第11話
「励んでいるかね、ドリーチェ女史」
「あら、貴方様が私のような下々の者を気にかけてくださるなんて、明日は雷雨にでもなりそうですわ」
「相変わらず貴嬢は辛辣だ。では私の気持ちも受け取ってはくれないのかね?」
「それは頂きますよ。お気遣い、感謝します」
ドアを閉めしっかり鍵をかけると、ドリーチェはため息をついた。渡されたトレーには湯気の立つコーヒーカップが2つ、並んでいる。彼の音楽の腕は評価しているが、それをそのまま人間性に向けられるかと言えば、瞬時にノーと答えるだろう。
「キュベリエ様、少し休憩にいたしましょう。コーヒーをどうぞ」
応接室の中央には机が据えられており、そこではキュベリエが山積みとなった書類の1つ1つに目を通している。
「ふぅ……。あぁ、ありがとうございますドリーチェさん」
書類の山を机からどかし、ドリーチェはカップをキュベリエの前に置く。そして自身は部屋の隅にある椅子に腰かけてカップに口をつけた。
「レーベさんはすごいですね。この量の書類仕事を毎年こなしていたんですから……あつっ、にがっ⁉」
ドリーチェにならってコーヒーを一口含んだキュベリエが盛大にむせた。
「だ、大丈夫ですかキュベリエ様⁉」
「げほげほ……すいませんコーヒーが気管に入ったみたいで……。それでその……もう少し砂糖とミルクを入れたコーヒーがホシインデスケド……」
「これは失礼しました! すぐに持ってこさせます! ……まったくあの人は気がきか……ないん……だか…………」
どさりと、小さく鈍い音がした。倒れこんだドリーチェの手からカップが離れ、真紅のカーペットに黒いしみが広がっていく。
「えっ……ドリーチェさんっ。大丈夫ですかドリーチェさん! 大変、すぐに人を呼んでこないと……」
「大丈夫。少し眠ってもらっただけだよ」
ドアの方に振り向いたキュベリエの視界に、2人の男の姿が映った。1人は曲がった針金を弄ぶ仮面の男――サリエリ。そしてもう1人は
「ラフカディオさん!」
「久しぶりだね。変わりなさそうで何よりだ」
「再開の感動に浸るのは構わないが、時間がないぞ。女史に盛ったのは少量の睡眠薬。10分もすれば目覚めるはずだ」
「問題ない。小生が話している間、お前さんは外の警戒を頼む」
ラフカディオの言葉にサリエリは不満げに鼻を鳴らすが、何も言わず部屋の外に出ていった。
「え、えーっとラフカディオさん、これは一体……」
いまだ状況が飲みこめていないキュベリエを後目にラフカディオは部屋を見回す。
「この書類……。お前さんはずっとこの部屋にいたのか?」
「はい。寝室は別に用意されていましたけど、寝るとき以外は1日中ここにいたと思います」
「やはり。どうやら
よくよく考えればキュベリエが1度も宿に帰っていないと言うのもおかしな話だ。いくら審査員長の役職が多忙とは言え外出が一切できないというのはあり得ない。それにキュベリエの証言を加味すれば、ノムセルト家が仕事という体を取ってキュベリエを軟禁状態に置いておきたかったのは明白である。
「この書類を見てみろ。『演奏会当日の公会堂付近での出店の許可願い』。こんな物の承認が審査員長の仕事のわけがない」
「えっそうだったんですか……。私頑張ったのに……」
思わずためいきをつきそうになるのをこらえる。
とにかく人が良く何でも信じてしまう事がキュベリエの美点だが、それは同時に邪悪なものが付け入る隙にもなる。ただそのような性格だからこそキュベリエは慕われているのだろうし、その美点はラフカディオにはないものだ。だからラフカディオはキュベリエを責める事ができないのだろう。
ぴくりとドリーチェが動いた。まだ眠っているようだが、残された時間はそう多くないらしい。
「お前さんはこのまま何も知らないふりをしておいてくれ。あくまで相手の指示に従っていればいい。それと……マダム・セーラについて知っている事を全て聞かせてくれ」
仮にマダム・セーラが想区の住人であれば、キュベリエは必ず彼女の正体を知っているはずだ。サリエリの話からノムセルト家が今回の件に深く関わっている事は知っている。しかし、それはノムセルト家以外が白であることと同義ではない。
「マダム・セーラ、ですか……。たしか彼女は――――――」
「どうだ。何か成果は得られたか?」
「あぁ。正直彼女の正体は意外だったが……」
「彼女?」
「こちらの話さ」
「……ふん。私如きには聞かせられないというわけか。まぁいい。こちらのすべきことは果たした。後は君の番だ」
それだけ言い残して、サリエリは屋敷の方に戻っていく。
「分かっている」
ラフカディオは小さく呟いた。
(この件にノムセルト家が深く関わっているのは間違いない……。ならばその中の誰かがカオステラーなのか? いや、そう決めつけるのは早計……だめだ、考えがまとまらない)
何か、何かラフカディオは見落としている。それに気づけないせいで与えられた事実から導きだされた結論に納得ができていない。
それはまるで組みかけのパズル。周辺のピースは確実にそろっているはずなのに、中心のピースが欠け落ちているために全体像が見えてこない。
(……やめだ。今は明日の演奏会の事だけを考えよう。約束を違えるわけにはいかない)
「キュベリエが囚われている……か」
「そうだ。巧妙に偽装されてはいるが、女神キュベリエは軟禁状態に置かれている。そしてそれを行っているのはノムセルト家の侍従長で間違いない」
サリエリの言う事を信用すべきかどうか、一瞬迷う。しかしサリエリに嘘をつくメリットはないはずだ。
「それを小生に話してどうしろと?」
その問いにサリエリは肩をすくめて首を振る。
「この期に及んで腹の探り合いは止めようじゃないか。この街で異変が起こっているのはすでに周知の事実。君はそれを止めに来た女神キュベリエの使者……というところだろう?」
「……お前さんは気づいていたのか。キュベリエが審査員長になるのが本来の運命ではない事に」
「もちろん。私の運命の書には今年の演奏会で不正が行われる事しか書かれていない。しかしあの女神が不正に手を染めるなど天地がひっくり返ってもあり得ない事だ。皆それに気づいているはず……。なのに誰もそれを口に出さない。それどころかこれこそが正常だという空気が街中に流れている。まるで皆、この異常を望んでいるかのようではないか! これを異変と言わずして何と言う⁉ 私は異常が異常のままでいる事を望んでいないのだよ」
サリエリの言い分は分かった。だが、この男がそれだけで動くわけがない。ラフカディオを手助けする事で得られる利。それこそが彼の狙いであるはずだ。その指摘に対し、サリエリは高笑った。
「ご名答! 私が望む物はただ1つ……モーツァルトへの制裁だ‼」
ある程度は予想できたことだが、ここまで堂々と言われると多少面食らってしまう。
「この演奏会でモーツァルトを降し最も優れた音楽家と認められること……それが情報の対価だ。くははっ……『神童』と讃えられ名声を欲しいがままにしたあのモーツァルトが無名の音楽家に負ける……。あぁ、私は早く見たい! あの澄ました顔が恥辱に歪む瞬間を! 奴に向けられた羨望の眼差しが離れていく瞬間を! 思いあがった愚者に神の鉄槌が下される刻が来たのだ‼」
「……」
狂っている。捻じれている。どうしようもなくこのサリエリは音楽家として終わっている。
確かに数多の音楽家を世に送り出した偉大なる教師、万楽の天才よりはモーツァルトへの恨み骨髄に徹する狂人といった負のイメージを強調した方が読み物としては面白くなるだろう。
だがそれを演じさせるのなら話は別だ。ストーリーテラーがただのシステムでしかない事は十二分に理解している……それでも。ラフカディオは一瞬、この不条理にわずかばかりの嫌悪感を抱いてしまった。それは、カオステラーの萌芽を摘み取るためだけに想区に訪れていた時には無かった感情であり、もしかしたらレヴォル達との邂逅で初めて生まれた感情かもしれない。
しかしシステムとしてのラフカディオは、その狂気をむしろ冷静に読み取っていた。鼻先にぶら下げるべきものは分かっていた方が扱いやすいに決まっている。
(彼はまだ使える。動機はどうであれ、この異変を察知しかつ小生と利害が一致している。刺客を送ってきた侍従長とやらをよく思っていないようだし、裏切られる心配もない……か)
「あい分かった。演奏会最終日に、必ずやモーツァルトを降して見せよう」
かくして、サリエリとラフカディオの協力関係が結ばれるに至ったのである。
「なっ……! サリエリ様が裏切ったじゃと⁉ すぐに兵を集め――」
「集めてどうする気だ? ホイッタ」
背後の暗闇から聞こえてきた声に侍従長――ホイッタは体を震わせた。
「ならぬ。サリエリにはまだ奏でてもらわねば」
「で、ですが……!」
「吾輩の演奏会は誰にも止めさせはしない。リュート弾きも今は放っておけ。あれを討つのは演奏会から外れた時……そう言ったはずだ」
「もちろんでございます! このホイッタ、主様の命に背いたことはい……1度もございません!」
向き直ったホイッタは地に頭をこすりつけんばかりの勢いで深々と頭を下げる。
「ならばいい。これでいいのだ。……全ての音は『解放聖律』のために」
はるかな未来、可能性の物語 白木錘角 @subtlemea2
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