甲斐の虎 三

 秋山虎繁が東美濃の国境を越えてから半月、のらりくらりと韜晦な態度を見せていた信玄にも変化が現れる。

 信長が派遣した使者に対し、前向きに交渉を始めるようになったのだ。


 信長陣営はこの変化に、やはり秋山の国境侵犯は武田から織田への不満の発露であると同時に、交渉の席を設けるためのハッタリであったのだと理解した。


 これに少なからず安堵した信長は、交渉事の子細を村井貞勝に任せると、自身の意識はかねてからの西進策へ切り替わった。

 折しも、京での宮中行事が重なったこともあり、信長は安土から京へと出向き、宮中行事に参加すると共に、西方を任された将兵らを激励して回った。


 この天正五年四月――武田信玄が挙兵、信濃方面から三河国への侵攻を開始したとの報が、信長の下に届けられたのだった。




 ――京 本能寺


 思わぬ大事になったな。

 そう思いながらも、焦りは感じなかった。武田は東方における最大の仮想敵だ。来るべき時が来たか、と心中は程よい緊張を保っていた。


 信玄挙兵、それを信長と同じく偶々京に来ていた俺は、いの一番にその報せを聞けた。――旗振り通信による最速の伝令である。


 正確に言えば、旗振り通信で信玄挙兵を知った信長からの呼び出しを受ける際に、知らされたわけだが。


「大山殿、ここからはお一人で」


 信長の小姓が手振りで進むべき先を示す。視線の先には、信長と何度か面会した部屋がある。

 俺は頷くと、一人示された部屋へと足を進める。


 中に入ると、ぴりぴりと肌を刺激するかのような緊迫感が満ちていた。

 上座には信長が供も付けず一人座している。その表情は硬く、額には神経質な皺が寄っている。


「来たか、うらなり。座れ」

 

 常よりやや低い声。

 信長の前に進み出て座する。頭を下げようとするのを、信長は『よい』と一言告げることで止めた。


「上様…『うらなりよ』」


 俺の言葉に、信長の言葉が重ねられる。


「正直に申せ。ワシは、信玄坊主に勝てると思うか?」


 下らぬ虚言は許さぬと、こちらを真っ直ぐに睨む眼光が告げていた。


 信長は果断な行動を見せることが多い武将だ。

 しかしそれは、彼の中で『我勝てり』と確信した時のものだ。一度確信すれば、他の者が度肝を抜くような大胆な行動力を発揮するが、その実、信長の本性が臆病なまでに慎重であることを、俺は長い付き合いで知っていた。


 ――甲斐の虎、武田信玄。日ノ本最強の武将は誰か? その問いに対し、謙信と並び真っ先に名が挙がる男だ。彼が率いる甲州兵もまた、日ノ本一の強者と名高い。


 信長はそれを風聞でしか知らない。まだ一度も武田と刃を交えたことがないのだ。

 だからこそ確信を持てないのだろう。己が勝てるかどうかを。


 信長から発せられる痛いくらいの緊迫感の中、俺は敢えて微笑んで見せる。


「上様、手前が上様と初めてお会いした日から凡そ十年もの歳月が経ちました」


 信長は目を細める。


「この十年、我々は準備を重ねて来たではないですか。天下に覇を唱える為の準備を。勝つ為の準備を。十年も」


 俺は信長の目を見詰め返す。


「以前のような包囲網ならいざ知らず、どうしてたった一人の武将相手に、上様が後れを取ることがありましょうや。――必ずや勝てます」

 

 信長は目を閉じた。


「であるか。であったな」


 信長はすっくと立ち上がる。俺を見下ろす目には、もう迷いの色はない。


「下らんことを聞いた。うらなり、貴様はワシの戦勝の報を大人しく待っておれ」

「いいえ。ただ待っている訳にもいきません」


 信長は訝し気に眉を寄せる。


「商人もまたどこまでも慎重な生き物なのです。念押しの一手を打っておきたく存じます」

「ふん。好きにせい」


 信長は快活な笑みを浮かべた。



※※※※



 ――三河国 武田陣


 信玄と重臣たちは地図を見下ろしていた。

 信玄は扇子の先で地図の一点を示す。


「先ずは長篠城を目指す」


 馬場信春は頷く。


「長篠城を落とせば、信濃から三河に侵攻する際の良い足掛かりとなるでしょう」

「いや、長篠城は落とさぬ」


 信玄はハッキリと否定する。重臣らは怪訝な表情を浮かべながら、信玄の顔を見た。


「此度の戦、我らが主導権を握っておる。握り続けるのが肝要ぞ」


 織田、徳川は思わぬ武田の侵攻に後手を打っている。主導権は確かに武田側にあった。


「長篠城を別働隊で包囲、本隊は……」


 信玄は扇子を南へと滑らせていく。


「……大野田城、仁連木城、吉田城へと突き破っていく」


 その通りに進めば、信濃から三河北部に入った武田軍が、北から南へと徳川領を縦断することとなる。

 そうなれば、徳川領は東西に分断される。家康の居城である浜松城は、その東側にあった。つまり西から来る織田との連絡線を断たれることを意味していた。


 信玄は続ける。


「徳川三河守は、孤立するわけには行かぬと、浜松城を出陣せざるを得ない。おそらく、我々が縦断する動きを見せれば、南の吉田城へと入る。まんまと誘き寄せることができるわけじゃ」

「成る程……して、徳川めを誘き寄せた後は?」


 山県昌景が問う。


「吉田城を力攻めするのは頂けぬ。織田と当たる前に兵を損耗してはいかん。三河守を戦場に誘き寄せるだけで十分。――盟友が窮地の真っただ中にあると知れば、織田右大将も後詰に出ぬわけにはいかんだろう」


 山県はニヤリと笑う。


「二段階の釣りというわけですな」


 信玄は頷く。


「主導権を握るとは、こういう事ぞ。機先を制することで、敵の取りえる手を限定する。こちらの意のままに操る。引いては、こちらに有利な時、場所で戦をすることができる」


 重臣たちは感嘆のため息を吐いた。

 そんな中、武田勝頼が口を開く。


「織田が後詰に現れるまでは如何なされますか? 吉田城の包囲を?」

「倅よ、馬鹿を申すな」


 信玄は自らの後継者に窘めるような視線を向ける。


「右大将は未だ畿内におる。我らの動きを聞いたばかりであろうか? 今から大慌てで軍兵の――我らを撃退できるだけの大軍の準備を整えて出陣。そうして、ここ三河国に救援に現れるまでに如何ほどかかると? ……どう見積もっても一か月を切ることはあるまい。それだけの期間、只待ち呆けるのは阿呆のすることじゃ」


 勝頼は恥ずかしさに顔を朱に染める。


「三河守単独では、我らと野戦をすることは出来ぬ。故に、吉田城で歯噛みする三河守の眼前で、徳川領を荒らし回ろうぞ。焼き働きに、そうじゃな、三河の入り口である長篠城もここで落としておくのも良いな。――救援に現れず、吉田城に籠り続ける三河守の求心力は落ち、各地の三河勢の士気も落ちよう」


 徳川が消耗すれば、いざ織田との決戦の際、織田、徳川連合軍の兵力を少しでも削れるだろう、そう信玄は思った。


 信玄は重臣たちの顔を見回す。


「さて、まだ疑問はあるかね? ……ないようじゃな。では、これで軍議は終いとする」


 重臣たちは揃って頭を垂れた。



※※※※



 ――三河国 吉田城



 強行軍による砂埃に汚れた戦装束のまま、家康は吉田城の大広間に入った。


「武田の動きは!?」


 吉田城の城主である男が答える。


「殿が先に吉田城に入られると見越したのでしょう。二日前に、南下を止めました」

「南下を止め、今は?」


 続く問いに、吉田城城主は体を震わせる。


「南下を止めた武田軍は、彼奴等は、焼き働きを……」

「何だと!?」


 怒りの声を上げたのは、家康の後ろに付き従う本多忠勝であった。


「殿! 俺が打って出ます! どうかお許しを!」

「ならん!」


 家康は忠勝に怒鳴り返す。


「……ならん。我らだけでは、武田を野戦で相手どれぬ。織田殿の後詰を待たねば」


 家康もまた体を震わせていた。拳が、強く、強く握り締められている。


「殿……されど、織田殿が後詰に現れるまで……」

「ひと月はかかろうな。されど、耐えねばならぬ」


 家康は目を閉じ俯いた。




 正に信玄が思い描く通りに、戦況は推移していた。そう、ここまでは。

 しかし、信長が武田との合戦を決意し、それからの行動が全てを覆すこととなる。


 旗振り通信により、信長はいち早く武田の侵攻を知り、その情報をまた旗振り通信により各地の諸将に伝達。至急の招集命令を発する。

 

 天正株式組合が各地に設けた兵糧基地には、大軍を運用するにも十分な、武器弾薬、兵糧が備蓄されていた。


 かねてより整備され直された道路は、大軍の動きをスムーズにする。何より今回役立ったのは、開通させていた摺鉢峠である。京―岐阜間の道程を約十二キロも短縮させていたことは大きい。


 ダメ押しとばかりに天正株式組合の小荷駄事業。

 行軍を最も遅くさせるのは、古来より兵站を担う小荷駄部隊である。この問題を劇的に改善させたのが小荷駄事業だった。


 正に、これまで源吉がやってきたこと全ての結実であった。

 それら全てが織田軍の行軍を加速させた。

 信玄、家康共に一か月は優にかかると予想したにもかかわらず、何と織田軍は武田挙兵の報せより、僅か十九日で三河国岡崎城に到着するという神速の行軍を行ったのだった。

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