蠅取り紙に捧げるバラッド

宮田秩早

第1話

 暖炉の埋み火が、ぱっと紅く炎の舌を延ばした。

 レンフィールドが蠅取り紙を燃やしているのだ。

 蠅取り紙は、松脂からテレビン油を蒸留したあとに残った粘着性のものにヒマシ油を混ぜて延ばした液体を紙に塗ったものだ。

 材料の性質ゆえに、小虫の羽や脚のひと触れであっても、一度貼り付いた獲物は逃さぬ、強力で滅多なことでは落ちない粘着力がある。

 そして、よく燃える。

 松脂を燃やしたとき特有の煙がいっとき、炉に湧き上がったが、やがて煙突に抜けて消える。

 吸い込めば数日は鼻がおかしくなること必至の煙は、残らず抜けていったようだ。

 それでも部屋には、幽かではあっても間違えようもない松脂のつんとした臭いが漂っている。

 煙は天に昇るのだろう。

 燃え上がったそれに捕らえられた数多の命を連れて。

 命?

 そう、命だ。

 『かつての』レンフィールドはそれを我がものにしようとしていた。

 『いまの』レンフィールドと違って、あれは生きた命を求めていたから。

 ……私と同じように。


 また暖炉の灰の割れ目から、紅い舌が延びる。

 火かき棒で、ざりざりと灰を奥に押しやる音が小さく聞こえてくる。

 松脂の鼻につく臭いがまたいっとき、濃くなって、すぐに薄れてゆく。

 居間の長椅子に寝転んで本を読みながら、すこし考え事をしていたら、現実が遠くなっていたようだ。

 松脂の臭いで現実に引き戻された。

 私の鼻は人よりもよく利く。

 わずかではあっても、まとわりつき、服に染み付くようなその臭いは、大蒜の臭いほどではなかったが、すこしばかり不快だった。

 あまり続くようなら外で燃やすように言おうか、とも思ったが、やめておいた。

 たかだか、蠅取り紙を何枚か燃やすだけのことだ。

 忠実な従僕を、時折、雪の舞う凍てつく戸外に追い立てるほどのこともない。

 『いまの』レンフィールドは、十三年ほど前にホワイトチャペルの酒場のゴミ溜めを漁っていたところを、私が拾ってきた男だった。

 私が昼間、地下の柩で眠っていることにも、自宅で食事を摂らぬことにも、なにより、十三年、見た目がいっこうに歳を取らぬことにも頓着せず、よく働いてくれている。

 拾ったときに、二十歳くらいだろうとあたりをつけた年齢から、流れた歳月以上の歳を取ったように見える。

 最近は特にそうだ。

 白髪が多くなり、肌がくすんで皺深くなり、動作が鈍くなっている。

 従僕の仕事はきちんとこなしていたから、いまのところ不都合はないが。

 老いの影?

 すこし違う気配もあるが、なににせよ、人ならばいずれは死ぬものだ。

 それは我が故郷でも、ここ、英国でも変わらない。

 そう……

 レンフィールドの背に、死の影が宿っている。


 ……彼のほんとうの名は、なんと言ったか。



「レンフィールド、なぜ蠅取り紙を使うのだね? 以前、私の使っていた従僕は、自分の手で捕まえていたようだが」

「藪から棒におかしなことを訊きなさるね」

 レンフィールドが振り向いた。

 眉間に皺を寄せ、腰に手を当てて呆れたように、ふう、と息を吐く。

「こう言うと旦那さまはお怒りなさるかもしれないんですがね。旦那さまのその、以前の召使い殿は頭がおかしかったんじゃないかと思うんだよ。こんな、ぶんぶん飛び回って捕まえにくい羽虫どもを手で捕まえようなんてね。いったい、なんの必要があって手で捕まえようなんて考えたんですかね? 旦那さまは吝(しわ)い方じゃなし、蠅取り紙を買う金くらいあったはずでしょうがね」

「食べるために」

 長椅子にゆったりと横たわっていると、昔のことが思い出されてくるものだ。

 語る必要のないことも、ふと口をついて出る。

 案の定、レンフィールドは、うへえ、とばかりに顔をゆがめて見せた。

「彼は、命をみたかったのだよ、レンフィールド。生きた命を自分の手で捕まえ、それを口にすることで……永遠の命を求めたのだ」

「それでずっと生きていられるもんですかね? 俺にはやっぱり、そいつの頭がおかしかったんじゃないかとしか思えないんだけども」

「どうだろうね」

 初代のレンフィールドが、人間の容易に理解し得ぬ理念を抱き、それにこだわり過ぎたがゆえにセワードの経営する精神病院に入れられたことは間違いないが、それをもって『頭がおかしかった』と結論するのは早計にすぎると言うものだろう。

 たとえば、空を飛ぶ機械。

 あるいは、目が捕らえられぬほどの小さなものを観て、その働きを解明する道具。

 すべて、人間の理念と空想が、たゆまぬ行動力と検証によって現実に具現したものだ。

 むろん、すべての理念と空想が、現実に実を結ぶとは限らぬわけだが、空を飛びたいと背に手作りの翼を負う者と、永生を得たいと蠅を食む者とのあいだに、いかほどの差があると言うのだろう?

「生きとし生けるものの命を食めば、食んだ命の分だけ命が継ぎ足されてゆく。永遠の命が欲しいと思うのは、おかしいと思うかね?」

「そりゃまあ、喰うもの喰わなきゃ飢え死にですがね、旦那さま。別に生きた蠅を喰う必要はないでしょうよ」

 ふう、と、ふたたびレンフィールドは呆れたように溜息を吐いた。

「あと、お言葉ですが、いくら食い物を食ったって命は延びないと思いますよ。神さまのお定めになった寿命は延ばせませんや。そのくらい、学のねえ俺にだって分かりますよ」

「『食べ物』ではない。『生きた命』を食むのだ。蠅は、いわば修練の最初の段階というものだよ。蠅からはじめて、蜘蛛、鳥、猫……生きとし生けるものの血と肉と魂を我がものとする。となれば、命が『継ぎ足されてゆく』とは、思えないかね?」

 私のかつての従僕は、蠅からはじめて、最後に人の命を……血を飲み、永生に至るための修練をしていたのだよ、レンフィールド。

 そう……この、私のように。

「まあ、俺だって喰うに困ったときは、野宿仲間の殺してきた犬っころを焼いて食ったことだって一度や二度じゃなかったがね。蠅は蠅取り紙に任せとくのが一番だよ。毎日、休まず働くし、案外、長持ちするもんだしね」

 レンフィールドはそう言って火かき棒を暖炉の脇に立てかけて、廊下に続く扉のノブに手をかけた。

「そんなところでうたた寝なさって、風邪なんぞひきなさるといけませんよ。ちゃんと寝るときは寝床でね」

 部屋を出がけに、そんなふうに私に声を掛ける。

 私の寝床が、寒々とした地下に置かれた柩だということを知らない彼でもないのだが。

 従僕も長くやっていると気心が知れた気になって、僭越なことも多くなるものだな、と思いはするが、咎めることはしない。

 まるで母親のような口を利く、と嘆息し、そして……ふと、なにかを思い出しそうになる。

 揺れる黒髪、白く温かな肌、柔らかな声、優しい光を湛えた瞳。

 私を抱く、温かい腕。

 なにかを語りかける、謡うような声音。

 命のはじまりのとき。

 遙かな……遙かな、むかしの……

 私は目頭を押さえ、軽く揉んだ。

 くだらぬ雑念が湧くのは……そう、きっと「命」が足らぬのだ。

 私は長椅子から身を起こし、出かけることにした。

 どこに?

 あるいは、だれを?

 テムズ河添いの安酒場で客待ちする娼婦でもいいし、ロイヤル・オペラ・ハウスの舞台のはねたあと、紳士に花を売る少女たちでもいい。

 だれでもいい。

 私は命を狩りにゆくのだ。

 蠅取り紙の如く、獲物を待つのは性に合わない。


 外出の準備を整えて屋敷を出るとき、玄関広間で薪を抱えたレンフィールドとすれ違った。

 数年前と比べて、一度に運ぶ薪の数が減ってはいるが、暖炉の火は以前と同じく、絶えることがない。

 薪小屋を往復する回数を増やしているのだろう。

「旦那さま、お出かけなら、あたらしい蠅取り紙を買いなさるといいですよ。もう余分も残りすくなくなりましたんでね」

 この従僕は文盲で、買い物に遣るとよく騙されて帰ってきたから、買い物遣いには使っていない。

 タブロイド紙のひとつも読めれば、これの考えも変わっただろうか?

 あたらしい蠅取り紙を買い足すように、自分の命を継ぎ足してゆく望みを持ち得ただろうか?

「覚えていたらな」

 私はそう応えて、屋敷を出た。



 風のぬるい初夏の夕だった。

 私は灰の冷たくなった炉のそばに文机を置いて書き物をしていた。

 かくの如き存在になり果てた我が身においても、祖国にはそれなりにしがらみがあり、時折、手紙が舞い込んでくる。

 返事をする義理はなかったが、同盟国に就くか協商国に就くか、この大戦での去就には、彼なりに真面目に悩んでいるようだったから、多少の知恵は貸すべきだろう。

 英国における私の見聞と分析が、彼の判断の材料のひとつにでもなればよい。

 屋敷には長らく暖炉の番をする者がおらず、風の弱い夕べには、古びた石造りの建物特有の饐えた匂いが漂う。

 永く日の当たらぬ場所に澱んだ土と、埃と、黴の匂い。

 なんとなれば、墓場の匂いに似ていなくもない。

 夏場に炉の世話は不要だと思いがちだが、パーフリートのこのあたりは、地盤が低く、湿っぽい。

 私にとっては長らく親しんだ匂いで、さして不快は感じなかったが、久しぶりに嗅ぐと、この匂いの籠もらぬように毎日、屋敷を整えていたあれのことを思い出す。

 あれがせっせと世話をしていたアルマジロや蝙蝠……屋敷で飼っていた動物たちは、ロンドン動物園に寄贈した。

 世界大戦が始まって、まもなく二年になろうとしている。

 戦時中ゆえ、若い世話係が出征して人手不足なのと、給餌の予算が削減されているせいであろう、いい顔はされなかったが。

 レンフィールドが薪小屋やかわや、地下室の入り口に吊した蠅取り紙には、すでに小虫がびっしりと張り付いている。

 そろそろ取り替える時期になっていたが、必要を感じず、そのままにしてある。

 昔は私も、なにくれとなくひとりでやっていたから不便はなかったが、あれしか使っていなかった場所、私には不要だと思われる用事などは、いまは放置している。

 たまさかにある来客の相手など、ひとりではいろいろと行き届かぬことも多かったが、私の身の回りに限っていえば、従僕の不在は痛手ではなかった。


「ここにいたのね」

 骨の折れる手紙を書き終え、封をし、英国の秘密機関が外国向け書簡におこなっている戦時検閲を逃れるための偽装の宛先と差出人をしたためたところで来客があった。

 開け放しにしてある居間の戸口のまえに現れたのはミス・ヘルシング。

 かつて私を逐った男の孫娘だ。

「玄関もなにも、みんな開け放してあったから勝手に入ってきたわよ」

 戸締まりしていても、いつも勝手に入ってくるくせに、今日はなぜか気まずそうだ。

「郵便だの日用品の配達だの、客があるたびにいちいち玄関まで応対に向かうのも面倒だから、開け放ってあるのだよ。たいていの者は玄関広間の卓子(テーブル)に封書か荷を置いて立ち去る。互いに手間がなくてよい」

「不用心ね」

「なに、強盗の類いならちょうどよい。食事に出る手間が省ける」

「それもそうね」

 と、彼女がちいさく肩を竦める。

 身に纏う肘丈の漆黒の外套がよく似合っていた。

 夏用の薄手の生地でできたそれは、彼女が身じろぎするたびに、ひらひらと揺れる。

 いつもは動きやすさを優先して、スカートを省略したズボン姿の乗馬服を身に纏っていたが、今日はズボンの上にスカートを穿く、正式な女性の乗馬姿をしている。

 スカートを穿けば馬の鞍が跨げない。

 横乗りするしかないのだが、つねは騎乗するのに横乗りなぞしていないはずだから、今日はさぞかし馬に乗りにくかったに違いない。

 理知的な蒼灰の瞳に宿る意思の輝きは、祖父譲り。

 たいていの日は自然に流している髪を結い上げ、粗いヴェールと黒く染めた鴨の羽根飾りのついた黒いフェルトの小さな帽子を被っている。

 首の詰まった黒のブラウスを身につけていてもわかる、おとがいから肩にかけた曲線の娘らしい柔らかさが美しい。

「申し遅れたが……来訪を歓迎する。ミス・ヘルシング」

 愛想笑いは得手ではないが、私もある意味ではただの男に過ぎない。

 心憎からず思っている女性の来訪をうければ、おのずと笑みも浮かぶというものだ。

「しかし、君が私を追ってくるのはいつものことだが、大工の息子のしるしだの、原子番号四十七の高価なわりにはまっすぐに飛ばない弾を籠めた銃だのを振り回していないぶん、いつにもまして魅力的に見えるね。無論、いつもの覇気溢れる君も、月の化身にして戦いの女神のようで我が花嫁に相応しいと思っているのだが」

 彼女は応えなかった。

 にこりともせずに紙を一枚、私に差し出す。

 さして期待はしていなかったが、こうも相手にされていないと、少々、面白くない。

「今日はあなたのくだらない軽口を聴きに来たのじゃないわ。セワード先生の検死結果報告書を、渡しに来たのよ」

 そう言った彼女は、ふと、瞳を陰らせた。


 死亡診断書を兼ねた検死結果報告書に記載された名は、ジョン・ドゥ(John Doe)

 すなわち、名無しということだ。

 性別:男

 出生地:不詳

 居所:パーフリート、カーファックス屋敷

 死因:陰嚢を原発とする悪性腫瘍を多数認むる。腰椎、大腿骨、脊椎への骨転移。肺臓、膵臓、肝臓への転移を確認。いずれの転移においても悪性腫瘍の大きさは一吋(いんち)を超える。なかでも膵臓においては悪性腫瘍による臓器の変形、腫張は甚(はなは)だしく、正常の臓器の大きさの三倍に及び、この腫張による内臓圧迫、多臓器不全が直接の死因となったと推定するものである。


「陰嚢の腫瘍って、幼い頃に煙突掃除をやっていた人に多いそうよ。若くて発病することが多いんですって。発病してすぐなら、患部を切除して進行を止める方策もあるみたいだけど、痛みがないからたいてい本人が放置して手遅れになってしまうと、セワード先生は仰ってたわ」

 そこまでひと息に言って、彼女は不意に押し黙った。

 なにかを堪えるように口をゆがめ、私の顔をまっすぐに見詰めている。

 この時代の女性なら口にするのを躊躇ってしまうであろう『陰嚢』などという言葉も、必要とあらば使える物怖じのない彼女の姿勢が、私には好ましかった。

 新世紀を担う女は、かくあるべきだろう。

「……本人から、聴いたことがある。ものごころついたころに親に売られて、煙突掃除をしていたと。船荷の積み卸し、石炭夫、どぶさらい……なんでもやったと言っていたな。私のような難しい者にも、よく仕えてくれた」

「……お悔やみ申し上げるわ」

 わずかに瞼を伏せ、声を落とすそのさまに、私は今更ながら、彼女の今日の衣装が喪服であることに気がついた。

 ならば、彼女は悼んでいるのだ。

 彼女にとっては害悪にしかならぬであろう私の従僕であった者の死を。

「痛み入る」

 彼女の哀悼を受け入れて、私は溜息を吐いた。

 こんなときには、つねは意識の外にあった想念が……ある種の理解が襲ってくる。

 そう、忘れてはいけない。

 彼女は私とは違うのだということを。

 彼女は……『人』なのだ。

 人は、連帯する。

 今般の大戦争のように、些末な利害でいがみ合い、殺し合うのも人の本質であるけれども。

 身分を、立場を、利害を超えて相手に共感し、手を差し伸べようとする……それもまた、人なのだ。

 それを忘れたとき、私はまた敗北を喫することになるのだろう。

 彼女の祖父に飲まされた苦い水を、また飲むことになる。

「遺体はセワード先生が預かっているわ。あなたに希望がなければ、ハイゲイト墓地に埋葬するつもりだけれど」

 長年、献身的に仕えてくれた従僕を亡くした化け物が浮かべるに相応しい表情とは、どんなものだろうか?

「それはこちらから願おうかと思っていた。私では弔いを出してやれぬ」

 私の台詞が意外だったのだろうか?

 すん、と、ちいさく息を呑み、彼女はすこし面食らったような顔をしていた。

「弔いの掛かりは負担する。ねんごろに弔ってやってくれ」

 私はそう言って、彼女に財布を投げた。

 英国の流通貨幣のほかに、近頃では見かけぬ純度の高い祖国の古い金貨も数枚、入っていたから、よほど盛大な弔いをせぬ限りは間に合うはずだった。

「……なんの気まぐれかしら?」

「『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』。我と同じく死して蘇った男は、我とは違い能弁であったようだ。巧いことを言う」

 羅馬の皇帝に税を払うべきかとユダヤの民に問われたあの男が答えた言葉だが、惚れ惚れするほど巧い返事だと、あの男の世界の反逆者となったいまでも、私は思う。

「あの従僕は、『蠅取り紙の仕事は蠅取り紙にやらせるのが一番だ』と言った男だ。その魂は、神の御許に返してやるのが筋だろう」

「……そうね」

 人だとて他の命を食んで生きている。

 しかし、私のように定められた運命を超えておのれの命を繋ぎ続けるのではなく、定められた自分の命の限界のままに生きているのだ。

 それが神の定め……今風に言えば『自然の摂理』というものだろう。

 彼は私のありようを望まなかった。

 つまりは、そういうことだ。

「彼の名前は、なんと言ったのかしら?」

 彼女が従僕の名を問うていた。

 墓碑に刻むのだろう。

 私は、ふと思い出した名を答えた。

 そう、あれの名は……



「なんのもてなしもできずに済まなかった」

 用を済ませて立ち去ろうとする彼女に、私は声を掛ける。

「お構いなく。正直、ここでお茶を出されても飲む気が起きないわ」

「それはそれは。ときに、みなは健勝かね?」

 不快の影が彼女の眉間によぎる。

 だが、抑えたようだ。

「ええ、みんな元気にしているわよ」

 言葉すくなに答えるが、実のところ、私はそれ以上のことを知っていた。

 弁理士のハーカーと医師のセワードは仕事に忙しく、また、ヘルシング教授とともに私と戦ったあの日々から、二十三年分、老いた。

 ゴダルミング卿は継嗣を残さねばならぬ義務があるゆえに、かつて婚約者を亡くした忌まわしい思い出に蓋をして、若く健康な貴族の娘と結婚をした。いまはおのれの領地に引きこもり、滅多にロンドンへはやってこない。

 そう……かつてヘルシングが築き、孫娘が受け継いだ人の輪、私と戦うための絆は朽ちつつある。

「……ミナは変わりないのだろうね」

 彼女は頬を引き攣らせ、私を睨みつけた。

 蒼灰の瞳が、怒りに燃えている。

 美しい命の揺らめき。

 だが、悪態や罵倒の言葉の代わりに、彼女はおおきく息を吐いた。

「元気よ。……あなたが知らないとも思えないけど」

 二十数年前、私がはじめて英国を訪れたおり、私はハーカー夫人……ミナの血を味わい、彼女は私の血を受け入れた。

 彼女と私は、血で繋がり、互いの痛みを痛みと感じ、喜びを喜びと感じ、互いの存在を魂の昏い部分で感じている。

 いまもなお。

「それはよかった」

 私は曖昧に頷いた。

 むろん彼女が健勝であることを、私はよく知っている。

「いずれにせよ、今日はご足労だった。……よい夜を、ミス・ヘルシング」

 無駄話はこのくらいにするべきだろう。

 私は軽く会釈して、彼女を使者の任から解放する。

「ごきげんよう、彷徨える伯爵ワンデリング・ロード

 彼女もまた、慇懃(いんぎん)に礼を返す。

「武器を持ってくるつもりは最初からなかったけれど、ほんとうは、いろいろ言いたいことがあったのよ。でも、やめておくわ」

 不用意にも彼女は私に背を向けて、そう言った。

 いや、私のことを良く理解していると言うべきだろうか?

 武器を持たず、礼儀を尽くして我が家を訪れた者を脅かすほど、私は恥知らずではない。

「なぜ?」

 私の素朴な問いかけに、彼女は私に背を向けたまま、わずかに視線を背後に……私に遣(や)った。

「だって、今日のあなたの顔を見たら、だれだって詰まらないことを言う気が失せるわ。鏡に映して見てみなさいよ、って言いたいところだけれど、ご自身の目で確かめることができないのが残念ね」

 彼女は最後に、私に一矢報いたようだ。

 私は……彼女の言葉に、ただ苦く笑うほかなかったのだから。

「いずれまたお目にかかりましょう。……今度はあなたの心臓に杭を打ってみせるから、覚悟なさいな」

 振り向かずにそう言い放った彼女の姿は、三年前、その手首に我が牙を沈め、血を啜ったときから変わることなく美しかった。



 この件のあと、ほどなく私は英国を発った。

 先日返事をした祖国のしがらみに呼ばれたのだ。

 諾否の自由は私にあったが、強いて断るほどの理由はない。

 大戦の影響で、地中海から黒海を回って入国する経路が使えぬいま、帰国にはギリシャからブルガリアを抜けるしか方策はない。

 フランス周り、あるいは北海から北欧周りで大陸に渡り、ドイツ近隣の国から南下する入国ルートは論外だ。

 ドイツ周りほどではないにせよ、ギリシャからの北上ルートを使っても、戦火の絶えぬ大陸を横断するのは、なかなかの骨折りだが、できぬ相談ではない。

 昔から戦場を駆けるのは慣れている。



 英仏の支配下に置かれ、近くクーデターが起きるのではないかとも囁かれているほど反政府活動の盛んなギリシャのテッサロニキを避け、カバラから上陸。

 すでにセルビアと交戦中で、西部に軍の主力の置かれたブルガリアの東部を、なかば密入国するような状態で一気に突き抜けてルーマニア王国に入国。

 こういうとき、狼に化身できるのはなかなかに便利だ。

 ブカレストにほど近い宿に逗留中、英国から一通の封書が私を追いかけてきた。

 差出人は、ミナ・ハーカー。

 封書には添え書きなどなにもなく、ただ一枚、写真が入っていた。

 その写真にはハイゲイト墓地にあたらしく建てられた小さな墓碑がひとつ、写っている。

 白黒の写真からも分かる、明るい日差しのなか夏の花々に囲まれた小さなその墓碑には、かつて私に仕えたひとりの男の名と、生年を不明にしたまま刻まれた没年、そして短い言葉が刻まれている。


『蠅取り紙の加護にて神の御手に委ねられた男、ここに眠る』


「なるほど、蠅取り紙相手とあっては、私に勝ち目はない」

 写真とともに封書を破き、私は故郷の大地を踏みしめた。

 これよりしばし、彼女たちとの遊びはお預けだ。

 あたらしい騒乱が、私を呼んでいる。



 一九一七年八月三十一日

 第一次世界大戦の開戦より中立の立場を表明していたルーマニア王国は、イギリスとの秘密協定に基づき、オーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告する。

 第一次世界大戦における、ルーマニア戦線である。

 軍備の近代化に立ち後れた同国は、参戦直後の攻勢からほどなく守勢に転じた。

 一九一八年五月七日、相次ぐ軍事的敗北と、軍事的協力関係にあったロシア軍が、ロシア革命勃発によって戦線離脱したことにより、ルーマニア王国は同盟国に降伏する。

 しかし、大戦の最終的勝利を協商国側が得たことで、ルーマニア王国は「戦勝国」となり、ヴェルサイユ条約において、その領土的野心を満足させることになる。

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蠅取り紙に捧げるバラッド 宮田秩早 @takoyakiitigo

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