1-⑦
これは夢だ。
そう認識できたのは、死んだはずの
肩につく長さの髪。眉を整えただけの顔面。味もそっけもないブレザー。手にはぬいぐるみポーチ付きのスマホと、二つに折られたA3サイズの紙。
紙が模試の結果だと認識した途端、背景に雑居ビルの踊り場が構築される。中学生のころに私と菜々子が通っていた学習塾に続く階段が、菜々子の背後にあった。
菜々子は眉根を寄せて、下くちびるを噛んで、私を見上げている。
「
消え入りそうな声を聞いて、私の胸の奥でなにかがうずいた。
――当たり前だよ。
心の声が、私の意識とはべつの場所から響いてきた。
それはまぎれもなく〝私〟の思考で、身に覚えのある反応だった。
――なぜ、思い出してしまったのだろう。よりにもよって、この日の出来事を。
そう思った瞬間、目の前に存在するすべてが記憶の再現であることに気づいた。高三の私と中三の〝私〟が夢のなかで重なって、私の現状を決定付けた出来事を追体験しているのだ。
過去の〝私〟がなにか言おうと小さく息を吸った。
決して口にしてはならない言葉を発してしまう直前の動作。あまりに無知で無神経で――けれど今でも変わらない想いを、〝私〟は吐き出そうとしている。
私はとっさにくちびるを引き結んで、言葉を封じこもうとした。でも、すべては既に終わってしまったことで、私の意図が通用する余地なんてなかった。
「恋愛なんてしてる暇があったら、勉強すればいいのに」
自分のものとは思えない澄んだ声で、〝私〟は本音を菜々子に突きつけた。
途端、視界に砂嵐が吹き荒れる。菜々子の顔を埋め尽くすホワイトノイズ。
この瞬間の菜々子の表情を、私は覚えていない。おそらく、記憶から永遠に消し去ってしまったのだ。
〝私〟は憎たらしいまでに平然としていた。明晰で冷徹な意識を、凍りついた菜々子に注いでいる。自分の正しさをいっさいに疑わずに。このときはまだ、〝私〟はなにも怖くなかった。
「……信じられない」
菜々子の肩が震え、吐息のような声が漏れた。
「あたしだって、好きで恋してるわけじゃないのに!」
爆風のような叫びだった。
側頭部を殴られたような衝撃が走り、〝私〟の呼吸が詰まる。
「恋ってするものじゃなくて、なっちゃうものなのに! 病気みたいなものだって、みんな言うじゃない! どうして聖良ちゃんにはわからないの!?」
菜々子は叫びながら腕を振りかぶり、スマホを投げつけてきた。
金属とガラスの塊は私にぶつかることはなく、背後の壁にぶつかって落ちる音だけがした。
スマホがどうなっているか確認する余裕なんてない。息を吸って吐くことさえできなかった。
心臓は早鐘を打ち、すさまじい勢いで身体がおかしくなっていくのがわかった。膝が震えて、冷たい汗がにじんで、視界がぐにゃぐにゃと歪む。
私は本気でわからなかった。
恋とはなんなのか。
なぜ自分には恋がわからないのか。
そもそも恋は実在するものなのか。
どうして恋なんて不確かなものに、菜々子は本気になれるのか。
わからないことがいくつも重なって、〝私〟はエラーを起こしていた。思考回路が破たんしてしまって、まばたきさえもままならない。
「……なんで」
菜々子が肩で息をしながらささやく。
「聖良ちゃんはあたしのことを理解してくれないの? 今までずっと、あたしのなにを見てきたの……?」
数秒前までの激情はすっかり抜け落ち、灰のようになった声がこぼれ落ちた。
菜々子は深くうつむいてしまう。彼女の肩や背に青黒いなにかがのしかかっているような気がして、私は後ずさった。
かかとの端で、なにかやわらかいものを踏んづけた感触があった。乾いた弾力から察するに、床に転がったぬいぐるみポーチだったのかもしれない。でも、そんなことどうでもよかった。
〝私〟は恐怖していた。
目の前の同級生が、いとこが、幼なじみが、私とは異質なものに変容してしまったことに。恋という得体の知れないものに浸食され、私の理解の及ばない存在になってしまったことに。
「……知らないよ」
気づくと、自分の口から低い声が漏れていた。それが当時の私の導き出した答えであり――今の私の気持ちでもあった。
「私は菜々子について、なにも知らない。知りたくなんて、ない」
怒りはなかった。憎しみもなかった。あるのはただ、理解できないものに対する嫌悪だけだった。
菜々子が弾かれたように顔を上げる。充血してにごった瞳で私を見た。
「聖良ちゃんは……もし私が死んでも、泣いてくれないのかな」
生気のない声。
どうして菜々子がそんな目をするのかわからなくて、私と似ているくせに理解不能な衝動を抱える菜々子の顔がひどくグロテスクに思えて――。
私は逃げ出した。
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