甲斐の虎 六

 ――パン、パン、パン、パンパン、パン!


「山県……」


 織田軍陣地の内側から響いてくる無数の鉄砲音に、馬場信春は戦友の末路を悟った。

 悲しみにか、あるいは黙祷の為にか、暫し瞳を伏せる。


「……お屋形様に伝令を。最早、我が軍に利非ず。総撤退なさって下されと」


 馬場は目を開けると、そう告げた。


「総撤退の進言を……されど、殿しんがりは」


 馬場は薄く笑みを刷く。


「山県に後事を託された。友の最後の頼みだ。老骨に鞭を打たねばならぬだろうよ。ああ、こんな老人に付き合い切れぬという者は、逃げ出しても構わんぞ」


 馬場が周囲の兵らを見渡しながら言う。兵らは、無言のまま馬場の目を見詰め返した。

 言葉にせずとも、その目が覚悟の程をありありと示していた。


 ハハ、と馬場は笑い声を漏らした。


「それでこそ甲州兵よ! 良いか! たとえ勝利は譲っても、日の本一の甲州兵、その名を折らせはせん! 者ども、勇敢に戦い、天晴な最期を遂げよ!」

 

 応! と兵らは叫び返す。


 敗勢にもかかわらず、馬場隊の士気は全く陰りを見せない。いや、むしろ高まってすらいた。


 程なくして、総撤退を意味する法螺貝の音が、武田の本陣から鳴り響いた。

 織田陣に向かい猛攻をかけていた武田軍が、まるで潮が引くように撤退していく。


 無論、それを見逃す織田軍ではない。

 太鼓の音と共に、陣地から飛び出すと、無防備の背中を襲わんと駆け出していく。


 しかし、引いていく潮の中、その場に留まる強者たちがいる。――馬場隊。いや、他にもいくつかの部隊が頑として動かず留まったままだ。


 馬場は、自分たちと同様に踏みとどまっている部隊を見渡す。


「何じゃ、老将一人に花を持たせる気はないということか。けち臭い奴らめ!」


 馬場は冗談めかしてそう言い放つと、押し寄せてくる織田兵を爛々とした目で見据える。『ハッ!』と、乗騎を走らせ、槍を振りかざす。


「聞け! 織田兵よ! 我こそが不死身の鬼美濃ぞ! 武名を掲げんとする若人よ! このしわ首を獲り、織田の右大将に見せいや!」


 馬場の名乗りに、織田兵の多くの目が釣られる。一級の手柄首を見つけ、彼らは馬場隊に殺到して来る。


「馬場美濃守殿! その御首みしるし、頂戴いたす!」


 我先にと駆け寄った若武者が叫ぶと、槍を繰り出す。対し、馬場もまた槍を握る手を突き出した。


 もう老齢の将である。突き出す槍の速さは、決して早いものではない。

 が、その槍はまるで吸い込まれるように敵兵の首を貫いた。


「かっか! このしわ首を獲るのを、お主ではなかったようじゃな!」


 馬場は笑う。


「お覚悟!」


 また一人の若武者が躍りかかる。


「おっと……はは! まだまだじゃのう、青二才が!」


 またもや槍の一突きで返り討ちにした。

 これが老練の術か。

 血気に逸る若武者たちの隙を衝き、馬場はいとも容易く返り討ちにしていく。


「ええい! 鉄砲手、撃て、撃て!」

 

 業を煮やした足軽大将が叫んだ。

 パンパンパンと、火縄銃が火を噴く。その内の一つが、馬場の肩を射抜いた。ぱっと鮮血が舞う。


「馬場様!」


 武田兵らの悲痛な叫びに、馬場は一喝する。


「うろたえるな! この程度、山県が受けた銃撃に比べれば、どれ程のものぞ!」


 片腕では槍は扱えぬと、馬場は槍を放り投げて、刀を引き抜いた。直後、迷うことなく乗騎を鉄砲手の下へと走らせる。


「ひっ!」「うわっ!」


 鉄砲手たちを蜂の子を散らす様に蹴散らすと、背後の部下たちを振り返る。


「続け、続け! 日の本一の甲州兵らよ! 命を惜しむな、名こそ惜しめ!」


 勇将の下に弱卒無し。

 馬場隊の者たちは、天を震わせるような雄たけびを上げると、剣槍を振るって暴れ回る。


「好きにさせるな! 囲め! 囲め! 囲んで討ち取れ!」


 足軽大将の声に、無数の織田兵が動く。それを見た馬場は不敵に笑む。


「おうおう! この老いぼれの黄泉路に付き合ってくれる者が、まだこれ程おるのか! 有難いのう! ハハ、ハハハハハ!」


 馬場の笑い声が戦場に響き渡った。



 死兵と化した馬場隊の奮戦すさまじく、織田兵に少なくない損害を与え、武田本隊が逃げる為の十分な時間を稼ぐ。

 信長公記に曰く『馬場美濃守、手前の働き比類なし』と敵将にかかわらず、激賞されるまでの最期であった。



※※※※



 設楽原での合戦から三日後、窮地から逃れた信玄たち武田軍は、甲斐への帰国の為に行軍していた。

 敗軍である。兵らの表情は陰り、俯きがちに歩いている。


 信玄は、そんな兵らの姿を見渡すと、口を開く。


「兵らに休息を与えよ」

「はっ……」


 武田軍は小休止に入る。下馬した信玄に、近習らが床几を用意し、そこに腰掛けた信玄に竹製の水筒を手渡す。


 ごくりごくりとと水を飲むと、信玄は空を見る。やがて、ポツリと呟く。


「完敗であったな……」

「お屋形様……」


 近習らの視線に、信玄は苦笑する。


「――天下人には勝てぬ。されど、ただ一度の野戦であるならば、勝ちを拾うことができる、か。驕りを捨てた積りだったが、それすらも老いぼれの過信から来る幻想であったか。……時代は変わった。老人の出る幕は最早なし。されど……」


 されど、この後をどうすべきか、と信玄は頭を悩ませる。


 最早、どんな手を尽くそうが勝ち目はない。

 ならば、降伏を、と言い出したい所ではあるが。仮にも同盟者でありながら騙し討ちを仕掛けておいて、今更降伏しますといったところで、許されるのか? という問題がある。


 許される見込みが薄いのであれば、最後の一兵が倒れるまで抗い続ける? これも如何なものか? と信玄は思った。

 これ以上無様な足掻きをするのは、どうも気が進まなかったのだ。


 ハア、と信玄はため息を零す。


「自業自得とはいえ、敗将とは惨めなものよな。打つべき手が一つも残されておらんとは。どの手を打っても悪手。なれば、どの悪手を選べばよいのやら」


 誰に聞かせるでもなく、信玄が独り言を呟いていると、不意に小休止している兵らの一部がざわつく。


「何じゃ?」


 信玄の問いに、近習の一人が、このざわめきの原因を探ろうと小走りで去って行く。


 程なくして、確認して来た近習が戻って来る。その顔には、困惑の色がありありと浮かんでいた。


「何があった?」

「それが……街道に不審な一団が」

「不審な一団?」


 信玄は、どういう意味かと首を傾げる。

 敵の追手であるなら、そう言うだろう。そもそも、設楽原で馬場隊らが、その後もいくつかの部隊が捨て石となり、武田本隊は十分な距離を稼いだ筈であった。追手であるとは考えにくい。


「その、馬借や車借の一団で。大量の米を運んでおります」

「大量の米?」


 信玄は訝し気に眉根を寄せる。暫く首を捻っていたが、ここで考えてても分からぬと、立ち上がった。自ら確認に行こうと、歩き出す。近習らが傍を固めた。


 何だ、何だ、と街道を進み来る不審な一団を見ている者たちの中には、兵卒だけでなく、武将らの姿もある。

 その中に、信玄は息子である勝頼の姿を見つけた。勝頼も信玄に気付く。


「これは、父上」

「倅よ、これは何の騒ぎじゃ?」

「いえ、某もまだ……」

「ふむ。どれ、直接確認するか」

「ち、父上!」


 信玄はもうすぐそこまで来ていた一団の前に姿を現すと問い掛ける。


「其方ら、ここで何をしておる!」


 信玄の問い掛けに、人夫の一人が答える。


「へい! あっしら、甲斐の国に米を運んでいるところでして!」

「甲斐に?」

「へい! 織田様から武田様への見舞米に御座いやす!」


 な! と信玄は驚きの表情を浮かべ、次いで大笑した。


「見舞米! 見舞米と言ったか!」


 大笑する信玄の姿に、何が何やらと狼狽した勝頼は尋ねる。


「ち、父上、どういうことですか?」

「分からんか、倅よ! 織田はな、安心して降れ、と言っておるのよ! この甲斐の虎が牙を剥いたところで、右大将はそこらの犬が吠えてるようにしか受け取らんかった様じゃ!」


 敵に塩を送る、ならぬ、米を送る。二度目のそれだ。


 信玄は言う。真実、武田を脅威に思っていれば、こんな真似を出来るわけがない、と。

 今再び米を送ることで、武田など恐るるに足らずと、言外に告げているのだと。


「しかも、この時分に、この場所まで米を運んでいるということは、米を集め送り出したのは何時の頃やら! 刃を交えるよりも、いや、織田が国元を発つよりも前か? 右大将は負けるとは露ほども思わなかったか! ハハ、ここまで虚仮にされては、いっそ清々しいというものよ!」


 大笑する信玄に、誰もが言葉もなく黙り込む。


「倅よ! 其方に、家督を譲る! 其方は右大将に臣従せよ!」

「はっ、は? 父上はどうなさるのです?」


 勝頼は目を白黒させる。


「右大将は、此度のことを笑って許してくれるかもしれんがな。許してはくれぬ者もおろう」

「そ、それは?」

「決まっておる! 三河守よ! いきなり横っ面を張られて、憤然やるかたなしじゃろう。宥める為に、駿河一国と、この老いぼれの首を呉れてやれ!」

「なっ!」


 勝頼は絶句する。信玄はまた可笑しさが込み上げて来たのか、笑い出す。


「ハハハハハ! まっこと清々しい気分じゃ! 惜敗であったならいざ知らず、ここまでの完敗であったのなら、未練も何もあったものではないからな! ハハハハハハ!」




 天正五年四月のことである。

 武田信玄、突如同盟を反故にして、三河国に侵攻した。

 信長公は、三河殿の後詰の為、すぐさま兵を挙げられ、三河国に入られた。


 五月十六日、設楽原にて武田軍と合戦となった。

 信長公の采配により、武田軍を散々に打ち負かした。


 敗走し、本国に戻った武田信玄は、介錯も付けず一人腹を十文字に切った。

 三河国に騙し討ちをしたのは大変な曲事であったが、その最期は甲斐源氏の棟梁に相応しいものであった。


 家督を継いだ武田大膳大夫は、信長公に臣従を申し出、これを許された。


 ――『信長公記』




※※※※


 これにて武田編完結です!

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