぎて少しでお腹一杯だ。代わりに頼んでいるのがハラミである。


 ここのハラミは上質そのものでほど良い噛みごたえと柔らかさがなんとも言えず、もう焼き肉屋で食べるのはハラミだけでいいかもなんて思ってしまうくらいだ。


 更に言うと、ここのハラミはタレが抜群に美味いのは当たり前なのだが「塩」もまた脳みそを焼かれてしまうくらいに美味なのだ。つまり思考停止に追い込まれるくらいということ。


 白い謎のタレ(多分塩麹ベース)に漬け込まれたハラミをごま油と塩のタレでいただく。


 ぶっ飛ぶくらい美味い。甘味と塩気の均衡のとれたギリギリのバランス。そこに絡みつくごま油の芳醇な香り。飯だ!白い飯を持ってこい!そう叫びたくなる。


 タンも美味い。しかしここでは割愛させていただく。もっと記すべきメニューがある。


 テグタンうどんだ。


 Fには三つのテグタンがある。テグタンスープ。テグタンクッパ。そしてテグタンうどんだ。私は幼少のみぎり、ここのテグタンクッパばかり食べていた。


 Fのテグタンは甘味塩気ほんのり辛味そして奥深くにあるちょっぴりの酸味。隙間のない味にただただ幸福感を感じずにはいられない。


 ホロホロになった牛肉。ゼンマイやネギ、ふわっふわのかき卵。そして、日本的なうどんとは違う、いわゆる韓国風うどん「カルグクス」タイプのもっちもち麺。元々筆舌し難いほどに美味なテグタンスープにこれ以上ないほどに絡むのだ。


 ひと口すすれば口内に全ての味覚が放り込まれ、痺れるほどの多幸感が襲ってくる。それなりに生きてきたが幸せとは一体なんなのか?と考える。多分きっとコレだろう。そんな風に思える逸品である。




 ひと通り食べ終わると、私が子供の頃から変わらない容姿の店員のおネエさんが話しかけてくる。


「お母さん元気?もう随分会ってないわ」


「もう歳ですから。焼き肉より魚になっちゃいました」


「寂しいわねえ。まあ、あたしらもそのクチだけどね」


「まだまだ。元気いっぱいじゃないすか。あと二十年は現役ですよ」


「やめてよ。そこまでいったらゾンビ」


 談笑を交わしお会計に向かう。年月の刻まれたレジカウンターにて寡黙なご主人からミントガムをもらう。子供の頃はフィリックスフーセンガムが貰えたのだが、いつからか大人としてミントガムだけしか貰えなくなった。あの当時は大人に見られたんだと喜んでいたが、今思えばなんだか少し寂しくもある。


 祖父母の代から通う焼き肉屋のF。今ではすっかり人気店で値上げもしたが、幸い味は落ちていない。


 私の次の代もまたここに来るのだろうか。



 続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お夜食からの呼び声 三文士 @mibumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ