第9話 悪心

洗面器の中に粉洗剤と湯を入れて、シャツを叩きこむ。粗方シャワーで落としたとはいえ、みるみるうちに洗面器の中が赤く染まっていくのが、パウラにとっては不快だった。風呂に入るのと一緒に服も洗うのが、二度手間にならなくて楽なので、頭からシャワーを浴びながらシャツをもみ洗いした。そのままシャワーを手に持って洗剤を流す。先ほどから苛立ちが収まらない。今日は罪悪感よりも気持ち悪さが勝った。


――こんなところじゃなく、廓で会いてえ顔だなア。


力任せにシャツを絞った。気持ちが悪い。死体の感触も思い出して吐き気がする。胃の中から冷たくせりあがってくる何かを感じてパウラは息を止めた。口元を抑える。公共の場所を汚したらいけないと必死にこらえた。頭の中がひんやりとしてくる。まずいかもしれない、立ち上がろうとしたが足に力が入らなかった。


「一度座って、吐いてしまっていいから、ここに」


声をかけているのは誰だか分からなかったが気が緩み、パウラは一息に胃の中を吐き戻した。胃液しか出てこなかった。

ふらふらしながら床に座り込む。誰だか分からないが背中をさすってくれた。顔を上げる気力もなかった。もう大丈夫、大丈夫だから、とパウラは一生懸命首を振って伝えようとしたが、その誰かはずっと近くにいてくれて、一通り様子を見ていてくれて、風呂場から出て服を着るまで付き添ってくれた。ずっと後ろにいたので顔はほとんど見えなかったけれど、今日はゆっくり休んで、という声だけ覚えている。部屋にたどり着いたパウラは布団に顔をうずめて、夕食も取らずに寝込んでしまった。


改めてシャワーを浴びて、タオルを肩にかけてルナは中庭に出た。薄い寝間着では、真夏でも夜は涼しい。こういうとき、秋の近づきを感じる。音もなく隣に立ったのはたぶんドラッヘだ。声はかけなくていい。


「昔の私に似ている」


ルナはふとそう洩らした。凡その出来事を把握していたらしいドラッヘは何も言わず目を細めた。傷つきやすく、同様に傷つけやすかったはずだった。彼女とはまだ、5歳と違わないはずなのに、どうしてこんなにすれてしまったのだろう。


「人死にを見過ぎたよ、俺たちは」


頭の中を見透かしたようにドラッヘが言うので、ルナは頷くほかなかった。

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仇に咲く、春 零度海 @zerodociel

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