第4話 初雪
「見送りには行かない」と言った私は、その日武蔵野駅のホームが遠くに見える陸橋の上にいた。
ホームでの別れなんて辛すぎるけど、旅立ちは見届けたかった。ここなら気づかれずにサヨナラできるだろう。
「いつか美冬に、おかあさんって言ってもらえる未来はこないのかな」
おばちゃんがあの日冗談めかして言ったのを思い出していた。
——違うんです、おばちゃん。私と秋人は、おばちゃんが思うような恋愛関係になったことなんか一度もないんです。
おばちゃんの言葉には曖昧に笑ってごまかした。
——ただ。
ずっと私の片思いでした。
中学生になった秋人は、私のことなんかなぜか見向きもしてくれなくなって。ずっといつも遠くから見ていただけでした。だから、今でも秋人だけはどんなに遠くにいてもわかるんです。
この間はおばちゃんにサヨナラできました。だから、今日はここから秋人にサヨナラを言いに来たんです。目の前でサヨナラは言えそうもないから。
陸橋の上から、私はおばちゃんにあの日の答えを心の中で語りかけた。
そして、ホームに立つ秋人にサヨナラを言う。泣かないつもりだったのに、泣かないですむようにこんなに離れて見送るつもりだったのに、涙がとめどなく流れてしまう。
思わず空を見上げると、真っ青な空からハラハラと雪が舞い降りて、その小さな雪たちは地面に届く前に溶けてしまう。
まるで私の熱い涙が雪を溶かしているみたいだった。
さよなら。秋人。
⌘
「本当によかったの?」
秋人にはかわいそうなことをした。なんとしても行かせてあげたかった大学も試験は受けたが勝手に諦めたみたいだ。
「いいんだよ、母さん。学校のことは気にしないで」
「それもだけど、美冬のことよ」
秋人はそれには何も答えなかった。
高校に入ってから秋人のことはよくわからない。秋人の美冬への気持ちがわからない私は、あの日美冬が遊びにきてくれたことを話していなかった。連絡先もきっと知らないだろう。どう切り出していいのか、年頃の男の子の気持ちが女の私にはわからなかったのだ。
「母さん、美冬がいる」
突然秋人が言う。
「どこに?」
「あそこ。あの向こうの橋の上に」
指を刺す方向を見ると、線路を跨ぐ遠くの橋に人が立っていたが、私にはそれが誰だかわからない。
「うそ。見えるわけないでしょ、あんな遠く」
「美冬なら、どんだけ遠くにいても俺はわかるんだよ」
秋人はそう言うと、じっと橋の方を見つめて動かなかった。
——なんだ、そうか。
「ねえ、秋人。いいこと教えようか」
つい口に出してしまった。
「何?」
視点を動かさないまま、秋人が言う。
「美冬のSNSのID、あんたいくらで買う?」
⌘
カーテンを開けると、雪が降り始めていた。今年の初雪だ。どおりでさっきから外が静かだったんだ。
「ねえ、雪が降ってる」
のそのそと夫が窓に近づいてきた。
「本当だ。どおりで寒い」
ブルっと震えて見せる。雪はかなり大粒でぼたぼたと落ち、誰の足跡もない真っ白な雪となって積もってゆく。
「昔さ、雪の降る日にあそこの木に登ったバカがいたんだよ」
私が顎で指す庭先に、相変わらずあの時のまま木が立っている。
「まるっきりアホだな」
すっとぼけた顔で苦笑いする秋人。
「コーヒー入れたけど、飲まない?」
階段の下からお義母さんの声がする。
「うれしい。すぐ行きまーす」
私はカーテンを閉めると、秋人の手を引っ張りコーヒーの香りを辿って階段を降りたのだった。
(了)
雪を溶く熱 西川笑里 @en-twin
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