第5話
「あの日、フユちゃんすっごい怒られただろ。あれ以来、なんか疎遠になっちゃってなあ」
少しだけ小学六年生の頃の自分たちに戻って話したら、苦い記憶を掘り起こされた。
アキくんのおばあちゃんが救急搬送された後、私はアキくんのうちに上がり込んで、後のことをすっかり疎かにしていたのだ。
家に書置きを残すでもなければ、携帯電話すら持って行かなかった。
夜遅くに帰宅した両親は、家に私の姿がなかったものだから、それはそれは慌てたらしい。
警報発令レベルの大雪の中、時間は二十時を回ろうとしていて。置き去りの携帯電話と傘、帰宅してとりあえずつけたテレビのニュースは、雪で起きた事故と町の混乱ぶりを緊張気味に伝えていて――。
「怒られるよね、あれは」
私とアキくんは、うっかり寝入ってしまっていたのだ。
病院からはなかなか連絡が入らないし、おこたは暖かいしで、そのまま眠ってしまったらしい。夢うつつに、玄関が騒がしいなと思ったあたりで、両親がアキくんのうちに乗り込んできた。――文字通り。
「あれは本当に申し訳なかったなと」
「いや、アキくんのせいじゃないんだけどね」
近所の人に事情を聞いてやって来た両親――というか主にお母さん――は、アキくんのうちの玄関が施錠されていなかったものだから、勢いづいてしまったらしいのだ。心配のあまり呼び鈴もなしに上がり込んで、そこでのんきに眠ってるわが子を見て、感情が爆発した。
「むしろ、お母さんがなんかすごいことになって、アキくんにはごめんねって感じだったんだけど」
お母さんはぎりぎりで、アキくんに怒鳴りつけるような真似はしなかった。お父さんが割と冷静だったから、押さえ込めていたのかもしれない。でも、私がめちゃくちゃに怒られるのを見ていたら、アキくんだっていい気はしなかっただろう。
翌日に無事帰宅したおばあちゃんも、恐縮しきってうちまで謝りに来たほどだ。
「うちってなんか、評判悪いみたいだからさ。そんなとこで自分ちの子が夜まで過ごしてたら、いい気しないよな」
あっけらかんというアキくんに、私の方が心地悪くなってしまう。
「あれは、男の子の家に夜までいたってことがまずかったみたい。もうすぐ中学生になろうっていうのに、警戒心が足りないって」
お母さんは色々と思うところはあったかもしれないけれど、それはそれで嘘ではない。大袈裟だという気もするけれど、なんにせよ、連絡をしなかった私が一番悪かったという話だ。
「……あんまり話し込んでると、おばさんたちに悪いな。あのさ、俺」
アキくんがあらたまった。私は緊張しながら続きを待つ。
「引っ越すことになったんだ。高校も、遠いところに行く」
「え?」
思いがけないことを言われて、私は言葉を続けられなかった。
「伯母さんがさ、ばあちゃんのこと引き取って、一緒に暮らすっていうんだ。ばあちゃんももういい年だから、その方が良いって」
伯母さん、いたんだ。
アキくんのうちは親類と縁遠そうな気がしていたので、少なからず驚いた。
「あ、じゃあアキくんも伯母さんの家に行くんだね」
アキくんは小さく首を振った。
「ううん。俺は行かない。一人暮らしする」
「え、なんで。っていうか、一人暮らしって、高校生で?」
中学校を卒業したばかりの、正直、まだ子どもなのに。
理解を越えた話に混乱する。
「なんかさ、伯母さんち、俺のこと引き取るのは嫌みたい。ばあちゃんは伯母さんにとっては母親だから、面倒見る義理あるだろうけどさ」
「それ言ったら、アキくんだって」
「俺のことは、さ。なんか母さんが散々迷惑かけてるみたいだから」
アキくんのお母さんが、今どうしているのか私は知らない。アキくんは知っているのかどうだかわからないけれど、諦めたように彼は笑った。
「ほんとはさ、伯母さんもばあちゃんと、もっと早く一緒に暮らしたかったみたいなんだけど。ばあちゃんが、秋人と一緒じゃなきゃ嫌だ、秋人をひとりにする気かって言い続けたから。でも中学も卒業して、もうそろそろ、俺もばあちゃんと一緒じゃなくて大丈夫そうかなってなったから」
だから決めた。そうアキくんは言った。
「今住んでる家は俺一人になったら広いし、維持できないし。それに一応、ばあちゃんの傍に住んでやろうかと思ってさ。伯母さんたちも、近い方が気にかけやすいからって。だからそっちに引っ越すの」
アキ君は少しだけうつむく。
「……一緒の家に住もうって思えるほど寛容じゃあないけど、まあ、気にしてくれてはいるんだよ。少しは金銭面とかも、援助してくれるっていうしさ」
そしてぱっと顔をあげた。
本当に久しぶりに、真正面からアキくんの顔をみた。
私よりもずっと大人のような気もするし、まだまだ、私と同じで、幼い子どもの顔のような気もするのに。
アキくんは、また、一人で。
「……すごいよ、アキくんは」
いつかみたいに、もう一度、私は言う。
「そう、フユちゃんは言ってくれるかと思ってさ。今日、来たんだ」
アキくんは淡く微笑んだ。
「フユちゃん、前にも俺のことすごいって言ってくれたじゃん。一人でも頑張ってるねって。俺、あれにすごい励まされてさ。これから一人で暮らしていくってなっても、それ思い出したら頑張れそうな気がして」
胸が詰まった。
本当に、心からそう思って言った言葉だった。
私の言葉がすごいんじゃなくて、アキ君自身がすごいのだ。
だけど、私の言葉が、アキくんを支えたって言うのなら。
「頑張れるよ、アキくんなら」
私は何度だって、アキくんを励ますだろう。
瞬間。
アキくんの目から涙がこぼれた。
アキくんは慌てて顔を背けて、上を向いて、それをやり過ごそうとする。
「あー……、気にしないで」
鼻をすすって、アキくんは目をしぱしぱさせた。
「出発、いつなの」
私が話題を切り替えると、アキくんは少しかすれた声で答えた。
「明日」
「え、嘘!」
まさかそんな急な話だとは思わなかった。驚いた私に、アキくんは涙を払って笑った。
「ほんとほんと。アパートの契約の都合で、明日には入居しないとなんないの。荷物は発送済みだから、俺は電車乗っていくだけ。今残ってるのはほとんどばあちゃんの荷物だから、そっちは伯母さんたちが来てどうにかするって」
「そっかあ……」
実感を伴って押し寄せてきた寂しさに、私はわざと明るい声を出した。
「あ、ねえ。明日見送りに行くよ!」
笑顔で言った私に、アキくんはやはり笑顔で返した。
「ううん。悪いけど、明日は見送りなしにして」
「どうして?」
「なんか、泣いたの見られたら恥ずかしくなっちゃった。明日もし、もっと感極まって泣いちゃったら格好悪いもん。だからさ、今、見送って」
白い息を吐いて言うアキくんが、なんだか妙に切なかったから。
「……わかった。じゃあ、今夜、ここでお別れね。元気でね」
「フユちゃんも」
なごり雪はまだ止まなかった。
夜の闇と白い雪に閉じ込められそうだと思った、小六の冬。
あの夜から時間は着実に進み、ものごとは否応なく変化していくのだった。
翌朝の空は春の色をしていた。
雪は夜の間に止み、人が立ち入らない場所や日陰にうっすら白く残ったくらい。雪の後というよりは雨上がりのようだった。
一晩経ったら、なんだか全部夢だったような気がした。のろのろと着替えて部屋の雨戸を明ける。
癖のように、坂の下を見やった。
(……あ)
こんな偶然って、あるだろうか。
今まさに、アキくんが家を出るところだった。荷物はほとんど送ったと言っていたけれど、巨大なアウトドアリュックを背負っている。
振り返らずに、去って行く背中。
大きすぎるんじゃないかな。アキくんの背中に、その荷物は。
彼は大きくなったけど。重くないかな、つらくないかな。
アキくんの背中が見えなくなる。
私と同い年の男の子が、私の隣にいた男の子が。
私とは全く違う人生を、苦難の道を歩むのかもしれないと思うと、あまりに切なかったし。
それでも重いものを背負って一人歩きだした彼に、途方もない尊敬を覚えた。
――感極まって泣いちゃったら格好悪いもん。
昨夜のアキ君の言葉を思い出す。
本当にその通りだ。
私の頬を、涙が流れ落ちる。
一人旅立つアキくんの後ろ姿に感極まってしまって、ぽろぽろとこぼれる涙を抑えられなかった。
こんな顔をアキくんに見られたら、恥ずかしいな。
そう思いながら、私はあふれる涙をぬぐった。
雪を溶く熱 いいの すけこ @sukeko
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