西へ
――堺 今井邸
堺の会合衆との商談を翌日に控え、俺は今井宗久の屋敷を訪れていた。
いざ事に当たる前に、情報収集を行おうというわけである。
「今井様、堺の皆様のご様子は?」
俺の為にと、手ずから茶を淹れてくれている宗久は、その優美な所作を崩すことなく口を開く。
「皆様、織田様の手腕に感心しておいででしたよ。武田との合戦後の仕置きが、これ程までに早く終わるとは、とね」
――武田信玄切腹。
確かにそこからトントン拍子に話が進んだ。戦後の仕置きは、以下の通りである。
新たに武田家当主となった勝頼は、信長に臣従。
武田家が領していたのは『甲斐国』『信濃国』『駿河国』『飛騨の一部』『西上野』であるが、この内、『駿河国』は丸ごと徳川に、『飛騨の一部』は織田領に、『信濃国』の一部を織田領に割譲、それ以外は安堵とされた。
結構なことである。
甲斐みたいな山奥はいらないし、ほぼ丸ごと安堵することを許した信濃、これもまたいらない。何せ、あの上杉との前線だ。これ以上、東に火種を作りたくない。
西上野? そんな飛び地をもらってどうしろと?
欲をかいて武田の反発を招いても仕方ない。
武田がやはり織田には降らない! と意固地になられても困る。
武田との戦を継続したとして、織田が負けることはあるまい。間違いなく、武田を滅亡まで追いつめられるだろう。
だが、それに何年かかる?
武田が死力を尽くし徹底抗戦となれば、いたずらに時間を浪費しよう。銭もかかるし、少なくない損害も出すだろう。
果たして、それに見合うメリットがあるのだろうか?
というか、いい加減、俺たちは西に注力したいんだ! 旨味の無い東に、これ以上構ってられるか!
「東でのいざこざは、これで終いと思ってよろしいのでしょうね?」
「ええ」
俺は宗久の問いに頷く。
「武田に甲斐だけでなく、信濃をほぼ一国安堵したは、かの上杉と当たらせる為です。上杉には、武田、浅井の両名で当たり、その後ろに柴田様がお控えになる。――盤石でしょう」
そう、越後の上杉には、越前の浅井と、信濃の武田で当たる。柴田は両名の働きに目を光らせる軍監だ。いざという時には、後詰にも向かう。
余程の事が起きない限り、この体制で上杉を抑え込めるだろう。
織田の本隊が駆け付けねばならぬ事態にはなるまい。
「それは結構なこと。では?」
「はい。織田様は、中断していた西進策に注力なさるでしょう」
俺の言葉に、宗久は、一度、二度頷く。
やがて、淹れ終わった茶を、俺の前に差し出す。
俺は茶碗を手に取ると、茶に口を付ける前に茶碗をじっくりと眺める。――黒焼きの茶碗だ。
「――清水焼ですか?」
「ええ。大山さんにお出しするには、この茶碗が一番相応しいと思いましてね」
俺にとって一番縁深い茶碗だからという意味か。あるいは、お前が分かる茶碗なんて、清水焼だけだろう、という意味か。……後者の気がしてならない。
顔を顰めそうになるのを我慢して、茶に口を付ける。
「……結構なお手前で。ところで、今井様」
「何でしょう?」
「堺の皆様は、織田様の迅速な仕置きに感心されていたと仰られましたが……本音は如何だったのです?」
俺が意地悪げに問い掛ける。宗久はニヤリと笑んだ。
「それはもう。武田の奇襲から始まった、一連の面倒な戦がようやく終わったかと、胸を撫で下ろしておいででしょう」
「でしょうとも」
俺たちは二人して笑い声を上げる。
本当に! 織田包囲網といい、武田との合戦といい、何度邪魔してくれれば良いのやら。
――やっと終わったか。これは、偽らざる俺たち商人の本音だろう。
ただまあ、仕置き自体が早かったのも本当だ。
正直、もう少し手こずるかと思ったのだが……。
設楽原で大勝したのに、どうして武田にほぼ二国も安堵するのか? このまま攻め滅ぼしてしまえ!
損得も分からず、織田家中の過激な武闘派連中が、そう吼え立てるのではないかと危惧していたのだが……。意外と、彼らは静かだった。
連中にとって、武田信玄の首は、よっぽど重たいものだったらしい。
理解できなくはない。由緒正しき甲斐源氏の棟梁。何より、『甲斐の虎』と呼ばれた信玄個人の武名もまた高い。
敵将とはいえ、畏敬の念を持たれていたのだろう。
これは家康も同じ。駿河一国と、信玄の首で何とか怒りを収めてくれた。
――甲斐に見舞米を送っていて正解だったな。念押しの一手が功を奏した。
あれを見た信玄は確信したのだろう。少なくとも、信長個人は、武田に厳しい仕置きをする気が無いことを。
そして、信長にその気がないのなら、後は自分の首で丸く収まると踏んだのだ。――敗れたとはいえ、武田信玄やはり傑物だったか。
俺は一度目を瞑ると、終わったことを頭の中から追い出す。
目を開け、宗久の顔を見る。
「今井様、既に織田は動いております。淡路国を獲った明智様は、淡路水軍を掌握すると共に、瀬戸内の日生衆、真鍋衆、塩飽衆といった海賊衆に調略の手を伸ばされておいでです」
「ほう」
瀬戸内の海賊衆といえば、村上水軍が最大勢力であるが、決して彼らが瀬戸内海一円を支配していたわけではない。他の海賊衆も瀬戸内海に勢力を持っているのだ。
「既に織田様配下の、九鬼水軍、淡路水軍に加え、それらの水軍も織田傘下となれば、海の道を切り拓くのも、夢物語ではありませんな、大山さん」
「はい。それにもう一つ朗報が」
俺は袖に手を突っ込むと、忍ばせていたものを取り出し、意味ありげに掲げて見せる。それは、一枚の銀貨だ。
「武田との合戦で中断していた、但馬国への侵攻も再開されました。羽柴様からは、次から次に威勢の良い報せが届いております」
「それは、それは……」
宗久は邪悪な笑みを浮かべる。舌なめずりする妖怪の様だ。童が見たら、間違いなく泣き出してしまうだろう。
――生野銀山。その大いなる魅力の前では、海千山千の商人といえども、化けの皮が剝がれてしまうらしい。
無理もない。それは、富の象徴といっても過言ではない。
銀山を手中に収めれば、莫大な富が織田家に、そしてそのお零れを預かる俺たち商人に降り注ぐだろう。
が、それだけでもない。そんな近視眼的な思惑だけで終わらせる気は、毛頭ない。
瀬戸内海を抜け、九州の博多を経由し、大陸へと商道を伸ばす。銀は、その為の重大な鍵となるだろう。
「今井様、忙しくなりますよ」
俺は手の中の銀貨を弄びながら、遥か西の海に思いを馳せた。
※※※※
これにて三章完結です!
面白かった! と思われた方は、ぜひ下の☆☆☆で評価をお願いします!
また、今月3月15日に、講談社文庫版1巻、2巻発売です!
そちらも、よろしくお願いいたします!
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