恋愛小説の申し子(6/6)

 湯船に浸かり、ふぅ、と息をつく。

 今日はいつもより疲労が溜まっているが、その分実りのある一日だった。


 先ほどスマホにメッセージが届いていて、差出人はなんとみちるちゃんだった。まだ連絡先を交換していないのに何故? と驚いたが、訊けば伝を辿ってSNSのIDを突き止めたのだという(個人情報とは一体……)。


 メッセージの内容は、まず本日のお礼から。そしてその後に小説の感想が続いた。

 どうやら先輩の原稿より私の作品を優先してくれたらしい。ありがたい話だが、そのことを先輩に知られれば、みちるちゃん共々半殺しにされかねない。ゆめゆめ用心しなければ。


 文面を素直に受け取る限り、みちるちゃんはどうやら私の小説をたいそう気に入ってくれたみたいだった。思わずこちらが恐縮してしまうくらい大量の賞賛コメントを頂戴したばかりか、サイトにアップロードしている方には匿名で推薦文まで付けてくれた。お陰でPVが普段の倍以上に跳ね上がっていた。


 気を遣ってくれているのだとしても、嬉しくてたまらなかった。小説書きというのは繊細で面倒くさそうにみえて、意外と単純な生き物なのだ。


 手拭いでメガネの曇りを払い、持参した文庫本を開く。日課である入浴中の読書は最もリラックスできるひと時であるのだが、今日ばかりは集中力を欠いて文章を追うのが困難だった。2、3ページほど読み進めた辺りで観念して本を閉じる。


 もう一度深く息をついて、座りを浅くする。鼻の下まで湯船に浸かり、ぶくぶくと泡を吐く。

 部活終わりからずっとみちるちゃんから投擲された疑惑が頭の片隅に引っかかっていた。


 ――困るんだよな。ああいうことされると。


 かつての苦い記憶が甦る。

 忘れることはない、小学2年生のときの出来事だ。


 クラスに少し体型がぽっちゃりしていて他人とのコミュニケーションが苦手な男の子がいた。その子はいつもクラスメイトから馬鹿にされていて、子供心になんとなく気の毒に思った私は、たまにその子の話し相手になって気晴らしに付き合ったりしていた。するとそれを面白がって囃し立てる者が現れ、いつからか私とその子が好き合っているだとかいう根も葉もない噂が流れ始めたのだ。


 そんな噂が流布していることに関しては嫌だなぁと思いもしたが、何かしらの実害を被ることもなかったので、特段気にすることなく日常を過ごしてた。


 ところが、事件は起きた。

 それも噂の渦中にある本人の手によってだ。


 どういうわけか根も葉もないはずの噂を男の子自身が真に受けてしまったのだ。あまつさえ私の方が一方的に自分を好いているという風に曲解したらしく、ある日を境に男の子の態度が横柄なものに急変した。たとえば自分の分の給食を取りに行かせたり、宿題を写させろと言ってきたり、掃除当番を代われと要求してきたり、といった具合にだ。

 わけを尋ねると、自分のことが好きならば命令を聞いて当然だという。


 呆れた私はもう二度とその子と口を聞くまいと心に誓い、卒業まで一切の関係を絶ったのだった(オチをつけるなら、その後男の子は県内随一の偏差値を誇る私立中学に進学し、界隈では名の知れたバスケットボールプレイヤーとして活躍している。噂ではダイエットにも成功したらしく、すっかりイケメン化して女子大生の恋人までいるのだとか。どこで転換期を迎えたのだろう、もっと仲良くしていれば今頃は……なんて都合のいいことを夢想しなくもない)。


 好いた惚れたと外野に囃し立てられるのはご遠慮願いたいものだ。

 その相手が先輩であるならなおさらのこと。本人がその気になったらどうするのだ。


 そんなことされずとも、ただでさえあの人は私を一人の異性として意識しているというのに。


 私はもう一度盛大にため息を吐く。

 なにも私は、先輩から好意を持たれること自体を恐れているわけじゃない。

 そんなものは顎で突っぱねればいいだけの話だ。


 先輩は秀才だが、それ故に度し難く要領の悪い男でもある。わらじを二足、三足と同時に履きこなせるような器用さは持ち合わせていない。今は『小説』に傾倒しているが、その熱が『恋愛』という新たな分野にも注がれるようになってしまえば……どんな末路を辿ることになるかは想像に易い。


 難儀な話になるが、私は先輩のことは虫唾が走るくらい嫌悪しているが、その手によって紡がれる作品については一定の評価を置いている。だから先輩にはずっと小説とだけ向き合っていてほしいのだ。恋愛などというくだらないものにうつつを抜かすことなく、ただ作品のことだけを考えて執筆活動に専心してほしい。


 良くも悪くも先輩の存在はいまや私の道標となっている。先輩が小説を書くことを放棄した時、私は何をよすがに小説を書けばいいのか……。


 顔にパシャパシャと湯を浴びせて、苦笑する。

 いかんいかん、自分はいったい何を考えているんだ。あの先輩が他人に何か吹き込まれたところで小説家になる夢を捨てるなんてことが、万が一にもあり得るわけないじゃないか。


 もしそんなことが起こりようものなら降伏だ。大人しく先輩の好意を受け入れてやってもいいかもしれない……なんて。それこそあり得ない話だ。

 あの人から小説を取り上げたら本当にいいところなんて何一つない。正論と暴論をひたすら吐き散らかすだけのモンスターを誰が愛せようか。


 私はゆっくりと湯船に身を沈め、頭まですっぽりと浸かった。取り留めのない雑念があぶくとなって消えていく。ぶくぶく、ぶくぶく、と。

 すっかりのぼせていたが、脱衣所の鏡に映る自分の顔をみる自信がなく、出るに出られなかった。

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高飛車な先輩をギャフンと言わせたい! 西木 景 @nishiki_k

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