恋愛小説の申し子(5/6)

 そうこうしている内に、完全下校10分前を報せるチャイムが鳴った。窓の外に目を向けると、一段と色褪せた景色が広がっていた。いつの間にか校庭から漂っていた喧騒の気配も霧消している。


 みちるちゃんはカップの残りを飲み干して、居住まいを正した。


「先輩方。今日はお忙しい中、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。おかげさまで実りのある時間を過ごすことができました」


 流暢にそう謝辞を並べて、ペコリと頭を下げるみちるちゃん。

 重ね重ねしっかりした子だなぁと感心する。礼節を弁えていて、年上に対する緊張や物怖じみたいなものが良い具合に削ぎ落ちている。


「こちらこそ。後片付けはこっちでやっとくから。気を付けて帰ってね」


「はい。お心遣い感謝します」


 みちるちゃんは先輩から押し付けられた原稿をカバンに入れて立ち上がった。内心では先輩の未発表の原稿をいの一番に読むことができるみちるちゃんが羨ましくてたまらなかったが、そんな感情は尾首にも出さないようにしなくてはと心の栓を引き締める。


「あの、それで入部の件なんだけど……」


 しつこいと思われるのは承知のうえで、恐る恐る話を切り出した。

 みちるちゃんは口元に薄い笑みを浮かべて答える。


「まだ全ての部活を回り切れていないので即答はできません。でも、ここはとっても雰囲気のいい場所だなと感じました。是非前向きに検討させてください」


『雰囲気がいい』という感想は同意していいものか判断の分かれるところであったが、とりあえず良好な印象を与えられたようで安心した。私はほっと一息ついて、頬を緩ませる。


「俺の原稿を読むことだな。そうすれば今すぐにでもこの部に入りたくてうずうずしてくるに違いない」


 傲岸不遜な横槍が飛んできて、また心臓がヒヤリとする。

 せっかく悪くないムードで終わろうとしているのに、全てを台無しにするかのようなお節介は働かないでいただきたい。ていうか喋るな。


「家でゆっくり拝読させていただきます。未熟ながらなんとか感想もお伝えするようにしますので、その際はお手柔らかにお願いしますね」


 感じのいい微笑みを浮かべながら滑らかな口調で返すみちるちゃん。

 完璧な受け答えだ。私は後輩の反射神経に改めて舌を巻く。


 あの気難しい先輩もどことなく気を良くしている様子だ。

 こんな出来た後輩が入部してくれたら文芸部も安泰だな。


「あ、そうだ。最後にひとつ、訊いてみてもいいですか」


 唐突にみちるちゃんの方から切り出してきた。

 なんだろうと思い、先を促すと、やにわにみちるちゃんの表情が今までにない色めきだったものに変わった。


「栗棟先輩は東条先輩とどういった関係なんですか?」


 俄然キラキラと輝き出したその大きな瞳を見返しながら、私は「はえ?」と間の抜けた返事をする。


 みちるちゃんはちらっと先輩を一瞥して(先輩にしても予想外の質問だったのだろう、鼻の付け根に皺を寄せてフリーズしていた)、手を口元に遣って私にひそひそと耳打ちしてきた。


「こんな物置みたいな部屋で毎日一緒に過ごしているんですよね。掛け合いもすごく慣れた感じでしたし、ひょっとすると、って思ったんですが」


「んあ!?」


 みちるちゃんの言わんとしていることがようやく伝わって、思わず素っ頓狂な声が口から放出された。理知的で大人っぽいというみちるちゃんの印象が、一転して爛漫で夢見がちな乙女のそれに変わっていた。


「……ご」


 すぐには言葉が続かなかった。動揺する余り呼吸を忘れ、息切れしかけた。


「誤解だよっ。誰がこんな腐れ外道なんかと!」


「――おい」


 私は後輩の曇った目を晴らさせるべく、弁を振るった。


「いい? みちるちゃん。私たちがこんなところで時を同じくしているのはただの成り行きであって、単純に利害が一致しているからというだけのことなの。みちるちゃんが期待してるような関係じゃあ断じてないから」


「えー、でも、お二人の間にラブコメの波動を感じましたよ」


 ニヤリと口元を歪めて、からかうように言うみちるちゃん。

 今日日ラブコメの波動って……。いたいけな風貌をしていて、なかなかこの後輩も毒されたものである。いやはや、インターネット社会とは恐ろしきかな。


「いやいや、私たちの間にそんな甘々な空気は皆無だからマジで」


 ていうか、今日ずっと裏でそんなことを疑われていたのか。背筋のぞっとする話だ。一体私たちのやりとりのどこを見てラブコメの波動なんつーものを感じ取ったのか。普段と違わず、反目し合っていた記憶しかないのだが。


「もしかして、私たちがそういう関係だったら入部しづらいなあとか思ってる? ゼンッゼン、そんな心配ご無用ですから!」


「あ、いえ、そういうのはちっとも無いです」


 ちっとも無いのか。それはそれでどうなんだと問いただしたくなるな。


「私としてはむしろラブい関係であってくれた方が望ましいです。そういう人たちを間近で観察したくて、入る部活を選んでるんですから」


 度し難い思惑を暴露され、私の思考はパンッとショートした。

 完璧だったみちるちゃんのイメージががらがらと音を立てて崩れていく。


「これまでリアル、フィクションを問わず何百、何千通りもの恋愛ドラマを目にしてきました。ありきたりな恋愛話はもうたくさん。もっと歪んでいて、捻じれていて、だけど芯の部分では繋がっているような、笑いあり涙ありの恋愛活劇を私は所望します。もしお二人が恋愛関係にあるならば、そこに私が求めている物語があるはずだ、と。そんな予感がしています」


 うっとりとした表情を浮かべて熱弁を披露するみちるちゃん。

 思わず笑ってしまいたくなるほど夢想的な話だった。


「とんだ恋愛脳だな」


 あと数秒遅かったら私が言っていたことを、先輩は言ってのけた。

 みちるちゃんは特に反論する気もないらしい、口元に薄い笑みを湛えてから、ちらりと正面の壁掛け時計に視線を巡らせた。


「友達を待たせているので、お先に失礼します。今日は本当にありがとうございました」


 そう告げたが最後、みちるちゃんは颯爽と部室から去っていった。


「「…………」」


 あとに残された私たちの間に沈黙が流れる。

 横目で先輩の様子を窺うと、なんともいえないような渋面で中空の一点を睨んでいた。


 私は首を折ってため息をついた。

 まったく、あの後輩ときたら。最後にとんでもない爆弾を落としていってくれたものだ。


「あれは想像以上に厄介なじゃじゃ馬だな」


 最初に沈黙を破ったのは先輩だった。それで、なんとなく気詰まりな空気から解放される。

 その意見に同調しようと口を開きかけたが、先輩の唇の端が若干つり上がっているのを見て、咄嗟に口を噤んだ。


「? なんだ、その顔は」


 怪訝な表情となった部長からそう尋ねられ、私は「なんでもありません」と返事した。

 するとそれっきり私への関心は失せたのか、先輩は視線を明後日の方向に背けてぼそりと呟いた。


「世の中には面白い奴がいるもんだ」


 再びその口元に浮かんだ微笑を見て、私はさらに目を丸くした。

 どうやら先輩は想像以上にみちるちゃんのことが気に入ったらしい。

 先輩とはそこそこの付き合いになるが、これほど他人に興味を示しているところをみるのは初めてだった。


 恐るべし、橘みちる……。


 新入部員獲得の兆しに嬉々としていたが、彼女の加入は文芸部の日常をさらにカオスな色に染め上げるかもしれない。そんな不穏な未来が一瞬脳裏をよぎって、浮かれていた私の心に影が差した。


「しかし、あいつの話はどこまで信用に値するんだろうな」


 ふと、口外にこぼれ落ちたような先輩の呟きに、私は一拍間を置いて「え?」と反応する。


「みちるちゃんが嘘をついていると?」


「全てが虚言だったとは言うまい。だがひとつ確実に言えるのは、今日あいつは文芸部の入部希望者としてここを訪ねてきたということだ」


「? 言っていることの意味がよくわからないんですけど」


 先輩は舌打ちして、この低能が、と毒舌を炸裂させる。

 カチンとくるが我慢だ。今は口論するより先輩の発言の真意を明らかにする方が優先度は高い。


「要するに、あいつの中で文芸部に入ることは最初から決まっていたんだよ。はじめの頃、色々な部活を見て回っているなどと嘯いていたが、それこそ建前だったのかもしれん」


 数分前の記憶を辿る。

 教室の扉が開かれ、みちるちゃんが姿を現した時のことだ。私が勇足で入部希望者なのかと質問すると、彼女は恐縮そうに手刀を振って否定した。そして恐らくは姿を見せた理由として、次のように続けたのだ。


 ――ここ、何部なのかなと思って。


 振り返ればこの台詞、妙ちきりんだ。文芸部は看板も出していなければ部員募集のチラシも配っていない。それなのにどうしてここが何かしらの部室に割り当てられていると見当をつけることができたのだろうか?

 考えられる答えは一つ。最初からここが文芸部の部室だとわかっていたからだ。


「推し量るに、読書研究会の連中から文芸部の存在を知らされたのだろう。それから、両部の活動方針の違いなんかもな。そして、文芸部に足を運んだのだ。そういう経緯なら、ここを訪れた理由もなんとなく察せられる」


 読書研究会と文芸部の違い。

 ……なるほど。そういうことか。


「みちるちゃんも『書く』側の人間だったということですね」


 核心をつく私のひと言に、先輩は表情を崩すことなく頷いた。


「それもかなりの手練と見た。だから俺も途中から囲おうとしたんだ。未発表の原稿を餌にまでしてな」


 ははあ、どおりで。

 思い返せば今日の先輩の言動は一貫性がなく、不自然極まりなかった。

 自作小説の質を高めたいからといっても、出会って間もない後輩の目利きを頼りにするのはいくらなんでも節操がなさすぎる。

 あれは先輩なりの勧誘だったのだ。


「みちるちゃんはなぜ小説を書いていることを秘密にしたんでしょうか?」


 尋ねると、先輩は、さあな、と曖昧に応えて、窓の外に目を遣った。

 迫り来る夕闇が寂寞の気配を漂わせている。


「ただ、執筆は決して一般的な趣味とは言えない。少なからずカミングアウトすることに抵抗はあるだろうさ」


 私はえもいわれぬ感情を催して沈黙した。

 創作活動を公にすることを躊躇う心理はわからなくもない。私自身、小説を書いていることは家族には内緒にしているし、仲の良いクラスメイトにも進んで作品を読ませたりしたことはない。今日だってみちるちゃんを相手に作品を紹介するのを渋ったくらいだ。


 その理由は無論、恥ずかしいからだ。より具体的にいうと、他人から恥ずべきものを書いていると詰られ、嘲笑の的になることを慄いているのだ。


 でも、そんなことを恐れていては、小説は書けない。

 評価が出る前から評価に臆しているその往生際の悪さを恥だと思え。

 先輩の言うことは腹立たしいが、クリエイターの心構えとして健全な在り方だろう。


 創作活動をオープンにできる環境に身を置けることはクリエイターにとって幸せなことだと思う。

 文芸部はその大義名分を与えてくれる場所だ。


 だからもし、私たちの推理が当たっているなら、みちるちゃんには是が非でも部に入ってきてほしい。

 人生の先輩としても物書きとしても未熟な私だけれど、彼女を巣食う『孤独』を打ち倒すのに、少しは力にもなれるだろうから。


「どれ、明日にでもパソコンを一台調達してくるかな」


 先輩が言った。

 どうやらみちるちゃんが入部してくることは確定事項になっているらしい。

 餌と称して渡した恋愛小説の出来によっぽど自信があると見える。


 この人本当にクリエイターとしてお誂え向きな性格してるよな。

 私は内心で呆れと羨望の入り混じったため息をついて、ティーセットの片付けをはじめた。

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