少女と気まぐれ蛇

さかたいった

遺跡にて

 メキシコ南東部の都市カンクンの西200キロメートルほどの場所に、『チチェン・イッツァの遺跡』はある。かつて栄えたマヤ文明の名残りを色濃く残した、世界遺産だ。

 マヤ文明は今より千年以上も前に既に正確な暦を築いていた非常に高度な天文技術を有した文明であり、その歴史の様が示された由緒あるチチェン・イッツァの遺跡だが、悲しいかな、現在は入口で入場料を取られる観光地と化してしまっている。

 彼は窓口にて、日本円でおよそ2500円のチケットを購入し、ゲート前の職員に見せてチチェン・イッツァの遺跡にした。

 敷地内に入ってまず目につくのは、帽子やTシャツ、雑貨品などを並べた土産物の露店群だ。マヤの歴史の風情に触れ、かつての文明と人々の営みに思いを馳せ、レトリックな感覚と情緒に浸りたいところなのだが、実際は大勢の観光客とそれを相手にする物欲的な出店の類に気を奪われてしまうのが現実だった。

 彼が理想と現実との乖離に戸惑いながら道を歩いていると、十歳ぐらいの赤茶色の髪をした少女が彼に近寄ってきた。

「お兄さん、この辺の人?」少女が言った。

「さあ、どうかな?」彼は応える。

「なんか、慣れてない感じだね。どう? 私でよかったら遺跡の中案内するよ」

「それはありがたい」

「やった。でもかわりに……」少女は物色するように彼のいでたちを観察する。

「ああ、なるほど。大丈夫。案内してくれたら良いものをあげるよ」

「ホント?」

「きみが気に入るかはわからないけどね」

 こうして、彼は会ったばかりの名も知らぬ少女にチチェン・イッツァの遺跡のガイドを頼むことにした。


「まず、メインはこれ」

 左右に露店の並んだ道をしばらく歩いていくと、木々の途切れた開けた場所に出て、そこに巨大な建築物が鎮座していた。

「これがカスティーヨ。城塞という意味だね。他に、ククルカンのピラミッドだとか、ククルカンの神殿なんても呼ばれてるよ」

 快活に説明する少女が示す先には、階段状になったピラミッド型の建築物がある。高さは、八階建てのビルぐらいだろうか? 中央からマットが下りるように人が上り下りする階段が伸びていて、ピラミッドの頂点の部分は箱型になっており、その中に入るための入口が見える。現在はピラミッドの周りが柵に覆われていて、観光客が上ることはできないようだ。

「ククルカンって?」彼は少女に尋ねた。

「知らないの? マヤの神話に出てくる羽の生えた蛇の神様だよ。このピラミッドはそのククルカンを祀ってるんだ。ほら、あそこ」

 少女がピラミッド下部の一角を指差した。

 ピラミッドの階段の最下段、地面に接している部分の脇に、蛇の顔のような彫刻がある。

「今は顔だけだけど、春分の日と秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドに日光と影のコントラストができて、うねった蛇の胴体のように見えるの。つまり、これは暦と太陽の位置を正確に読み取って設計された、すごい建物ってわけ」

 少女は嬉々として語っている。その様子を見ている彼も楽しい気分になってきた。


「次はここ」

 続いて少女の案内でやってきたのは、石で建てられた神殿。階段があり、上部には剥き出しの祭壇がある。メインの建物の周りに無数の石柱が立っていた。

「戦士の神殿。あの真ん中にある台座で生贄が捧げられたみたい」

「生贄?」

「あの台座の上で生きたまま人の心臓をくり抜いて、それを神に捧げる神聖な儀式」

 それまで楽しそうに語っていた少女の顔が、怒ったようになった。

「向こうには球戯場があって、戦士たちがサッカーみたいなスポーツをやっていたの。そしてその試合の後、戦士が生贄になる」

「ずいぶんと物騒な文化があったんだね」

 そう彼が言うと、少女が彼を睨んできた。

「どうしたの?」彼は訊く。

 少女は彼をしばらく無言で睨んだ後、気分を害したような表情のままそっぽを向いた。


「生贄になるのは戦士だけじゃない」

 木々が生い茂る小道を進みながら、少女が言った。

「女も、子供も、たくさんの人が犠牲になった」

 林の中を進んでいくと、眼下の崖の下に濁った緑色の水を湛えた泉が見えた。

「セノーテ。聖なる泉。生贄になった人たちが、この泉に放り込まれた」

 泉はクレーターのように窪んだ部分にあり、ほぼ直角になっている崖を這い上がることは不可能に近い。一度落ちたら……というわけだ。

「どこが聖なる泉なの?」少女が彼にというより、独り言のように言った。「そこまでして、神様が何をしてくれたの?」

 それ以上とくに見るものもなかったので、二人は来た道を引き返し始めた。

「ねえお兄さん」歩きながら、唐突に少女が言った。

「なに?」

「神様って、ホントにいると思う?」

 彼は答えずに、黙って少女を見つめた。

 少女は足を止めた。俯き加減になって、枯れ葉の散らばる地面を見つめる。

「私のお父さんとお母さん。死んじゃったの。病気で。とても信心深い両親だった。それなのに……」

 少女の体は震えていた。

「神様は何もしてくれなかった!」

 少女が顔を上げ、彼の服の裾を衝動的に掴んだ。

「ねえお兄さん! はっきり言って! 私に教えて! 神様なんてどこにもいないって! 信じるだけ無駄なんだって!」

 涙を浮かべて必死に訴える少女の顔が、彼の瞳に映る。

 彼はただ少女を見つめていた。

 やがて少女がその場に崩れるようにして両手を地面についた。

 体を震わせ、しゃくり上げている。

 彼は少女の前にしゃがみ、右手を優しく彼女の肩に置いた。

 顔を上げる彼女と目が合う。

 彼女の表情が不思議なものでも見るようなものになった。


 彼が背を向けて歩き出した。少女は服の袖で涙を拭った後、彼のあとを追った。

 林を抜けて視界が開け、ククルカンのピラミッドが見えた。

 彼は真っ直ぐピラミッドに向かって歩いていく。

 少女は奇妙な感覚を覚えていた。言葉で説明のしにくい、この後何かが起こるという予感。

 彼がピラミッドの周囲に張り巡らされた柵をくぐった。

「あっ、ちょっと、中に入ったら怒られちゃうよ!」

 少女が叫ぶように言うと、彼は一度立ち止まり、振り返った。

 その顔には優しい笑みが浮かんでいる。

 彼は再びピラミッドのほうを向いて歩き出した。

 その彼の体が、眩く白い光に包まれていく。

 彼の背中から羽が生えた。

 そして、彼は飛んだ。

 それと同時に、彼の体の形状がみるみる変わっていく。

 大きく、細長い、鱗に覆われた体。

 それは空中に飛び立ち、一度大きく旋回して、こちらを向いた状態でピラミッド頂上の箱型の神殿の屋根に降り立った。

 とてつもなく巨大な、翼の生えた大蛇。圧倒的な存在感と神聖さをまとわせて、少女を見下ろしている。

 ククルカンだ!

 少女は開いた口が塞がらなかった。信じられないような光景が目の前に広がっている。

 大蛇が再び宙に舞った。

 真っ直ぐ彼女のほうに飛んでくる。

 少女は後ずさり、尻もちをついた。

 大蛇が滑空して着地し、少女の目の前に降り立つ。

 巻き起こった風が砂埃を散らし、少女の髪を揺らした。

 姿を変えた彼は大きい。象など比較にならないほどに。

 色は輝くようなエメラルドグリーンで、腹部が血のように赤い。

 体は脈動し、命の揺らめきを感じる。

 少女を覗き込む大きな黒い瞳には、人間のもののように意思を感じた。

 圧倒される。だけど、少女は不思議と恐怖を覚えなかった。

 彼の瞳は優しかった。

 彼が左右に二つずつある羽を羽ばたかせた。

 そして垂直飛びのような要領で一気に飛び上がる。

 みるみるうちに地上から離れていく。

 彼は向こう側を向いて、高く、高く、飛んでいった。

 大きな彼がビー玉みたいに小さくなったところで、彼の体が赤い閃光を放った。

 そして消えた。

 茫然とする少女。

 整理のつかない感覚と思考。

 その少女のもとに、上空から何かが降ってくる。

 それは一枚の羽根だった。エメラルドグリーンの、大きな葉っぱのような羽根。

 少女はその羽根を掴んだ。

 羽根は眩く煌めいている。

 それが彼の約束の品だった。

 少女のガイドのお礼だ。

 彼は、答えなかった。

 神様は答えなかった。少女の問いに、答えなかった。

 だけど……。

 少女は手元にある羽根を見る。

 とても美しい輝き。

 それは確実に、ここにある。

 自分の、心の中に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少女と気まぐれ蛇 さかたいった @chocoblack

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ