一大事業
天正五年の武田との合戦で陣頭指揮を執った信長であったが、この年、それ以降の軍事作戦を指揮することはなかった。
織田家の版図が拡がるにつれ、四方各所の戦に信長が自ら乗り出すのは、現実的なものではなくなっていたからだ。
それ故に、信長は基本的に中央――安土に座し、各所の敵には重臣たちに任せた軍団が対処することとなったのである。
この織田の方面軍の多くは、信長の期待に応え軍功を上げていたが、分けても二人の将の活躍が目立った。
天正五年における両将の活躍ぶりを、信長公記はかくの如く記す。
『明智惟任、淡路国平定、海賊衆の調略等々、粉骨の度々の功名、名誉も比類なし』
『羽柴筑前、播磨、但馬両国平定、後代の名誉、これに過ぐるべからず』
海から光秀が、陸から藤吉郎が着々と西方への版図を拡げていく。
光秀は、瀬戸内東部の海賊衆を悉く織田の傘下に加え、来る村上水軍との決戦に備える。秀吉は二国を平定した上で、生野銀山を押さえた。
巷の風説では、織田の双璧などとも呼ばれ出し、この二人が華々しく活躍していたわけであるが……。その陰で、日の本一の貿易都市堺にて、商人たちが密談を重ねていた。
――堺
日頃、堺の会合衆が合議をする寄合所に俺はお邪魔していた。今後の天正株式組合の、そして堺商人らにとっての、大方針を擦り合わせる為だ。
一室に集った大商人らを除き、徹底的に人払いがなされ、それでも尚、顔を突き合わす様にして、低い声で囁き合う。
「では、遂に生野銀山が織田の手に落ちたと?」
俺はその問いに無言で首肯する。さざめきの様な声が部屋に広がった。
どいつもこいつも、危ういまでに目をぎらつかせている。おそらくは、俺の目も同じ光を湛えていることだろう。
「天正株式組合は、これまでとは比較にならぬ大事業を展開していくことになります」
俺は指を一本立てる。
「まず初めに、銀山の採掘事業」
皆が無言で頷く。俺は二本目の指を立てる。
「二つ目は、交易事業……我々が目指すべき本来の姿となるには、少なくとも織田様が中国、北九州――毛利、大友を下されるのを待つ必要がありますが、しかし今から準備を始めて早すぎるという事はないでしょう」
目指すべき本来の姿――そう、我らが目指すのは、瀬戸内の中だけの、国内に留まる交易ではない。もっと範囲が大きく、海上の交易全てを呑み込まんとする貪欲なるものだ。
国内外の海上交易――内の瀬戸内交易、外の南蛮貿易、日明貿易をも包括する一大交易である。
大陸から北九州の博多を経由し、関門海峡を抜けて、瀬戸内に入り、瀬戸内の大動脈を抜けて畿内の堺へと。この一連のルート、全てを呑み込もうというのだ。
その壮大さがどれ程のものか、正確に推し量れる者はいないだろう。されど、ここ堺の商人は、一端の終着点である貿易都市の商人たちである。
他の誰よりも、それが生み出す莫大な富を夢想することができた。
そう夢のような話に違いない。何せ一端である堺港を押さえているだけで、堺の商人たちは日の本一の商人としての地位を確立しているのだから。
そして、それすらも遥かに凌駕する富をこれより築こうというのだ。商人にとっての夢以外の何だというのか。
「この交易事業を成功させるためには、銀山から採掘される銀も絡んできます」
俺の言葉に、商人たちは思案気な顔付になる。……直接海外貿易をしていない堺の商人らにはピンと来ないか? と思っていると、ややあって一人が口を開く。
「以前、博多から唐(から)、南蛮へと出荷する主要な品目の一つに、銀があると聞いた覚えがあります。それと関係が?」
望む答えが引き出された。俺は頷いて見せる。
「ええ。……唐や、南蛮の商人らが何故銀を欲するか? その理由は明白です。それは、彼らの商取引における決済手段が、銀であるからです」
ほう、と何人かの商人が頷く。
そう。国内での商取引は専ら銅銭であるが、南蛮貿易などの決済手段は専ら銀である。
「つまり、我らが市場で使う銅銭を唐から大量に入れているのと同じことですな?」
「はい。そして、わざわざ仕入れねばならないということは……」
「銀が足りてない?」
ご明察、とばかりに、俺は薄っすらと笑う。
「近年、南蛮人らがやってきたことにより、日ノ本の外の交易は盛んになっております。彼らは、益々盛んにしたいことでしょう。しかし、商取引で支払う銀が足りなければ、頭打ちです。これ以上商いの規模を大きくできない」
そう、どうしたって頭打ちなのだ。
それでも尚、無理に規模を拡大すれば、行き着く先は決済手段不足(マネーサプライ不足)によるハイパーデフレである。大いに混乱する事だろう。
俺は一旦言葉を切り、一同の顔を見回す。流石は堺の商人たち。顔色から察するに話についていけてない者は一人もいないようだ。
俺は笑みを深くする。
「故に、我々が大量の銀を携え、乗り込んでやろうではないですか」
「……それは、交易の品目として銀を出荷する、というのとはまた別と見て良いですかな?」
「勿論」
大陸との貿易、そのテーブルの上に、大量の銀を上乗せするのは、あくまで貿易のプレイヤーとしてだ。いたずらに国内から銀を流出させる積りはない。
「銀の出荷だけでも大儲けはできるでしょう。極めて短絡的な商いと言わざるを得ませんがね。……あくまで我々の目的は、唐、南蛮との交易に参画することです」
「つまり?」
「我々商人にとっての力とは何ですか? それは、大量の銭(銅銭)を蓄えていることでしょう。市場で支払う銭を。なれば、唐、南蛮との交易における力とは?」
「銀を蓄えること……ですか」
「その通り」
俺は頷く。
「我々は、銀を介した商取引、物の売り買いを活発に行い、日ノ本、唐、南蛮に跨る巨大交易市場における銀の総量を増やします。さすれば、元より盛んなこれらの交易は、益々盛んになるでしょう。――そして、これらの商取引を通じ、銀を多く勝ち取ることで、我々が肥え太らせた交易市場の主導権を握るのです」
おお、とどよめきが起こる。
海外との物の売り買い。輸出入を通じて、銀を増やす。つまり貿易黒字を出して、銀を蓄える。これら貿易での力となる銀を。
現状での南蛮貿易、日明貿易では、入って来てる銀の量よりも、流出してる銀の量の方が多い事だろう。
まあ、それを担ってる連中も損をしているわけではないから、そこまで気にしていないのだろう。
銀は確かに富の象徴だが、国内では通貨として重きを置かれていないのだから。金貨、銀貨は市場で使うよりも、贈答品として扱われていることが、その証左である。
それに貿易赤字は決して悪というわけでもない。
単に、輸出よりも輸入の方が多いというだけだ。唐、南蛮から物を大量に仕入れて、それを国内でより高く売れば、商人たちは儲けているわけだから。
だが、日ノ本、唐、南蛮に跨る巨大貿易を牛耳るには、大量の銀が必要であり、その為には、何が何でも貿易黒字を出さねばならない。
「では、唐、南蛮人に何を売るかが大事ですな」
一人の商人が口を開く。
「あちらから買っている品目といえば、鉄砲、大筒そのものも仕入れますが、何より、それらに必要な火薬や、火薬の材料となる硝石でしょうな! これが大きい!」
「他にも、生糸や絹織物、陶磁器なども買っていますぞ!」
「生薬や、砂糖などもありますな。さてさて、それら買い付けを上回る売り、ですか。何を売るか、難しい課題ですぞ」
そうだな。何を売るかが重要だ。俺は口を開く。
「現状、あちらに出荷している品目は、銀が主力商品で、他だと刀や鎧、漆器、螺鈿細工などの工芸品のようですが……。銀を除いてしまえば、かなり苦しいでしょう」
ううむ、と一同は唸る。
「……やはり工芸品ではないですか? 我々も異国の焼き物や織物を珍重します。物珍しさや、希少性から高値で売れるでしょう? その手の品目を増やし、大いに売り出しては?」
「ならば、舞蘭度事業と組み合わせればよい! 一石二鳥というやつだ!」
「おお! それは良いですな!」
大商人らが口々に案を出していく。――悪くはない案だ。しかし、どこか決め手に欠ける気もする。これだ! という決め手を見つけねばならないが……うん?
一人俯き押し黙っている男がいる。顔色も冴えない。
俺は声を掛けるべく口を開く。
「如何しました、今井様? 何か心配事でも?」
「……いえね、大山さん。大局から見れば、小さな悩みなんですがね。交易事業は、大きな、大きすぎる商いだ。大きすぎる商いは失敗した時が怖い。この交易に乗っかる商人ら全体でいえば、益々栄えることでしょう。しかし個々人で見れば?」
宗久は一同の顔を見回す。
「そうですな。例えば、海難事故です。自分の出資した船が、続けざまに沈んだりすれば、店の一つや二つ、軽く吹き飛ぶほどの損害を出してしまいますよ」
「それは……」
場の空気は興奮から、不安へと変じていく。大商人らは、やや青ざめた表情でそれぞれの顔を見合う。
そんな中、宗久は俺の顔を見る、一瞬、口の端が吊り上がったのを、俺は見逃さなかった。……役者だなあ。
事前の仕込み通り、良いパスを出してもらった。俺は『ん、んん!』と咳払いする。
「皆様、ご不安は尤も。されど心配は無用です。海難事故など、予期せぬ事態に対応する為の案を用意しております。……込み入った内容になるので、書面にまとめてきました」
俺は、後ろに置いておいた風呂敷から、人数分の書面を取り出すと配っていく。
受け取った彼らは、まず表紙に書かれた文字に視線を落とす。
「……海上保険事業?」
そんな呟きを、何人かが漏らした。
※※※※
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信長と征く 転生商人の天下取り 入月英一 @azusasanngou
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