すりガラスの向こうの幽霊
深見萩緒
すりガラスの向こうの幽霊
玄関を抜けて真っ直ぐ突き当り、古ぼけた引き戸。あのすりガラスの向こうには、姉の幽霊がいる。陰気臭く背中を丸め、ゆらゆら揺れた後でふっと消えてしまう幽霊。一年半の間、私はそこへ到達するたった五メートルの廊下を渡れずにいた。
けれど今日、私はあの引き戸を開ける。
姉が失踪したのは、彼女が受験した難関国立大学の合格発表の日だった。てっきり落ちていたのかと思ったら、しっかり受かっていたらしい。それで、母は余計に怒り狂った。
狂ったというか、母はずっと狂っていた。彼女には「予定通りの人生」があり、姉の人生をシナリオ通りにしようと躍起になっていた。姉はよくやっていたと思う。失踪するまでは。
きっと姉は、何もかもが嫌になったんだと思う。今なら私も、姉の気持ちがよく分かる。姉がいなくなって、母のシナリオの演者は私になったから。
お姉ちゃんがいなくなったから、私が苦しむ羽目になっている。お姉ちゃんは私を置いて一人だけ逃げたんだ。
姉への恨み言は尽きなかったから、彼女が死んだと聞いてもなんとも思わなかった。嘘。少しだけ、可哀想な人だったなと思った。
一緒に逃げた彼氏に殺されたんだとか、自殺したんだとか色んな話を聞いたけど、詳しいことは分からなかった。「そんなこと、今さら気にする必要なんてないでしょ」と、母が全ての情報をシャットアウトした。私も、失踪した姉のことなんてわざわざ調べようとは思わなかったし。
玄関を抜けて真っ直ぐ突き当り。そこは私たち姉妹の部屋だった。母の実家へ引っ越すため、古いアパートを引き払った日……私は玄関から、その部屋を振り返った。そして、一瞬だけ呼吸が止まった。
そこには、姉の幽霊がいた。
すりガラスに映る影。陰気臭く背中を丸め、机に向かっている――勉強している。半生を勉強に費やし、母の期待に応えることに費やし、そして死んでいった姉。影はゆらゆら揺れて、ふっと消えた。私は何も見なかったふりをして、その場を去った。
「大学行くんちゃ、あのアパートに住みゃ良か。あん部屋まだ空いとるち、大家さん言うとったばい」
このごろ耳が遠くなって、声が大きくなった婆ちゃんが言う。
「嫌だよ。あそこ、幽霊出るし」
私の返事は、きっと婆ちゃんには届かなかった。
実はあのアパートには、何度か帰っていた。
昔の家が懐かしくなったんだと言ったら、顔なじみの大家さんは快く鍵を貸してくれた。「次の借り手がつくまでは、ね」といたずらっぽく笑った五十のおばちゃん。ぼろアパートに借り手なんてそうそうつかないから、つまり鍵は私のものということだ。
玄関を抜けて真っ直ぐ突き当り、古ぼけた引き戸。あのすりガラスの向こうには、姉の幽霊がいる。陰気臭く背中を丸め、ゆらゆら揺れた後でふっと消えてしまう幽霊。
私は何度も、姉の幽霊に会いに行った。私の足は玄関から動かず、姉の幽霊は引き戸の向こうで儚く消える。
成績をなじる母の絶叫も、髪を掴んで引きずり回す母の鬼の形相も、この玄関に突っ立ってさえいれば、全て引き戸の向こうに吸い込まれていく。嫌なことは全部、私でなく姉に向けられたものになってくれる。
だから姉が――生きた姉が私の前に現れたとき、私はこれまでの人生で経験したことがないほど混乱した。
姉は記憶にあるほど猫背ではなく、記憶にあるほど陰気臭くもなく、髪の毛は明るい茶色になっていた。
「死んだってことにすれば、あの人も諦めるでしょ」
母のことを「あの人」と言う姉は、少し屈折した視線を私に向けた。
「私のこと、恨んでる?」
言葉が出なかった。まさかアパートにあなたの幽霊が出て、私は嫌なこと全部その幽霊に押し付けてます、なんて言えない。黙っていたのに、姉は何かを察したようだった。「別に、良いけど」と前置きをして、
「ずっとそこに居るつもり?」
ため息と共に、姉は言った。
姉が買ってくれたナントカフラペチーノは、すっかり溶けて脂っこいクリームになってしまっていた。
玄関を抜けて真っ直ぐ突き当り、古ぼけた引き戸。あのすりガラスの向こうには、姉の幽霊がいる。
……違う。姉の幽霊なんかじゃない。姉は生きていた。だったら、あそこにいるのは一体何なんだろう。
今日、私はあの引き戸を開ける。玄関に立ち尽くしたまま、ずっと渡れずにいた五メートルの隔たりを渡り切る。手には果物ナイフ。深呼吸をした。
引き戸はあっさりと開いた。幽霊はまだそこにいた。不安げな表情で私を見る幽霊は、私の顔をしていた。
分かりきっていたことだ。机に向かって勉強ばかりしているのも、母の絶叫と暴力を受け止めるのも、今は全部、私なんだから。
姉は逃げた。この六畳の地獄から逃げた。私を置いて逃げた。だけど――最初に逃げていたのは私だ。姉が泣き、苦しみ、絶望している間に、私が考えていたことはただひとつ。
私じゃなくてよかった。
「あんたは弱虫よ」
幽霊の私にナイフを向けると、彼女は怯えた様子で立ち上がった。ナイフを突きつけたまま近付くと、幽霊は後ずさりをしようとしてつまづき、尻もちをついた。
「戦えないなら逃げればいいのに、逃げる勇気もないから、逃げたお姉ちゃんを責めるの。弱虫」
果物ナイフを逆手に持って、脅すように振り上げた。幽霊の私が小さな声で「助けて、お姉ちゃん」と言った瞬間、私の中の何かが弾けた。
「誰かに助けてもらおうなんて、思うな!」
怒鳴りながら、ナイフを振り下ろす。幽霊の私の胴体に、顔面に。
「しっかりしろよ、あんたの人生でしょ! いつまでも閉じこもって、助けて助けてで何とかなると思うなよ!」
ナイフは幽霊をすり抜けて、色あせた畳に細長い
狂ったように幽霊を突き刺しながら、なんとなく、姉に奢ってもらったフラペチーノの味を思い出していた。ぬるくて甘ったるくて、美味しくなかった。姉は何を飲んでいたっけ。私は何を考えていたっけ。そういえば、お姉ちゃんは一言も、私を責めなかったな。
気が付けば、幽霊は跡形もなく消えていた。汗ばんだ
果物ナイフを畳の上に放り投げて、背後の玄関を振り返った。「ずっとそこに居るつもり?」と、姉の声がする。
「五メートル進んだよ、お姉ちゃん」
私の独り言は舞う埃に混じって、薄闇に吸い込まれていった。
姉に会おうと思った。会って、まずは謝ろう。そして、もっと色んなことを話そう。幽霊の話もしよう。
全てが急に良くなるなんてことはないし、依然として母は恐ろしい。だけど、きっと玄関からの五メートル分くらいは、前に進める。
すりガラスの向こうに閉じこもったまま、ただ身の不幸を嘆くだけの幽霊は、もうどこにもいないのだから。
すりガラスの向こうの幽霊 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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