甲斐の虎 五

 ――雨を待つ。信玄の発言から翌日の夜のこと。


 天を仰ぎ見るのは、山県昌景だ。

 その視線の先には、月も星も見えない。厚くかかった雲がそれらの明かりを遮っていた。


「ここにおったか、山県」


 山県は振り返る。


「馬場美濃か」

「空を見ておったのかね?」

「うむ」


 二人揃って空を見上げる。


「月明りもない、曇天の空よ。おそらく、明日は雨じゃ」

「であろうな……」


 嵐の前の静けさか。二人は静かに闘志を燃やしていた。


「明日が決戦じゃ。雨では、織田ご自慢の鉄砲の威力も、半減しよう」


 梅雨の時期である。織田兵とて、当然雨の対策はしている。

 火縄と、火皿が濡れては撃てなくなるので、火縄に蝋を塗ったり、火皿を雨覆い等で保護したり、あるいは、単純に、鉄砲手の頭上に天幕や、屋根を設けたり、と細心の注意を払っていよう。


 しかし、その細心の注意それ自体が、晴天では不要な気配りであり、鉄砲手たちの精神的負担になる。

 また、いざ戦が始まれば、どうしたって過失で濡らしてしまう者も現れる。

 そうでなくても、黒色火薬は湿気に影響されるので、雨天では不発の確率が高くなるものだ。


 半減する、が正しいかどうかは別にして、鉄砲隊の威力が弱くなるのは厳然たる事実であった。


「織田ご自慢の鉄砲さえ封じれば、こちらのものよ。兵数差は僅か。たとえ強固な陣地内に敵兵がいようとも、我ら日の本一の甲州兵なら!」


 山県は右手で作った拳を、左手の平に打ちつける。


 過信、と断ずることは出来まい。

 甲州兵の中において尚、最精兵が集められた『赤備え』を率いる山県は、寡兵でもって陣地と言わず城を落としたことすらあった。


 それでも年長者である馬場信春は、窘めるように言う。


「敵を侮るなかれ、驕るなかれ。お屋形様の御言葉を忘れたか? 我らこそが挑むものぞ」

「……忘れてはおらんよ」


 山県は首を振る。


「確かに、織田は恐ろしい。神速の行軍もそうであるし、我らの後背を断ち、袋の鼠としようとした先の戦略。どちらも肝を冷やされた。されど、お屋形様の慧眼により、今我らは勝機を掴んでおる! なれば、明日の決戦で! 必ずや!」


 馬場は眉を顰める。


「どうしたのじゃ? 好戦的なお主にしても、今夜は度が過ぎてはおらんか?」

「…………」


 山県は暫し無言になる。


「……悔しかったのよ。お屋形様が、織田に勝てぬと仰せになられて。されど、冷静に考えれば分かること。我らがどれほど善戦すれど、最終的な勝者は織田じゃ。天下人の座は織田のものじゃ! しかし、だからこそ! ワシは、お屋形様に一勝を捧げたい! 天下人は織田なれど、戦巧者は武田であったのだ! その証明の為に!」

「山県……」

 

 山県は馬場の顔を見る。


「馬場美濃よ、ワシが今、何を一番恐れているか分かるかね?」

「いや、何かね?」

「明日の戦いが、中途半端な消耗戦に終わり、引き分けになることじゃ。……此度、武田は限界の兵力を動員した。消耗すれば、回復するまで時がかかる。が、織田は? 織田の国力なら、瞬く間に兵力を補充しよう。なれば、次はない。後は、ずるずると押し切られるだけ。惨めな敗北を喫するだろう」


 山県は俯く。拳を固く握り、体を震わせた。

 馬場は戦友の胸中を理解した。


「明日の戦い、我ら赤備えは不退転の覚悟で突撃する。我らが破れぬなら、他の部隊にも破れぬだろうからな。必ず敵陣を抜く! その気概で行くが、戦に絶対はない。……馬場美濃よ、我らがしくじった時は、後事を頼む」


 山県は頭を下げる。

 馬場美濃は目を閉じた。止めるべきか否か。悩んだ。


「……相分かった」


 悩んだ末に、そう一言答えたのだった。



※※※※



 ――五月十六日


 パンパンパン!


 雨が降る。天から降る雨と、銃弾の雨だ。


「雨で鉄砲隊の威力は落ちているはず! それでもこれか!」


 山県は歯噛みする。


 信じられない程の火力である。それもその筈、最前列の第一防衛線、その馬防柵や、土塁の陰に陣取った銃兵の数は、千を優に超えている。


 戦場経験の長い山県ではあるが、斯様なまでの規模の鉄砲隊と矛を交えたことなど一度も無かった。


 織田軍は、常識外れの火力をもって、武田の猛攻を食い止め続けていた。

 苦戦は覚悟の上。なれど、想定以上の苦戦に、山県は焦りを覚える。


「伝令! 伝令でござる!」


 一人の騎馬武者が、山県率いる赤備えの下に駆け込んで来る。


「山県殿! 某、真田家に仕える山口と申す!」

「真田殿の? 真田殿は何と?」

「山県殿の両脇を、我ら真田隊と、内藤隊で助攻いたす! 山県殿は主攻として、敵陣をお破り下され!」

「真田隊と、内藤隊が助攻を。……忝し。承知したと、伝えて下され!」

「ハッ!」


 伝令は馬首を返すと、走り去っていく。


 此度の戦のような場合、敵陣に一隊が突出して攻めても、正面は当然のことながら、斜め左右からも銃撃を集中されて、攻め手は大損害を受けてしまう。


 しかし、両脇の助攻が足並みを揃えて攻めてくれれば、少なくとも斜め左右の銃兵は、正面の敵に専念せざるを得なくなり、中央の主攻への銃撃が弱まる。


 武田最強の赤備えを前に進ませるために、真田と内藤が損害を引き受けるというのだ。

 山県は深く感謝する。同時に、絶対に敵陣を破ると、決意を新たにした。


 山県は、すーっと大きく息を吸うと、大音声を上げる。


「者どもよ! 確かに目の前にそびえる壁は高く乗り越え難し! されど、我らが! 我ら赤備えが越えねば、一体誰が越える!? 征くぞ! 武田の勝利は、諸君らの奮戦にかかっておる!」


 山県の檄に、具足を赤一色に揃えた兵たちが応える。


「応とも!」「赤備えの誇りにかけて!」「征きましょうぞ!」


 兵らの声に山県は笑う。


「よろしい! 共に征こう! 共に乗り越えよう! 武田に勝利を! いざ!」


 勇兵とは、正に彼らのことを言うのだろう。

 弾丸の雨の中、雄たけび上げて駆け出していく。その動きに合わせて、両脇の助攻もまた吶喊していく。


 パンパンパン! 銃声が鳴るごとに、一人、また一人と隣を走る戦友が倒れる。それでも足を止めない。


「前へ!」


 パンパンパン!


「前へ!」


 パンパンパン!


「前へ! 進めい!」


 山県は自らも駆けながら、声が枯れんばかりに叫ぶ。

 応える兵らが、遂に空堀を越え、馬防柵に次々に取りつくと、力任せに引き倒す。防陣に穴が開いた。


 強固な陣地に守られていた織田兵らは、陣を破り目の前まで迫った武田兵の姿に、恐怖の表情を浮かべる。


「蹴散らせ!」


 獰猛な虎が、兎の集団に飛び込んだかの如く。

 織田陣地の中で、赤備えは暴れ回る。


「ひぃ!」「た、助け……!」「尾張の弱兵どもが、思い知れ!」


 敵味方入り混じる混戦の中、山県は叫ぶ。


「雑兵どもは適当に追い散らせ! 前じゃ、もっと前へ! 織田陣のもっと奥まで! 右大将の喉笛に噛みつくのじゃ!」


 おお! と蛮声を上げながら刀槍を振るう赤備えの兵たち。

 織田兵を蹴散らし、前へ、前へ、そして織田軍、最前列の防衛線を抜く。――山県は見た。遠く前方、茶臼山に陣取る織田信長の本陣を!


 ――右大将の本陣を脅かせば、右大将は逃げ出すやもしれん!


 山県は思った。


 総大将である信長が撤退すれば、織田軍は総撤退をせざるを得ない。それは、総崩れと言わんばかりの敗走となるだろう。つまり、武田の勝利である。


 抗い難い甘美な誘惑が、山県の脳内を支配した。


 ――いける! このまま強襲すれば、他の織田方の諸将に横槍を入れられる前に、織田の旗本に襲い掛かれる! 武田の勝利じゃ!


 山県は槍の切っ先を、織田本陣に向ける。


「者ども! あれなるは、織田の旗本ぞ! 雑兵に道を塞がれる前に、強襲する! 続け! 続け!」


 山県は駆け出す。赤備えもまた気勢を上げながら駆けだした。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐと織田本陣に向かって。


 蛮勇であった。しかし、山県はそれでも勝機があると踏んだ。


 勿論、向かう信長本陣までの間にも、他の織田方の部隊が配されているし、いくつかの柵や、土塁などがある。

 しかし、織田軍は連吾川沿いに、南北二キロに渡る防御陣地を構築している為、軍団を横に長く展開していて、その厚みはさほど厚くない。

 赤備えなら乗り越えられると、山県は判断した。


 その戦術眼は決して誤ってはいなかった。――従来の戦場であったなら。



※※※※



「上様!」


 近習の言葉に、信長は頷く。彼の目にはしっかりと、本陣に向かい真っ直ぐに突き進んでくる武田赤備えの姿が見えた。


 信長はすーっと右腕を上げる。数瞬遅れて、陣太鼓の音が鳴り響いた。

 直後、赤備えが今乗り越えんとする土塁の陰から、隠れていた夥しい数の銃兵が姿を現した。


 銃兵らは一斉に、赤備えに銃口を向ける。


 何故、山県はこの伏兵に気付けなかったのか? 

 気付けるわけがなかったのだ。彼の常識に照らし合わせれば、このような事態はあり得ぬことなのだから。


 山県のこれまでの戦場では、一所に銃兵を集中させたとしても、精々数百の銃兵が関の山といったところ。

 織田軍最前列に配された、千を優に超える銃兵ですら、山県からすれば常識外れの鉄砲隊であるのだ。


 最前列にそれだけの銃兵を配し、それでも尚、それに勝る銃兵が後方に配されているなど、どうして予想できようか?



 世にいう長篠の戦いでは、鉄砲三千丁による三段撃ちなる逸話がある。

 この通説はもう古く、三段撃ちはなかった。鉄砲の数も三千丁ではなく、千丁ほどであった、などと言われている。


 しかし、源吉が織田軍のために用意した火縄銃の数は――最前列の第一陣に千五百丁、その後方、第二陣に二千丁、合わせて三千五百丁! 三千丁の逸話をも上回る数であった。


 ――天正株式組合の鉄砲事業。

 国友、根来、堺、鉄砲の主要産地を押さえ、これらを組合という一つの意思の下で、生産をさせることで、無駄なく効率的に、銃を増産する。


 もう、随分と昔に信長と約束して以来の、源吉に課された大きな課題の一つ。その答えが、ここにあった。



 銃兵らが一斉射撃を行う、その数瞬の間に、信長の脳裏にいつぞやの言葉が蘇る。


『火縄銃で、戦場の在り様を一変させる。それに足る数を手前が用立てましょう』

『――それで? 何丁用立てる、うらなり?』

『三千丁、四千丁、お望みのままに』


 パンパンパンパン! パンパンパンパンパン! パンパンパン! パンパンパン! パンパンパンパンパン!


 日の本で、誰一人として聞いたことが無かった、二千丁もの火縄銃による一斉射撃の音が鳴り響く。

 立ち込めた煙が晴れた先には、地に立つ赤備えの姿は無かった。


 信長は、その光景を見届けると、目を閉じ呟く。


「戦場は確かに一変した。いや、一変させたのじゃ。ワシとお前でな、うらなり」

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