第55話 エリカの花、そして……破滅の魔女。

目覚めたと同時に、痛みが襲ってきた。


「……ッつ……!?」


ローゼンタール伯爵夫人邸のメイドのエリカは、顔をしかめて呻いた。

まっくらで様子がわからないが、身体中をすりむいている。ひりつく痛みの他に、疼痛までもする。体のあちこちをぶつけたようだ。

うつふせから、肘を支えに上体を起こす。

冷たく硬い感触からして石の床……ここは地下室だろうか……かびと埃臭いし、動物じみた匂いもする。なんで、こんなところに寝転がっていたのだろう。


「……もしかして、ここ……離れの貯蔵庫……?」


貯蔵庫とはいっても、食品はほとんど置かれていない。がらくた置き場のような地下室だ。

ずきりと口の中がしみた。内頬が軽く切れている。

だが、痛みの連続は自分がまだ生きている証でもあった。


「……あたし、死んだはずじゃ……どうして……?」


さきほど自ら喉をかき切ったおぞましい記憶がよみがえり、エリカは、ぶるっと身を震わせた。何故あんなことをしたのか、そして生きているのか、自分でもわからない。


全身が震え出し、エリカは自らの身体を抱きしめるようにし、両膝を寄せ、身を縮めた。


自分の喉を自分で切り裂けという理不尽な命令に、最初は必死に抵抗しようとした。だが、伯爵夫人の目の不思議な輝きを見た途端、霧に包まれたように頭がぼうっとして、言われるがままにナイフで自殺した。


今も、肉を裂く嫌な感触が手に残っている。断じて夢などではない。倒れ伏した自分の頬にあたる絨毯の毛先と、にじんでいくワインの感触を頬で覚えている。


そして、鼻眼鏡を冷たく光らせた漆黒のアカデミックガウンの長身の青年が、死にゆく自分を見下ろしていたことも。銀髪の整った顔は、眼鏡のせいで人間離れしてみえた。


「……生まれ変わって恋の素晴らしさを知りなさい。しばし、おやすみ。よい夢を」


ふざけた言葉遣いと仕草は芝居がかっていたが、まとう雰囲気は氷の剣呑さをはらんでいた。口元をつりあげた笑みは不気味で、突発的になにをしでかすかわからない。彼を見た十人が十人とも、不安になり、危険人物と評価するはずだ。エリカもきっとそう思ったろう。


屈んだ彼が、長い指を伸ばし、エリカの瞼を閉じてさえいなければ。奇妙なことだが、そっと触れた指先から、人間味のようなものを感じたのだ。エリカには青年がそれほど悪い人間には思えなくなった。というか、どこがではるか昔に会ったような……。


彼の鼻眼鏡のレンズの奥には、どんな瞳が隠されていたのか見てみたかった。

すこしだけ地下室の寒さが和らいだ。

暗がりの中で、エリカは頬が熱くなっていることに気づき、苦笑した。


そんな想像にかまけている場合ではない。よくわからないが、せっかく助かった命だ。伯爵夫人に見つからないうちに、ここから逃げるべきだ。


ここが離れの貯蔵庫だとすると、何度か来た経験はある。壁を両手で伝いながら、エリカはあるべき梯子にたどり着こうとした。


……見当たらない。どうやら梯子は、上に引き上げられてしまったらしい。

出入は頭上の天板を押しのけてするしかない。梯子がないとどうしようもない。


エリカは途方に暮れた。天井までは二メートルほどある。周囲の石壁はでこぼこしているとはいえ、女の腕力ではとても登れる代物ではない。お手上げだ。


「しょうがない。じゃあ、机と椅子を積んで……」


そうすれば天井に手が届く。


ここの天板は可動式だ。閉められていたも内側から強く押せば、開くことができる。地下室には廃棄寸前の家具が置かれていたはずだ。エリカは盲目の闇のなか、へっぴり腰の手さぐりで机の脚を探り当てた。ほっとした瞬間、鋭い痛みが手の甲に走った。


「……痛っ……!?」


キーキーと甲高い声が無数に巻き起こる。なにかが机の上を走り回り、小さな爪音があちこちで響く。ざあっと足元をうごめく感触がある。


「……いやあっ……!!」


エリカはとびあがりそうなって悲鳴をあげた。

暗闇で触れた荒い毛のおぞましさに髪が逆立つ。

ネズミだ。通り過ぎていった太く長い蛇のような感覚は、もっとも凶悪なドブネズミのあかしだった。それも悪いことに一匹ではない。


エリカは恐怖に腰を抜かしそうになった。

ネズミの群れのまっただなかに自分がいると悟ったのだ。

先ほどからしている獣の匂いの原因はこれだった。


逃げようとしたが遅かった。悪いことに、エリカの悲鳴がひき金になってしまった。

刺衝されたネズミたちが一斉に襲撃に転じた。ネズミたちは逃げ惑うエリカの身体に飛びつき、あるいは爪をたてて駆け上った。げっ歯類の小さな牙が服を突き破り、次々に肌にうちこまれた。


「痛い!! やめて!! こないで!!」


火箸をあてられたような激痛を、エリカは泣きながら手足を振り回して振り払ったが、飽くことなく新しいネズミの一団が襲いかかってくる。



エリカの哀願など獰猛な小動物の群れには通用しない。血の匂いに興奮し、執拗な波状攻撃を繰り返す。エリカの全身は恐怖の汗で濡れた。失禁しそうになる。ネズミたちが自分に向けるのが、殺意ではなく食欲なのだと、生命の本能で気がついたのだ。


勝ち誇ったネズミたちが鳴き声をあげ、爪も牙もない大きなあわれな餌……エリカに殺到する。


ネズミたちがこんな御馳走を見逃してくれるはずがない。狭く視界のきかない地下室で、小回りのきく無数の小さな軍勢をかわし続けるのは不可能だ。どんっと背中をさえぎった絶望的な感触で、エリカは自分が壁際に追い詰められたのを知った。万事休すだ。



昔、近所であったネズミに赤ん坊が食い殺された事件を思い出してしまい、エリカは狂ったように泣き叫んだ。赤ん坊は、指や鼻などの先端が齧られ、全身の皮膚が剥離し、血まみれの肉塊となっていた。外出から帰ってきて泣き叫ぶ母親の声が耳について離れなかった。


エリカはかわいそうな母子に心から同情しつつも、あんな死に方だけは絶対したくないと強く思った。そして、そんな自分の薄情な部分に気づき、少しおちこんだ。


そのときは、まさかあの赤ん坊と同じ死に方が自分にも待っているなど、思いもしなかったのに……


自分ももう逃れられない。あの赤ん坊のように、少しずつ削り取られ、生きたまま喰われる最悪の死を迎える。すぐには死ねないだろう。全身を激痛に苛まれながら、皮膚と肉が噛み切られ、奴らの胃袋におさまる咀嚼音を間近で聞かされ続けることになる。絶え間ない痛みは狂うことも許してくれまい。


明日の朝には、骨に肉片をまとわりつかせた自分の体内を、ネズミたちが我が物顔で掘り進んでいるだろう。親でさえ、死体がエリカだとは気づけまい。


「……ひどい……ひどいよ……あたしがなんで……」


エリカはすすり泣いた。絶望が胸をしめあげる。


難病の父の薬代を稼ぎ、幼い弟妹を養うため、女中奉公に出た。知り合いのつてで、ローゼンタール伯爵夫人邸の最下層のスカラリーメイドに雇われ、手をあかぎれだらけにし、寒い相部屋で震えて眠った。容姿がよいからと、人手が足りないパーラーメイドに大抜擢され、やっかみの対象になり、元の同僚と新しい同僚の両方にいびられた。それでも、給金があがったことで、実家の助けになれるからと、歯を食いしばって耐えてきた。


でも、もう終わりだ。暗がりで誰にも看取られず、みじめに食い散らかされて人生を終える。

あの生まれてすぐ死んだ赤ん坊のように、誰からも助けてもらえずに……!!


最期に脳裡に去来するのは、愛する家族と、なぜかあの黒衣の青年の顔だった。


「……エリカ!! どこです!! 答えなさい!!」


突然、頭上から響いた声は、まさにその青年の声だった。

声はひどく焦っていた。必死に自分を捜してくれているとわかった。


助けがきてくれた!!


生きることを諦めかけたエリカは、はじけるように顔をあげた。消えかけていた希望に、ぼっと火がつく。青年がなぜ自分の名前を知っているのか考える余裕もなかった。


「助けて!! ネズミの群れに食べられそうなの!!」


「……地下ですか!! 入り口は……!? ええい!! その建物、邪魔です!! ……消えよ!!」


すがりつくエリカの叫びと、鋭い掛け声が交差する。


どおんっと衝撃波が地下室全体を揺らし、エリカに噛みつこうとしていたネズミの群れが怯む。


轟音とともに地下室の天井の一角が崩れ、噴煙と光とともに、黒衣の青年が舞い降りてきた。暗闇になれたエリカの目にはわずかな月明かりが、天からの救いの光に見えた。青年の黒衣が天使の白衣に思えた。こんな感動的な光景は見たことがなかった。


「……さがれ!! ネズミども!! このソロモンを恐れぬか!! 小さな脳でも、死の恐怖ぐらいは理解できよう!!」


黒衣の青年ソロモンが、雷雲の気配をはらみ、ネズミの山を一喝した。殺気が迸る。


それだけで執拗にエリカにしがみついていたネズミの群れは恐慌状態になった。絶対強者の来訪を悟ったのだ。未練がましくキーキーと鳴きながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。


「あ、あの……ありがとうござい……」


突然思いがけぬ人物から救出されたエリカは、床に座り込んで呆然としていたが、しどろもどろでとりあえず礼を言おうとした。


「……失礼」


ソロモンは軽く礼をすると、エリカに近づき、腰と腿裏に手をまわし、軽々と抱き上げた。


「……ひゃっ……」


ロマンチックなお姫様だっこなどされたことのなかったエリカは、驚きの連続に頭がついていかず、すっとんきょうな声を出しかけ、慌てて飲み込んだ。だが、真の驚きはその先に待っていた。


「……飛びますよ。しっかり摑まっていないと、脳震盪を起こします」


「ひゃあっ!?」


エリカを抱えたまま、ソロモンが跳躍した。

あまりの急加速に身体が取り残されそうになり、エリカは照れも驚きも忘れ、あわててソロモンの首っ玉にしがみついた。ソロモンの黒衣が舞う。まるで透明な階段を駆け上がるかのように、上昇は止まらない。崩れてできた穴から地下室を飛び出し、さらに宙へー、


夜風が鳴る。月が寂しく天に輝く。いつも見上げていた森の木々の梢の先端が足の下方にある。黒々とした森と田園がはるか彼方に向け、広がっている。あちこちに村の明かりが点在する。動いているのは馬車のランタンだろうか。


エリカは息をのんだ。


屋敷の床と階段を汗だくで駆けまわっていたエリカが見たことのない景色が、そこには広がっていた。

視界の端で揺れている自分の三つ編みだけが、見知ったものだった。


人間一人を抱えて尖塔よりも高く跳躍するソロモンは、断じて人間ではない。眼下にあったはずの堅牢な離れの石造りの建物も、爆発したかのように吹き飛んでいる。ソロモンが一瞬で全壊させた。力自慢の工事夫たちが馬の手助けつきで十人がかりで挑んでも、一日かけて半分も崩せないほど頑丈な建物だったはずだ。悪魔でもないと不可能な所業の数々だった。


さえぎるもののない月明かりの下、エリカはソロモンの瞳をまともに見た。


今のソロモンはさっきと違い、鼻眼鏡をしていなかった。多重円のような奇妙な灰色の瞳をしていた。まさしく異相だ。だが、仰ぎ見るその銀髪と白皙の横顔は、エリカにはとても好ましいものに思えた。不思議な既視感がある。胸にこみあげる思いを言葉化する文才がないことを、エリカは生まれてはじめて残念に思った。


夜の空中散歩は長くは続かなかった。

何度めかの跳躍のあと、ローゼンタール伯爵夫人邸の敷地の塀を飛び越えた先の小高い丘の上に降り立ったソロモンは、そっとエリカを地面に下ろした。


「……これはいけませんねえ、乙女の柔肌に疵があるとは。化膿するといけない。落ち着いたら、この薬をおのみなさい。なに、とても安全なお薬ですよ。前以上に輝くお肌になること請け合いです。わずかに副作用はありますが、ね」


ぼろぼろになったエリカの服と、傷だらけの肌を一瞥し、ソロモンは楽しそうに、貌を手で隠してクククと嗤った。


「こちらのもう一つの瓶は、あなたの父親の病にきく唯一の特効薬です。呪薬師の一族でも、あなたの父親の病は直せない。彼らの甘言に乗ってはいけませんよ。この私の調合した薬こそ、至上!! 最高!! ああ、実験体が二人も都合よく現れるとは、これは運命。運命の神は、わが手による奇跡の目撃を望んでいる」


両手を広げ、指を鉤爪のようにして宣言するさまは、どう贔屓目で見てもあやしさの塊だ。今までエリカをお姫様だっこして手がふさがっていたのでポーズを我慢していたと言わんばかりだ。まるで芝居の悪役だ。


だが、エリカはソロモンが嘘をついていないと信じた。

そのあかしとして、自分用の薬を、彼の目の前で飲み干してみせた。


「ほう、ためらいなく……副作用が怖くはないのですか」


「どんな薬も毒の面はあると聞きます。ソロモン様は副作用はわずかとおっしゃいました。だから、あたし怖くありません。信じてますから」


「聡明ですねえ。患者からの信頼は医師の心を奮い立たせる鬨の声です。副作用で少し眠くなりますので、寝落ちしての風邪ひきに注意なさい」


「ありがとうございます。でも、ソロモン様は、どうして、あたしの父の病まで御存じなのですか」


「教えてあげましょう、学問を究めれば、人は全知全能に近づく。不可能などないのです。それにしても、まっすぐな乙女はぐいぐい来ますね。その気迫は、ときに歴戦の勇士にも勝る。気に入りました。あなたと父上を私の薬の実験体と認定します」


ソロモンは目を細めた。


「いいですか。一日一回、この小さじ一杯分を睡眠前に服用させること。咳がおさまっても、薬を使い果たすまで続けなさい。それとこれは家までの路銀です。あなたもお父上も、大事な私の実験体ですからねえ。便宜と安全をはかる義務があるのです」


それは路銀というには、あまりにも額が多すぎた。エリカの家族を十年は養えるほどだった。今の薬だって、おそらく目が飛び出るほど高価なもののはずだ。


「もらえません、こんなに!! ……どうして、見ず知らずのあたしに、こんなによくしてくれるんですか」


驚きで蒼白になって突き返そうとしたエリカの両手を包むようにして、ソロモンは品物を握らせた。


「……ククッ、袖すり合うも多少の縁、まして私の実験体なら、保護するのは当たり前です。体調万全でないと正確なデーターは取れませんからねえ。いいから受け取りなさい。こちらも」


ソロモンは懐から、釣り鐘型の無数の白い花のついた一枝を取り出し、エリカに手渡した。遠目にはスズランにも見えるその花は、エリカのよく知る低木型の花だった。


「……これは……?」


エリカは目をしばたき、ソロモンはうなずいた。


「……ツツジ科のエリカ。冬の岩場に咲く、あなたの名前の由来の花です。平凡な花ですが、私の悪魔的な天才秘術をほどこした魔除けです。身に着けていれば、獣や悪党はあなたに近寄れません。旅の間、あなたを守ってくれるでしょう。学問の奇跡を体感なさい」


ソロモンはそれだけ告げると、さっと黒衣の裾をひるがえした。


「では、私はこれにて。これでも、いろいろと忙しいのでね。もう会うこともないでしょう」


「……待って!! 待ってください!!」


ここで別れるともう二度と会えなくなる、そう直感したエリカは思わず叫び、去ろうとしたソロモンの裾を摑み止めた。今までの人生で経験したことのない強い感情に突き動かされていた。ソロモンは雰囲気は冷酷だし、言動は変態だ。だが、してくれたことは誠意に満ちていた。ソロモンの服にしがみついたまま、エリカはぼろぼろと涙をこぼした。


「あたし、わけがわからないまま、お別れは嫌です!! あなたはどうして……!! あたしたち、どこかで……? あたし……あたしは……!! ……なんで泣いてるんだろ……」


引き留めてもなにを喋ればいいのかわからない、なのに気持ちだけは爆発しそうに膨れ上がり、涙はとめどない。ソロモンは少し困ったような顔をし、そっと手を添え、エリカの指をひきはがした。


「……エリカは、野にあるありふれた樹です。ですが、冬の厳しさにも負けない強さをもっています。そして荒れ地に小さな花を咲かせ、優しい香りで人の心を癒すのです。私はかつて……この花をまた次の季節も一緒に見ようと、ある女性と約束しました。彼女を守ってみせると。……なのに私は約束を……」


ソロモンはじっとエリカを見つめた。表情はほとんど変わらない。感情を押し殺した顔だった。

エリカは目を瞬いた。なぜか目前の背の高いソロモンに、自分よりずっと年下の少年がかぶって見えた気がした。なにも思い出せないのに、懐かしさと苦しさがこみあげる。


「……あの……!! ……あなたは……!!」


ソロモンはそっとエリカの唇に人差し指をあて、それ以上語らせなかった。


「……少し喋りが過ぎました。今回の件は、私のつまらない自己満足のためにしたことです、気にすることはありません……さあ、うちに帰って、花の名前のとおり、平凡でも価値ある人生を生きなさい。あなたを苦しめた病も、貧困も、ソロモンの名にかけて二度と近寄らせません」


ソロモンは背を向けた。漆黒のアカデミックガウンが夜風になびくさまは、ひどく寂しく悲しげにエリカの目には映った。少年の後ろ姿がなにかを堪えているように見えた。


「……今夜のことは忘れなさい。私の棲む闇は、これからのしあわせな人生には不要です」


そしてソロモンは音もなく跳躍して、夜の彼方に姿を消した。


エリカは丘の上に立ち尽くし、いつまでもその方向を見つめていた。ソロモンに渡されたエリカの花のひと房を、彼との絆であるかのように、ぎゅっと胸に抱きしめる。


「……あたし、今夜のことは、きっと死ぬまで忘れません……ソロモン、不思議なひと……」


ソロモンに助け上げられ、その腕の中で夜空を舞ったとき、胸にこみあげた気持ちをどう言葉にすべきだったか、エリカはようやく思い当たった。二度と会えないであろう不思議な青年、きっといつか自分が年老いて若さが時の彼方に消え去っても、折に触れては今夜のことを思い出し、少女だった頃の切ない気持ちに立ち返るのだろう。


今この夜の丘にはエリカただ一人だ。

神様が、誰にも邪魔されず、思いを口にする機会を自分に与えてくれたのだと、エリカは信じた。


「……私の……王子様……」


とてもありふれていて気恥ずかしく、だからこそ女性にとって大切な言葉を、エリカは小さく唇にのせた。何度も何度も胸のうちで繰り返した。大切な記憶として、心に永久に刻み込もうとするように。


             ◇


森の闇の中をソロモンは疾走する。


闇は彼の妨げにならない。夜の森のなにものも、空行くものさえも、彼より速く動くことはできない。アカデミックガウンが、黒い彗星のように尾をひく。小径の両わきの樹々が、ものすごい勢いで後方に流れ去っていく。ソロモンについて来れるのは、天に浮かぶ三日月だけだ。

スペアの鼻眼鏡を取り出し、装着しながら、ソロモンは眉をひそめた。

高速で疾走しながら思案する。


「……私らしくもない。『以前の私』にここまで引っ張られるとは。しかし、あのアリサが、ただの親切でエリカの居場所を私に教えたはずがない。なにを企んでいるのです、アリサ……むっ?」


不自然にたちこめだした濃霧が、ソロモンの行く手を遮ろうとした。白いスープで周辺が水没したようになり、視界は零に等しくなる。常人なら一歩も動けなくなる霧のなか、ソロモンは走る速度を落とそうとさえしなかった。エリカといるときには見せなかった不敵な表情のまま、霧に突入し、引き裂いていく。


「アリサらしくもない。こんな児戯で私が止められるものですか。幼女になってやり口が甘くなりましたか? ですが、悪戯にしては度が過ぎている。いくら想い人でも、これは勘弁できません。お尻ぺんぺんしてあげなくてはいけませんねえ」


ソロモンの口元がつりあがる。彼の目は、樹々の梢に見え隠れする金色の甲虫たちを、霧の向こうに正確にとらえていた。霧はアリサの黄金蟲による幻覚だった。ソロモンに見破られたことに気づき、あわただしく迎撃しようと蠢きだす。ソロモンは鼻で笑った。


「……向かってくる気ですか。愚かな。アリサのペットたちといえど容赦しませんよ。ちょうどいい。いろいろ厄介な技をもつ小蟲たち、私の今後の計画のために一掃させてもらいましょう」


力を爆発させるため、ぐっと身を沈めかけたソロモンは、しかし、はっと顔をあげた。無音で肉薄する気配さえない殺意を感知したのは、ソロモンならではこそだった。


「……ちっ……!!」


舌打ちをすると、横っ飛びに跳躍する。


ごおっと風が渦巻いた。L字の軌跡を描いて飛び退いたソロモンを追い、巨大な獣の鼻面が霧から飛び出してきた。噛み合わされた牙が異様な音をたてた。とてつもない威力と重量は、海面にジャンプした人食いサメを思わせた。ぎりぎりで直撃をかわしたソロモンだったが、服の端を牙がかすめ、身体がぐるんっと回転した。接触点で火花が四散する。


ソロモンは動じず、はじかれた独楽が空中で回るように身をひるがえし、安定を取り戻し、鮮やかに着地した。


霧の中から、水牛よりも巨大な影が四つ、ゆらりと身を揺らしながら姿を現した。氷山が接近してくるような異様な迫力だ。なのに、音がまったくしない。信じられないほどの巨躯の犬たちが、いつの間にかソロモンを取り囲んでいたのだ。脚をとめ、冷たい緑色に光る目で見下ろしてくる。


「……魔犬ガルムの仔たち!? さすがアリサ、前言撤回です。じつに容赦なく、ときめかせてくれます」


咬み裂かれたアカデミックガウンの袖をふり、ソロモンが獣たちに向き直り、嬉しそうに嗤う。


「なるほど黄金蟲でなく、こちらが本命ですか。これは私も手こずります。この私に殺気を悟らせず包囲網を敷くとはね。しかし、どうせなら五匹すべてでかかってくればよいものを……マームガルムが見当たりませんが、どこに行ったのです?」


ソロモンの問いに答えるかのように、白い一匹がずいと前に進み、咥えていたものを、ソロモンに見せつけるように落とした。ソロモンの表情から余裕の笑みが消えた。


地面に転がったのは、エリカの花の一房だったからだ。


「……貴様ら……!!」


ソロモンの形相が変わりかけたが、自分がエリカに渡したものとは違う花と気づき、ほっと息をついた。花を口から落とした魔犬が、巨大な前肢で花を踏みにじった。白い魔犬は、じっとソロモンの様子をうかがう。ソロモンは苦笑した。


「……余計な事をすれば、エリカを殺すというメッセージですか。……このソロモンを花ひとつで脅すとはね。やはりアリサはおそろしい。最初からすべて彼女の掌の上だったというわけですか。わかりました、今回は静観するとしましょう。しかし、ガルムの仔たちまで動かして、私を足止めとは、アリサは何をする気なのです?」


魔犬のうち、ひときわ大きな黒い奴が、にたあっと牙をむきだし、邪悪な嗤いを浮かべた。


いぶかしげな顔をしたソロモンの目がかっと見開かれた。ばっと天を仰ぐ。彼の目は霧を突き抜け、雲をこえ、輝く星空を見た。


「……凶星たちが動く。まさか、七妖衆……が三人!? いえ四人!? それに破滅の魔女……!? あの呪われた宝石まで解き放ったのですか……!?」


ソロモンが愕然して呟く。驚きのあまり鼻眼鏡がずれ落ちかけた。


「試練にしてもやりすぎです、アリサ。スカーレットを殺す気ですか!? いや、もし万が一勝利できても、スカーレットとハイドランジア王家が完全に敵対することになる。なんという残酷なことを考えるのです……!! これはさすがに見過ごすわけには……!!」


踏み出しかけたソロモンの行く手に、四匹のガルムの仔たちが立ち塞がる。

緑の燐火の瞳が、一斉に変化し、まっかに輝く。


「『血の贖い』……!! マームガルムだけでなく、こいつらまで!? いつの間に習得をさせた!? 次から次にやってくれますね、アリサ……!!」


ソロモンは嗤うが、わずかな焦りは押し隠せない。


いかにソロモンといえど、「血の贖い」で身体能力がブーストされたガルムの仔たち四匹を瞬時に撃破するのは不可能だ。それにガルムの仔たちは遠く離れていても兄弟同士で意志を通じ合う。開戦すれば、ここにいない残る一匹のマールガルムが、確実にエリカの命を奪うだろう。


そしてガルムの仔たちは、そんなソロモンの葛藤を正確に読んでいた。

だから、最初の足止めの一撃以外、ソロモンに手を出してこないのだ。父親譲りの狡猾さをもつ彼らは、勝敗が不確かな戦いより、任務の遂行を優先する。


ソロモンは歯軋りし、そして諦めたように殺気をおさめた。


その気配を察し、ガルムの仔たちは包囲を解き、くるりと後ろを向くと、霧の中に再び姿を消した。だが、遠巻きの監視は続けており、ソロモンが迂闊に動くと背後から襲いかかってくるのは明らかだった。


ソロモンは再び天を仰ぐ。


「……ここは負けを認めるしかありませんね。けれど、アリサ、すでに運命は偽りのループのわだちをこえ、回り出しているのです。ならば、五人の勇士とスカーレットの絆を甘く見ないことです。天を動くのは凶星だけではない。主星の危機に、守護星は反応せずにはいられない」


ソロモンの目ははるか星空の運行を追う。


「……やはり運命にひかれ、駆けつけましたか。セラフィ・オランジュ。加護の力が発動しはじめている。スカーレットを守るための力……みごとコントロールしてみなさい。それにもう一つの星が……。旧き友たち……スカーレットをまかせましたよ……」


歩き出しかけたソロモンは、しかし、足を止めた。


疑惑が心の中にわきあがったのだ。

「今の破滅の魔女」は危険という以前に、スカーレットにとって最悪の相手だ。彼女の安定を足元から吹き飛ばしかねない。そこが引っかかる。


アリサはたしかに苛烈極まりない。だが、スカーレットを憎むと同時に深く愛している。彼女にとってスカーレットは人生のほぼすべてと言っていい。唯一認めるライバルだ。そのアリサが理由もなく、スカーレットを絶対絶命の罠に追い込むだろうか。こんな中途半端な舞台のままで……。


「……ありえませんね、あのアリサが……これは、おかしい」


ソロモンは考え込んだ。


そもそもアリサの目的が、スカーレットを倒すことだけなら、「108回」のループでも早期に決着がついていた。「五人の勇士」という手足をもぎとられたスカーレット単体では、アリサととても勝負にならない。まして「五人の勇士」がアリサ側については万に一つの勝ち目もない。


「真の歴史」と「108回」の記憶の戻ったとき、ソロモンはアリサの完璧な封じ手に驚かされた。なのに、アリサは「スカーレットの享年」まで決着を引き伸ばしていた。理由は不明だが必ずだ。それだけに今回のアリサの性急な動きは納得がいかなかった。


「……スカーレットにハイドランジアを捨てさせようとしている? 王家と争わせ……いや……違う……他になにか私の気づかない狙いがあるのか……?」


ソロモンは苛立たし気に、指をがりっと噛んだ。


「真の歴史」と「一〇八回」のループのときと違い、力をつけた自負はある。今なら、アリサをのぞけば自分が知りうる限り最強の戦士だった「真の歴史」のブラッドとも渡り合えるだろう。それに加え、自分には数々の特殊能力と知恵、未来の知識まである。


だが、それでも……!!


まだアリサには……異常な天才が長大な時間を貪り、飽くことなくおのれを鍛え上げたあの怪物と渡り合うには手札が足りない。


〝……今回の借りは忘れませんよ、アリサ。あなたは私の心に秘めた花を踏み荒らした。いくら想い人でも許さない。だから、私はとっておきのカードをあなたに隠すことにします。あなたは歴史を歪めすぎた。時の修正者は、じつは私だけではないのですよ。決めました。私はあなたに内緒で彼女に手を貸すことにします〟


「それに私は恋する乙女の味方ですしねえ。告白もできず死んでいった切ない悲恋、今度こそ花開かせてさしあげますよ」


……ねえ、フローラ。


ソロモンはそっと胸のうちで呼びかけた。


            ◇


アリサはローゼンタール伯爵夫人邸の二階の一室で、夜の新月を眺めていた。

大きな背もたれの椅子にちょこんと腰かけ、届かない足をぶらぶらさせていた。我が家のように堂々とくつろぎきっている。四才ほどの見知らぬ幼女が屋敷内をうろついているのに、誰一人咎めるものも、気づくものもない。異常極まりないが、アリサがその気になれば、まったくたやすいことだった。今のアリサにはもっともっと大きなことができる。


瞳の色と同じブルーのケープつきのドレスに、大きな腰のリボンの姿は、人形のように愛らしい。わずかな月明かりの下、みごとな金髪は天使を思わすように輝く。その顔立ちは薄闇の中でさえ誰もが見惚れるほどかわいらしい。こんな女の子が自分の娘ならばと夢見ない母親はいないだろう。だが、碧眼は氷壁よりもなお凍てついた色をしていた。


「……あはあっ、お利口さんのソロモンは、私のほんとうの狙いがわからず、さぞやきもきしていることでしょうね。裏でこそこそ動き回るネズミさんにはいい気味よ」


アリサはくすくす笑った。


「さあ、ルビーの奥に隠れている大ネズミも引きずり出してあげる。スカーレットの庇護者きどりの光蝙蝠族も封じてあげたし、ナイトとしては出てこざるをえないでしょう。スカーレットにお友達殺しの汚名を着せたくなければね。役者は袖ではなく、舞台に立たなくてはいけないわ。いつぞやの岬の小城のときと同じで、隠れているつもりでも、私には丸見えよ」


アリサは椅子からとびおり、窓際に歩み寄った。

愉しそうにさしこむ月光に手を伸ばす。


「かくれんぼはもう終わり、次は鬼ごっこをしましょう。そして、最後はみんなで生と死の大舞踏会よ。さあ、次に舞台から退場するかわいそうな役者は誰かしら。この幕間に、私は一足先にダンスを楽しむとするわ。折れそうなあわれなお月様、踊りのお相手願えるかしら」


蒼白いほのかな月光をスポットライトにし、アリサと影法師は口元を三日月につりあげ、くるくると踊る。野外には濃霧がたちこめていく。


さまざまな思惑が交錯する闇の舞踏会がはじまろうとしていた。


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108回殺された悪役令嬢。すべてを思い出したので、乙女はルビーでキセキします。 なまくら @karagarazuka

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