甲斐の虎 一
――淡路国
「岩屋城に続き、洲本城も陥落の由!」
「御祝着!」
「御祝着にて!」
「淡路国平定、おめでとう御座います!」
水色桔梗の旗印がたなびく明智陣に吉報が届けられ、皆が皆、淡路遠征軍の大将である光秀を言祝ぐ。
光秀は破願する。
「ありがとう。これで上様に良い報告ができる。――そして大山らにも」
光秀は目を閉じる。浜風に乗って漂う潮の匂いに、瀬戸内の海を思い描いた。
「淡路国の地勢的価値は計り知れぬ。四国攻めの足掛かりであると同時に、瀬戸内交易の重要な拠点でもある」
光秀の独白じみた言葉に、明智陣の諸将は頷く。
「筆を持て! 直ちに淡路平定の報告をしたため、上様に報告する!」
一人の老将がおっとりと言う。
「そのように逸らずとも、洲本城に入城されてからでもよろしいのでは?」
光秀は笑みを刷く。
「ならん。――『時は銭なり』じゃ。商人の受け売りだがの」
――播磨国
羽柴軍の面々は、昼夜播磨国中を駆け回った。正に木綿藤吉郎の面目躍如といったところか。
とはいえ、兵らは流石にくたびれた様子だが、その表情は明るい。
「兄上! 播磨の国人衆から、織田に臣従する旨の誓紙と共に、悉く人質を出させることに成功しました!」
「応、播磨国平定じゃな」
藤吉郎は頷く。
ドッと歓声が沸き起こる。
「よっしゃ! 走り回った甲斐があったで!」
「褒美もって帰国じゃな!」
「骨休みじゃ、骨休み! 鼠の旦那に銭をたんまり貰えば、おっかあも大満足じゃ!」
兵らの言葉に、藤吉郎は眦をきつくする。
「戯け! 気を引き締めい! まだ終わっとらん! このまま但馬国に攻め入るで!」
藤吉郎の一喝、しかし兵らは怯むどころか、各々反発の声を上げる。
「どういうことじゃ、鼠の旦那!?」
「一国平定したんじゃ、十分の戦功じゃろ!」
「俺ら駆けずり回ってへとへとじゃ! 休みもせんと、次の戦かい!」
藤吉郎の弟、小一郎は兵らを宥めつつ、兄に対して諫言する。
「兄上、兵らの言うことも尤もです。何より、上様より播磨国を平定せよ、とは命じられましたが、但馬国を平定せよ、とは命じられておりません。勝手に攻め入る独断は危険ではないでしょうか?」
藤吉郎は羽虫を払うように手を振る。
「そんなもん、上様に文の一つでも送ればええだけよ。――『今の分にてさしたる働きもなし。直ちに但馬国にてあい働く次第』とでもな。それだけで察して下さるじゃろ」
「それは、どういう……」
「分からんか? 小一郎、それにお前らもよーく聞け! 播磨国平定なんぞ、但馬平定の戦功に比べりゃ、おまけのようなもんじゃ! 銀山よ! 但馬国には銀山があるで! これを取ったなら、上様からどれ程の褒賞が出るか、想像できるか!」
兵らは騒めき出す。
「……鼠の旦那、一体、どれ程の褒賞が出るんじゃ?」
藤吉郎は迷わず答える。
「知らん!」
途端に兵から『知らんのか!』とヤジが飛ぶが、藤吉郎はにんまりと笑う。
「知らん、知らんが! これまで貰った褒賞とは、比べもんにならん褒賞が出るで! それは間違いない! 無論、お前らにも十分な分け前を呉れてやるわい!」
兵らはお互いの顔を見合う。そして頷き合った。
「しゃあない、付き合ったる!」
「鼠の旦那、褒美を忘れんなよ!」
「いざ、銀山取りじゃ!」
――安土城
俺は上座の信長の顔を窺う。――よく見るまでもない。ご機嫌はよろしいようだ。恐らくは、手元にある文が理由だろう。
もの問いたげな俺の視線に気付いた信長は口を開く。
「金柑と禿げ鼠からの文じゃ。――淡路、播磨両国平定。禿げ鼠に至っては、このまま但馬国に攻め入ると豪語しておる。相変わらず、銭の匂いには敏感な奴よ」
そう言って、満足げな笑みを浮かべた。
成る程、ご機嫌なわけだ。
それに、俺が呼び出された理由にも合点がいった。
瀬戸内交易、銀山経営、この二大事業に関して、俺ら商人たちと話を詰めたいのだろう。
望むところだ。
これ程までに魅力のある話を厭う商人なぞいる訳も無し。
「上様、瀬戸内交易と但馬の銀山、これらについて手前の…『上様! 上様! 急報です!』」
ドタドタドタと廊下を走る音共に響いた声に、俺の言が遮られる。
信長は、その騒々しさに眉間に皺を寄せた。
「何事じゃ!」
信長の一喝とほぼ同時に、襖が開かれ、信長の近習が部屋に飛び込んでくる。体を投げ出す様に平伏すると、そのまま声を上げる。
「東美濃の柴田殿より急報です! 武田の軍兵が信濃との国境を越えて来たとの由!」
「何じゃと!?」
信長の怒声が響く。
武田の侵攻だと? 織田包囲網が敷かれていた時ならいざ知らず、このタイミングで何故?
「大軍なのか?」
「いえ、それが、武田の一家臣が率いる手勢のようで。大軍ではなさそうです。柴田殿も、これ以上の後詰がなければ、柴田殿の軍勢だけで迎え撃てる規模であると。――柴田殿の懸念はむしろ、積極的に迎え撃って良いのかどうかと気にするものです」
一家臣のみの手勢? 分からないな。
信玄の意志によらない家臣の暴走か? あるいは陽動? 東美濃に現れた部隊は囮で、本隊は別にあるのか?
また勝家の懸念も尤もだ。
曲がりなりにも、織田と武田は同盟関係にある。
徳川や浅井のように強固なものではなく、形だけのものでいつ吹き飛んでもおかしくないような同盟関係ではあるが。
それでも、勝家が独断で戦端を開くのは躊躇せざるを得ない。向こうが越境するだけに留まらず、攻撃して来ればまた話は別だろうが。
信長の顔を見る。信長もまた、悩まし気な表情を浮かべていた。
「信玄坊主め、何を考えておる……」
信長は難しい顔のまま、そう呟いた。
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