甲斐の虎 二

 武田の不可解な行動は、信長を大いに悩ました。


 武田家家臣、秋山虎繁らの手勢が武田領から東美濃の国境を越えたかと思うと、一時は織田方の岩村城と目と鼻の先まで詰め寄った。


 いざ戦端が開かれるのか、と思いきや、秋山らの手勢は一本の矢を放つこともなく岩村城の前から後退、さりとて武田領に戻るでもなく、国境を行ったり来たりを繰り返し、要領の得ない軍事行動を取る。


 織田兵を引きずり出すための挑発、にしては、農村を襲撃するなどの焼き働きをするでもなし。何ら悪さをすることなく、ただ、ふらふらとしているのである。


 そもそも、本気で戦をする気なら、秋山らの手勢は数が少なすぎた。兵数はおよそ二千ばかり。

 無視できる兵数ではないが、織田本隊の後詰を待たなくても、柴田勝家に任された軍兵だけで対処可能な兵数だ。


 秋山らの手勢は先遣隊で、後詰が後から現れるのかと思いきや、それもない。

 ならば、東美濃に現れた部隊は陽動で、別口から武田の本隊が攻め入って来るのかといえば、一向にその気配がない。


 全くもって意図が分からない。

 ただただ、織田、武田間の関係を悪化させるだけの挑発行為だ。



 信長の性格だ。分からぬままで耐えられるはずも無し。

 信玄の真意を確かめるべく、甲斐国に此度の武田の軍事行動を非難する文を出した。


 これを待ってました、とばかりに、甲斐の信玄からの返信は信長の下に届けられたのだった。





「信玄坊主め! ふざけているのか!」


 信長の怒声に、その場にいた者の多くは首を竦める。

 しかし、ただ信長の怒声に対し、黙りこくってばかりもいられない。村井貞勝が意を決して、顔を赤く染めた信長に問い掛ける。


「武田からの返事は何と?」


 信長はじろりと貞勝を睨み据える。吐き捨てるように言い放つ。


「信玄坊主曰く『此度の秋山の行動は我が意に沿うものに非ず。織田との同盟を蔑ろにする気は毛頭なく、秋山の悪童には馬鹿な行いを止めるよう、この信玄坊主がきつく言い聞かせておくので、どうか許して欲しい』とのことじゃ!」


 信長は書状を叩きつけると、上座を右に左に、ドスンドスンと畳を踏み鳴らしながら行ったり来たりする。

 四、五往復した辺りで、ぴたりと足を止める。


「信玄の狙いは何だと思う?」


 信長は感情を押し殺し、やっとのことで、その言葉を絞り出した。


「……本当に秋山の独断ということはありますまい」

 

 貞勝の言葉に信長は頷く。


「であろうよ。なれば?」

「さて……たとえば、織田に何らかの不満を持っているとか」

「現行の同盟関係にか? それで童がするように悪さをすることで、こちらに不満を訴えかけようと?」

「あくまで、たとえばの話ですが」

「ふむ……」


 信長は顎髭を撫でる。


「その仮説が正しいならば、まともに戦をする気に見えない軍事行動にも得心がいく。……なれば、この後何某かの要求をしてくるか?」


 貞勝は頷く。


「もし、某の推測が誤りでも、織田に含むことが無ければ挑発行為などしますまい。なれば、こちらから、その不満を取り除くよう働きかけては如何でしょう? 上様の戦略方針は西進策です。東で諍いの火種を大きくすることはありません。すぐさま水をかけるべきです」


 貞勝の言葉に、信長は二度、三度頷く。


「であるか。よし! なれば、使者を派遣し、信玄坊主の本音を聞き出すべし! 使者の人選は、貞勝に任せる」

「ハッ!」



※※※※



 ――甲斐国 躑躅ヶ崎館


 館内の評定の間、武田信玄の前に数名の男たちが座する。信玄の四男勝頼、武田最強の赤備えを率いる山県昌景、不死身の鬼美濃の異名をとる馬場信春など、武田軍を代表する武将たちである。

 

 彼ら重臣は物問いたげな視線を、主君である信玄に向けている。

 露骨な態度に、信玄は微笑した。


「皆の者、ワシに聞きたいことがあると顔に書いておるぞ。そうじゃな、馬場美濃よ、代表して申せ」


 信玄は、重臣らの中でも年長である馬場信春に水を向ける。


「しからば申します。東美濃での秋山の働き、あれの真意をお聞かせ願いたく」

「真意か……さて、お主はどう思う、三郎右兵衛尉?」


 信玄は問いには答えず、今度は山県昌景に視線を向ける

 山県はやや身を乗り出すようにする。


「お屋形様におかれましては、ついに織田との戦を決意されたものと存じます。そう、天下の趨勢を賭けた」


 興奮したような山県の言葉、しかし信玄は一笑に付した。


「馬鹿な、天下の趨勢とな? お主、織田を滅ぼし、武田が天下を取れると本気で思っておるのか?」


 山県がむっとした顔付になる。


「お屋形様は、出来ぬと仰せか?」

「出来ぬ」


 信玄は断言した。


「播磨、淡路をも平定し、今や織田は十四か国を領する大大名。対し我らは、甲斐、信濃、駿河の三国に西上野、飛騨の一部を領するのみ。十四対三と少し。どちらが勝つかは、童でも分かるというもの」


 山県はまだ納得しない。


「されど、我ら甲州兵は日ノ本一のつわものです」

「……確かに兵の質では、我らが上回る。織田が相手とはいえ、局地戦の一つや二つの勝ちを拾うことは出来るじゃろう。が、最後には国力差で押し切られよう」


 はあ、と信玄は嘆息する。


「よもや、駿河を切り取る間に、織田が包囲網を打ち破るとは、誤算であった。そうでなければ、徳川と競うように今川を滅ぼした後、未だ包囲網に苦戦する織田に止めを刺せたであろうに……」


 信玄の言は正しい。

 今川を滅ぼし、さあ、と畿内に目を向ければ、盤石の織田の姿があったのだ。

 その領国は十四か国。徳川の三河、遠江、浅井の越前も加えれば、十七か国!


 しかも、源吉らの活躍により、それら国力を存分に活かした織田経済圏を生み出し、富国強兵を成している。

 その圧倒的な戦力たるや!


 如何に精強な兵たちであれ、衆寡敵せず、この理を覆すことは難しい。

 信玄はその事を重々承知していた。


「織田右大将、彼奴の戦の仕方こそが王道、正に天下人の戦じゃ。最早、天下の趨勢は決した。――日ノ本一の甲州兵? 匹夫の勇では天下人の戦には勝てぬ」


 勝てないという信玄の言葉に、身を震わせる男がいた。武田勝頼だ。


「何と弱気な! それが甲斐源氏の棟梁の御言葉か!? 日ノ本一の甲州兵を束ねる者の御言葉か!?」

「それよ」


 信玄は勝頼を指差しながら頷く。


「倅よ、問題は正にそれよ」


 信玄は繰り返すと、滔々と語り出す。


「ただ織田に臣従を申し出ればどうなる? 領地は安堵されるやもしれんが、織田どころか、徳川、浅井の風下にすら置かれるやもしれん。このワシが? 甲斐源氏の棟梁たるワシが!? 許せるものか! ――問題はまだあるぞ! 日ノ本一の甲州兵、そう自認する兵らが、戦わずして降ることを認めると思うか!?」


 信玄の突然の大声に、勝頼はたじろぐ。


「で、では?」

「一戦すべし!」


 信玄は目を据わらせながら断言した。


「織田右大将自ら率いる本軍を野戦にて打ち破る! ただ一度の野戦であるならば、たとえ後の天下人相手であろうと勝ちの目はある! そう、我らならば!」


 信玄から百戦錬磨の戦国大名、その気迫が迸る。


「その為の布石も打った! のらりくらりとしたワシの態度に、織田もすぐに戦端を開くとは思っておるまい。その意識の隙を衝く。さすれば、正面からの戦すら奇襲なり得る。もしも、兵らの集結に早い段階で気付かれようとも、更なる挑発と捉えるだろう」


 馬場信春が口を挟む。


「戦略はどのように?」

「秋山にはこのまま東美濃に張り付いてもらう。これを無視はできまい。織田武闘派の筆頭たる柴田をここに釘付けにする。その上で、我ら本軍は徳川領に攻め入る。徳川の後詰として、織田右大将を野戦に引きずり出し、これを打ち破る」


 勝頼が重ねて尋ねる。


「打ち破るは、右大将本人でなければなりませぬか?」

「無論。右大将を正面から打ち破らねば、誰も武田の武威を認めぬだろう」


 山県昌景が更に問う。


「右大将が後詰に現れなければ?」

「その時は、徳川を散々に打ち破った上で、織田領内まで攻め入る。是が非でも右大将を破らねば」


 そう、信長率いる織田の大軍を打ち破りさえすれば、甲州兵の面目も保たれよう。

 しかもその場合、為す術なく降るのではない。信長に一度勝った上で降るのだ。――『武田侮りがたし』と、信長も武田に対して下手な扱いは出来まい。織田に臣従した後の立場も強くなる。

 そのように、信玄は目論んでいるのであった。


「誰ぞ、不満はあるかね? 真正面からの戦、しかも相手は後の天下人、織田右大将信長! 不服はあるまい。兵らも、お主らにとっても喜ばしいことであろうよ」


 信玄が重臣の顔を見回す。

 山県が応えるようにニヤリと笑う。


「無論、兵も我ら将も、戦わずして降るなど善しとはしません! 華々しい戦場をお与え下されるなら、これ以上ない喜び! が、最もそれを喜んでおられるのは、兵でもなければ、我ら将でもないようですな?」


 信玄は獰猛な笑みを浮かべる。牙を剝き出しにした虎の如く。


「言うまでも無し。が、忘れるなかれ、武士もののふの矜持を持つは良いが、驕ってはならぬ」


 信玄はすっくと立ち上がる。大きく息を吸い込んだ。


「そうとも! 自らが強者であるという驕りを捨てよ! 日ノ本に武威を示す甲州兵! なれど、その我らが、我らこそが挑む者ぞ! なりふり構わず、ただひたすら織田の喉笛を狙え! 織田の脳裏に、虎の恐ろしさを焼き付けるのだ!」


 重臣たちは皆、頭を垂れる。それを確認した信玄は宣誓する。


「御旗楯無しもご照覧あれ! 我らこれより、後の天下人に挑まん!」

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