甲斐の虎 四
信長、岡崎城に疾風の如き早さで着到!
この一報を受け取った家康は、信長との合流を優先して、吉田城を出ると岡崎城に向かった。
これを、武田は妨害することが出来なかった。信長がこんなに早く三河入りするとは予想だにせず、全く警戒が足りていなかったからだ。
無理もない。味方である徳川すら、半ば信じられない思いで岡崎城へ向かったのだから。
――岡崎城
「おお! 竹千代、遅かったの」
岡崎城入りした家康の視線の先に、まるで当たり前だと言わんばかりの自然体で信長がいた。
「右大将殿……よくぞ、よくぞこれ程まで早く……」
感激したように目を潤ませる家康に、信長は『かか!』と笑い飛ばす。
「腑抜けるなよ、竹千代。本番はこれからじゃ」
信長は家康の肩に手を置く。
「――虎狩りじゃ。虎狩りこそ正に
「はい!」
――長篠城
武田軍の本軍はここにいた。
信長が来るのはまだ先だと、長篠城の周囲に砦をいくつも築き、ある意味悠長な構えで攻城戦を行っていた。
そんな最中に、信長の岡崎城入りの凶報が舞い込む。
はじめ、誰もがそれを信じなかった。誤報か偽報の類であろうと。
しかし、続々ともたらされる続報が、信長の三河入りが真実であることを武田軍に知らしめた。
『織田右大将、岡崎城入り!』『織田、徳川軍合流!』『織田、徳川連合軍、こちらに向かい急速に進軍中!』『連合軍、設楽原に着陣!』
信じ難いまでの報告の数々だが、それらは現実であった。
――しまった! 主導権を織田に奪い取られた!
信玄は顔を顰める。
信玄自身が、この戦の肝であると言った主導権は、既に武田の手の中になかった。
予想だにせぬ神速の行軍で、信長が無理やりもぎ取ったのだった。
先手を取っていた筈の武田が、いつの間にか後手に回っている。
これでは、武田に有利な戦場で戦うも何もない。
――退くか?
信玄の脳裏に『撤退』の二文字が過る。
織田右大将を倒さねばならぬ。しかし、勝つ為の前提条件が覆された以上、この戦に拘泥するのは危険だと、信玄は思った。
退くことも勇気である。今ならばまだ、悠々と自領へと引き返す事ができる。然る後に、再び信長を打倒する為の軍を起こせばよい。
だが、これを即座に決断するには躊躇させるものがあった。
此度の戦、その序盤で武田が主導権を握れたのは、織田、徳川の意表を衝く奇襲であったからだ。
しかし、次回以降はこうも上手くいかないだろう。
それに、織田が信じ難いまでの強行軍を敢行した、という事実も信玄を誘惑した。
これ程までの強行軍である。織田軍は余程の無茶をしたのではないか?
そう考えるのは自然な事であった。
無理な行軍で織田軍は相当疲弊しているかもしれない。
あるいは、強行軍を可能とする為に、当初予想していたよりも織田軍の後詰は大軍でないのかもしれない。
あるいは、急ぎ出陣したため軍備は十分に整っていないかもしれない。
希望的観測だが、それが持つ魅力には抗いがたいものがある。
もしも本当にそうであったなら、すぐさま退却すれば千載一遇の好機をみすみす逃す事になるかもしれない。
その思いが、信玄に折衷案を採らせることになる。
「兵三千を長篠城の牽制に残し、本軍二万七千は、敵軍に向け前進! 敵軍の陣容が窺える位置に着陣する!」
ようは、敵軍の陣容を窺い、十分勝機がありそうなら戦う、なさそうなら撤退する、という決断の保留であった。
信玄の命に従い、武田軍は織田軍から二十町(約二キロ)の距離まで進むと着陣。武田軍は織田、徳川の陣営を遠目に見ながら、更に詳細な情報を求めて物見に十数名の兵らを放った。
信玄と重臣らは共に遠目に敵陣を見遣る。
「ふむ、あれが敵の陣営か? 旗の数を見るに、織田は三万ばかりか? 徳川を含めて三万数千と見るが如何?」
まず山県昌景が口を開いた。『ふむ』と頷いたのは馬場信春だ。
「多少は前後しようが、凡そその辺りであろう」
戦の経験豊富な重臣たちが、敵軍の規模を推察する。
「信じられません。三万もの大軍が、これ程まで早く救援に訪れるなど……」
そう言葉を漏らしたのは、武田勝頼だ。
「倅よ、時に戦場では、信じられぬ事が起きるものよ」
信玄が重々しく言う。やはり戦慣れした重臣らは頷いた。
「さて……どうしたものか?」
信玄が敵陣を睨み思案する。重臣らはそれぞれ己の考えを述べていく。そんな折に、物見に放っていた兵の一人が戻って来る。
「如何であった!?」
逸り、真っ先に問い掛けたのは勝頼だ。
「ハッ! 敵陣の物々しさは異様の一言です!」
「異様とな?」
「はい! 小川を天然の堀に見立て、その内側の丘陵に柵や空堀、土塁などを南北に張り巡らせ、その長大さは尋常ではありません! まるで野に築いた即席の城の如し!」
重臣らは顔を見合わせる。
「迂回は出来ぬのか?」
馬場信春が問う。物見は首を左右に振った。
「敵は両側面を山地と谷、川に託し、とても迂回攻撃は出来ません」
重臣らは厳しい顔つきになる。
「ならば、もし攻めかかるとなれば、正面突破のみということか……。城の如き陣地に正面からでは損害が増えよう……お屋形様?」
山県昌景は、信玄一人異なる顔付であることに気付く。信玄は、怪訝そうな顔付きであった。
「解せぬ。織田右大将は、何故奪い取った主導権をどぶに捨てるような真似をする?」
「どういう意味でしょう?」
重臣らのもの問いたげな視線に、信玄は答える。
「確かに城の如き強固な陣地を築くのは、攻められた時に有利に働こう。が、城は動かぬ」
あっ! と何人かが信玄の言わんとしている事に気付く。
「織田の戦術は守り一辺倒。待ちの陣形よ。この後の戦闘をどう推移させるか、その決定権をこちらに放って寄越しよった。攻めるも攻めぬも我らの思惑次第。我らが攻めねば、それだけで織田の戦術は破綻する」
「確かに……」
信玄の疑問を重臣らも共有する。
――何故? 何故じゃ? 右大将よ、そなたは愚か者ではあるまい? 一体何を企んで……そうか!
信玄はくわっと目を見開く。
「馬場美濃よ! 今すぐ手勢を引き連れ、長篠城を包囲する味方の救援に向かえ!」
「何と?」
「分からんか! 敵は別動隊による迂回攻撃で我らの後方を脅かす気じゃ!」
もしも信玄の言う通り、後方を敵軍に遮断されればどうなるか?
武田本軍は袋の鼠に成り果てる。
撤退しようと、後方を遮断する敵軍を突破しようにも、その動きを見た織田、徳川の連合軍は、陣地を出て武田を追撃するだろう。
突破に手こずれば、無防備な背中を大軍に蹂躙されかねない。そうなれば、全滅必須である。
後背を遮断された後、まごまごと行動を起こさねば、それはそれで挟撃の憂き目に遭う。
ならば、後背を遮断された場合、取りえる選択肢は、一縷の望みをかけ、強固な敵陣営の正面突破という、余りに不利な戦いに命運を託すしかない。
が、それでもやはり勝機は薄いだろう。
「右大将の狙いは、強固な陣営を警戒した我らが動かずに、じっと睨み合いの状況を生み出すこと! そしてその間に、後方を遮断し、我らを袋の鼠にする事ぞ!」
「承知しました! すぐさま後方の救援に向かいます! しからば御免!」
馬場信春は一つ頭を下げると、信玄の御前を辞する。
「間に合えば良いが……」
信玄はぼそりと呟いた。
※※※※
馬場信春は手勢一千を率い、元来た道を全力で駆け戻っていた。
日が暮れ、完全に夜の帳が下りようとも、足を止めることはない。
「急げ! 急げ! もうじき長篠城が見えて……あれは!」
馬場信春は見た。長篠城を囲むように武田が築いた付城に攻め上る無数の松明の明かりを。
彼には知る由もないことだが、それは徳川の名将酒井忠次率いる二千の兵らであった。
長篠城の牽制に置いた兵は三千。数こそ勝るが、完全に虚を突かれ、酒井の兵らに大いに押し込められていた。
が、夜の闇の中響く合戦の声が、未だ付城の武田勢が奮戦していることを知らせて来る。
「急げ! まだ間に合う! 味方を救うのじゃ!」
馬場信春の激に兵らは応え、一心不乱に駆けた。
――武田本陣
「急報! 急報!」
息を切らした伝令が武田本陣に転がり込む。
信玄らは伝令の顔を見た。
「こ、後方のお味方を敵の別働隊が強襲! されど、救援に駆け付けた馬場様が、これを見事に蹴散らしました!」
おお! と幾人もの声が漏れる。
床几に腰掛ける信玄は膝を叩いた。
「でかした!」
その顔は珍しく紅潮している。
「織田めの狙いを完全に打ち砕いた。そう取って構いませんか?」
山県昌景の言葉に、信玄は頷く。
「うむ。これで戦の主導権は我らのものぞ。攻めるも攻めぬも自由。攻めるにしても、何時攻めるかも自由じゃ」
「何時攻めるか?」
「そうとも、山県よ。我らはじっと待つことができる」
「待つ? 何をですか?」
信玄は天を仰ぐ。
「雨じゃ」
時に五月の十四日。梅雨時であった。
*
注)武田の動員兵力は、長篠の戦のそれではなく、三方ヶ原の戦いのそれです。
【重要なお知らせ】
講談社レジェンドノベルス様より出版していた『信長と征く』ですが、
この度、講談社文庫様から文庫化することになりました!
3月15日に1巻、2巻同時発売です!
後日また、詳細なお知らせ、宣伝をさせてもらいます!
よろしくお願いいたします!
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