第54話 外伝 廃城の吸血夫人〈後編〉

「ハンナ!! ハンナ!! お願い!!  返事をして!! ハンナ!!」


私は泣きながらハンナの手をすがりつくように包んだ。


「……スカーレット……さま……お怪我は……ごぜえません……か?」


ハンナの声が足元でした。


「ハンナのおかげで、私は無事よ!! ハンナは……」


叫びかけ、私は言葉に詰まった。


ハンナが無事であるはずがない。

ハンナは私をかばい、刃の山のようなシャンデリアの直撃を受けた。


ハンナは私の問いには答えず、かすかに私の手を握り返してくれた。

突き出たハンナの繊手は白いユリの花に見えた。


「ハンナ……!! 待ってて!! 今、出してあげるから……!!」


ハンナを押さえつけている巨大なシャンデリアは、落下の衝撃であちこちが歪み、ちぎれかけていた。私は突き出たハンナの手のすぐ横の、シャンデリアの腕木を力まかせにもぎ取った。鈴なりの蝋燭の受け皿の山が、一部ごっそりはずれた。


下からハンナの蒼白な顔があらわれた。

ハンナは虚ろな目をしていたが、口元に満足そうな笑みを浮かべていた。


「……あたし、礼拝堂、で……神様にお祈りしただ……。あたしの、一番、ほしかったものを、くれた人を……スカーレット様を、守ってくださいって……」


そして、ハンナは天使のようにほほえんだ。


「……神様、ありがとうごぜえます……あたしの、願いをかなえて……くださって……」


ハンナの目から一筋の涙がこぼれた。


「……ありがとう……スカーレット、さま……あたしの、お友達になって、くれ……て……」


「ハンナ……」


その小さな呟きに、私は胸を激しくつかれた。


ハンナの先ほどの礼拝堂での祈りは、私のためを思ってだったのだ。

会ったばかりのこの私を……。


目の前が涙でよく見えなくなった。

私は自分を奮い立たせた。

涙を腕でぬぐい立ちあがる。


なにやってんの!! スカーレット!! 

涙、とまって!! 邪魔しないで!! 

私はハンナを今から助けなきゃいけないんだから……!!


嗚咽を必死にこらえ、私はシャンデリアをどかそうとした。

だけど、シャンデリアは重く、そして床に食いこんでいた。

全身の力をふりしぼっても、数ミリしか上がらない。

私ひとりの力ではこれ以上は無理だ。

静かにハンナの血の赤が、床に広がっていく。

私の足元を濡らす。

私は、腰を抜かしたまま呆然としているエリザベータに怒鳴った。


「エリザベータ!!  ハンナはあんたも助けてくれたのよ!! 力を貸して!!」


だが、エリザベータはハンナの忠義に罵声でこたえた。


「ハンナ!! この裏切り者が!! おまえがこの娘を城内に手引きしたのか!! 化物は化物にふさわしく、串刺しになったまま死んでしまえ!!」


激したせいで力が戻ったのか、エリザベータは立ち上がると、指をつきつけてハンナを糾弾した。


私は目の前が怒りでまっかになった。


「……あんたは……何を言ってるの……!? ハンナは……あんたに拾ってもらって、感謝しているって……そう嬉しそうに語ってたのよ……!!」


怒りで口がうまく回らない。


エリザベータは鼻で笑った。


「ふん……わらわがハンナを雇ったのはな。そいつの化物顔が、村中に忌嫌われていたからじゃ。都合がよかったからよ。たとえ生贄の儀式のことを告げ口しても、化物の言うことなど誰も本気にせぬからの。おまえが何をしていたか、わらわが知らぬとでも思うたか」


「そんな……あたしは、ずっと……奥様が、あたしに、同情してくれてと……」


弱弱しく呻いたハンナに、エリザベータは、残酷な衝撃の事実を言い放った。


「化物に同情? なんと滑稽な。本当におまえは道化じゃの。ひとつ、いいことを教えてやろう。おまえのな、父親と母親をたわむれに馬車で轢き殺し、おまえの顔を潰してやったのは、わらわじゃ」


ハンナの表情が凍りついた。

それから、いやいやするように、かぶりを振り、そして泣き笑いし、涙をぽろぽろ零した。


「……ああ……あたし……あたし……馬鹿だ……ごめんよ……おっ父ぅ……おっ母ぁ……」


胸がえぐられるようなハンナの悲痛な泣き声を、私はとても聞いていられなかった。


エリザベータは、ハンナに追い討ちをかけるように、傲慢に高笑いした。


「……ほほ……そのとおり。おまえは馬鹿な化物よ。見ものであったぞ。おまえが親の仇とも知らず、犬のように媚び、わらわに尻尾を振るのは。いや、城の番犬どものほうが、おまえよりずっと賢いのお……ほほほ……ひっ……!?」


勝ち誇ったエリザベータの顔が引きつった。

私の投げつけたナイフが、エリザベータの頬をかすめたのだ。

背後の壁に突き立ち、びいいんっと揺れる。


「笑うな。おまえごときが、ハンナを……私の友達を侮辱するな」


私の声は、自分でもぞっとするほど冷たかった。


そして今、私はエリザベータを処刑した。

エリザベータはもう助からない。


「……目が光るだと……貴様、何者だ……」


エリザベータが息をのんだ。


知っている。私は本気で怒ると、目がルビーのように紅く発光する。

亡くなったお父様もそうだった。

そうなると攻撃抑制がはじけ飛んでしまう。

どんな残酷な手にも躊躇いがなくなる。

私の心の中にひそむ悪魔だ。

できることなら出したくなかった。


……だけど、こいつだけは許せない。

ハンナの優しさを踏みにじり、笑いものにしたこの女だけは。


天がこの女を裁かないなら、。私が地獄に叩き落とす。


……わかっている。ハンナがそんな報復を望まない子だというのは。


だから、これは正義ではない。

愚かな私がただ怒りにまかせ、エリザベータを私刑にしただけだ。

エゴむきだしで、他人の人生を踏みにじったエリザベータとなんら変わらない。

いつか私にも天罰がくだるだろう。


「私が何者か、知ってどうするの。あんたはもう死ぬのに」


「おのれ、小娘が、偉そうに……」


頬を傷つけられ、激昂したエリザベータの膝ががくりと落ちた。

震え出した自分の指先を呆然と見つめる。


「……な……身体が……しびれ……なにをした……」


「『毒婦の頭巾』って毒草を知ってる? 今の刃に塗ってあったの」


私はエリザベータにだけ聞こえるように静かに答えた。


「……ひっ……!!」


エリザベータがぽかんとした顔をしたあと、悲鳴をあげた。


「毒婦の頭巾」は、婦人が頭巾をかぶったような形の花をつける草だ。非常に希少であることで有名だが、それ以上に名を轟かすのがその毒性だ。花、茎、葉、根、すべてが毒だ。植物毒に耐性のある草食動物でさえ、誤食すれば死亡する。特にある時期の新月に採取したものは、凶悪無比であり、その根から抽出した猛毒は、古来より暗殺に使用されてきた。解毒法はいまだ発見されていない。


「……もう、あんたは助からない。だけど、かすっただけだから、すぐには死ねない。のたうちのまわってひどい死に方をすることになる。あんたは犯した罪を後悔する人間じゃない。だけど、せめてハンナの万分の一の苦しみぐらいは味わって死になさい」


「い、嫌じゃ……!! わらわは世界の中心じゃ。主役じゃ。この世界は、わらわを中心に回っているはず……わらわに奉仕するために存在するはず……!! そのわらわが何故こんな目に……!!」


見苦しくわめきたてるエリザベータに、私は冷たく告げた。


「あんたは世界の主役なんかじゃない。あんたのために泣いてくれる友達がいる? 泣いてあげたい友達がいる? いないでしょう。それがあんたの価値よ。つまらないひとりぼっちの女。それなのに世界の主役? 笑わせないで」


いや、エリザベータのために泣いてくれる友は、たった一人いたのだ。だが、エリザベータはその価値に気づかなかった。救いになったかもしれないかぼそい糸を、自分で断ち切った。だから、


「……あんたにふさわしい地獄に堕ちなさい」


「……が……ご……!! ……げ……」


泡をふいて痙攣しだしたエリザベータに、私は背を向けた。

ハンナから見えないよう、ひそかに自分の位置を変えた。


こんな人でなしの断末魔でも、心優しいハンナが見たら、きっと心を痛めるからだ。

エリザベータは、たぶん苦しい、助けてくれと言ってるのだろうが、もうまともに声が出せない。ハンナに声が届かないのは幸いだった。紫の舌をつきだした苦悶の表情は、ガマガエルそっくりだ。もう美しさの欠片もない。


〝……だけど、エリザベータ、覚悟なさい。地獄はこれからなのよ〟


私は心のなかで小さく呟いた。


「毒婦の頭巾」の初期症状はまだ楽だ。呼吸困難を起こすだけだ。ここから十分後の終焉にむけて激化していく。末期の苦痛は、初期の百倍ともいわれる。最期は、全身の穴という穴から血を噴き出して惨死する。


私もエリザベータも、ハンナのような善人ではない。きっと地獄行きだ。ならば、せめて悪党らしく、どんな死も受け入れる覚悟ぐらいすべきだ。


「……ハンナ……」


私はハンナの手を両手で包んだ。


まだ生きている。

でも、もう助からない。

死相が表れている。

たとえシャンデリアをどかせても、結果は同じだろう。

何度も人の死を見てきた、私の経験が恨めしい。

私がハンナにしてあげられることはあまりに少なかった。


「……ハンナ……楽に……してあげようか……?」


断腸の思いで私は声をかけた。


死は、どんな苦痛にも効く最期の特効薬だ。

かすめただけのエリザベータと違い、「毒婦の頭巾」の猛毒の刃は、まともに切りつければ即死ものだ。私の使う毒は通常のそれの数倍の強さだからだ。一瞬でハンナを苦しみから解放することができる。


私が……私が覚悟を決めさえすれば……。


ハンナは苦労して顔をあげ、私を見つめた。

そして慈母のように微笑んだ。


「……スカーレットさま……泣かないで……。あたしなんかのために、もう苦しまないでくだせえ……。その優しさだけで、あたしは、じゅうぶんですだ……」


私は平静を装っていたつもりで、ぼろぼろ泣いていた。

ハンナは私の心の葛藤を見抜き、そして優しく私の介錯を拒んだ。


「……それに……あたしは、今、とてもしあわせですだ……だから、どうか笑顔で送ってくだせえ……あたしの、大好きな……あな……た……様の……」


ハンナの声が途切れがちになった。


私はハンナが別れを告げようとしていることを知った。


私はうなずき、苦労して笑みを押し上げた。

きっと泣きべそでくしゃくしゃのひどい笑顔だったろう。だが、ハンナはこれ以上ないほどしあわせそうに微笑み返してくれた。


「……ああ、あたし、こんな、しあわせでいいだか……こんな罪深いあたしが……」


私はたまらなくなって、ハンナの手を、祈るように自分の額に押しつけた。


「ハンナ!! あなたは罪なんかなに一つ犯していない。いえ、もしそうでも……たとえ神様が許さなくても……!! 私があなたを許すよ。誰にも……文句なんか言わせるもんか……!!」


嗚咽まじりの私の言葉に、ハンナは光がこぼれるように笑った。


「……嬉しい……あたし、楽になれただ。……もう……なにも、怖くない……やっと、おっ父と……おっ母のところに……いける。……向こうで……いっぱい……話を……」


その一瞬、暗い城内を、秋の爽やかな風が吹き抜けた気がした。


その光の景色は幻だったのだろうか。


黄金色に実った麦穂の中、駆けていくハンナが見えた。

その顔にもう傷はなかった。

私があげたショールを誇らしげに肩に羽織っている。

走る先に、農夫姿の夫婦が見えた。

ハンナによく似ている優しい笑顔で、両手を広げハンナを待っている。ハンナは息をはずませ、その胸にとびこんだ。


「……聞いて!! おっ父!! おっ母!! あたし、お友達ができただ!!  美人で、優しくって、世界一自慢のあたしのお友達だ!! ひとりぼっちのあたしが、ずっと願ってた夢がかなった……。あたしを化物なんて絶対呼ばねえ。鈴みてえな声で、何度もハンナって笑いかけてくれる。なあ、おっ父、おっ母、人って嬉しくっても、涙があふれるんだなあ。あたし、すっかり忘れてただ……」


嬉しそうに一気に話すハンナに、母親は、「よかったねえ」と何度もうなずき、父親はハンナを大きな手で軽々と抱きあげ、たくましい肩にのせて笑った。


ハンナの家族は笑い合いながら、光とともに消えた。


あとには、暗い元の大広間の光景と、私の手を、ぎゅっと握るハンナの手のぬくもりが残った。無惨な現実が目の前にあった。床についた私の両膝はハンナの血で濡れていた。


「……スカーレット……さま……あたしの……おとも……だち……」


もう欠片もない命を振り絞り、ハンナは震える唇で、私にそう伝えてくれた。


「そうよ、ハンナ。私達はお友達よ。これからも……ずっと。だから……!」


涙声でこたえた私は言葉に詰まった。

嗚咽で、言葉がこれ以上出てこなかった。


ハンナはもう思い残したことはないというふうに、満足そうにほほえんだ。


「……うれ……し……い……あたし、……生まれて……きて……よかっ……」


ハンナはぎゅっと私の手を握り、そして、瞳を閉じた。

その瞼が二度と開かれることはなかった。

力を失ったハンナの手が、やっくりと私の指の間をすり抜け、血だまりの中に落ちた。


「……ハンナ……!? ……ハンナ……!! ……ハン……ナ……!」


いくら呼びかけても、ハンナからはもう返事はかえってこない。手を取っても、もう握り返すことはなかった。


「…………ハンナ……。うれしい……なんて、言わないで……! ……だって……私……! ……あなたに、まだ……何もしてあげられてないじゃない……!!」


体温が失われていくハンナの手を握りしめ、私は慟哭した。


神様、これが心正しき者への仕打ちですか。

だとしたら、あんまりです。


エリザベータに人生をむちゃくちゃにされ、騙されて、他人から化物扱いされ、人を救おうした優しさまでも拒絶されて……!! それでもハンナは優しさを貫いた。こんな無惨な死にかたをしていい子じゃなかった。


わずかな間の出会いだったけど、私は優しいハンナが大好きだった。


これから思い出をいっぱいつくりたかった。

一緒にお菓子をつくって、刺繍をして、花輪をつくって、お互いの頭にかぶせあって……。

そんな他愛ない日常さえ、ハンナは経験してこなかったのだ。

しあわせを与えてあげたかった。

もっと笑ってほしかった。

あなたは価値ある人間なのよと、いっぱい伝えたかった。


でも、もう何もかなわない。


結局、私、友達らしいことなんて、何一つしてやれなかった……!!


「……私、ハンナの名前を呼ぶぐらいしかできなかった……!! あなたは、私を助けようと、命まで投げ出してくれたのに……!! ごめんね……!! ごめんなさい……!!」


私は天を仰いで涙を流し、ハンナに謝った。


これじゃ、ハンナがあまりにも報われない。

それなのにハンナは、とても幸せそうな死に顔をしていた。それがよけいに切なかった。


びゅうんっと、私の感傷を引き裂くように、空気が鳴った。

背後の死角から、私めがけて鞭が襲いかかってきた。


「……よくも、わらわの顔を……!! おまえの顔を潰してやる!!」


怨嗟にまみれた金切り声がした。

エリザベータが生きていたのだ。

私は完全に虚をつかれた。

タイミング的には回避は不可能だった。


だが、私の顔にまきつき、ざくろのように爆ぜさせるはずだった鞭の唸りは、私の頭上を通りすぎ、髪の毛を数本切り飛ばすにとどまった。


……その奇襲を私がかわせたのは、偶然にも、ハンナの頬にお別れのキスをしようと、身を屈めたときだったからだ。


標的を見失った鞭の先端は、ハンナを縫いとめたシャンデリアの残骸に激突した。エリザベータはあわてて手元に鞭を引き戻そうしたが、がくんっと鞭は停止し、びいいんっと音をたてて張りつめた。まるで岩礁に引っかかって戻せなくなった釣り糸のようだった。


「……こんな……馬鹿な……!! ……こんな偶然、ありえない……!!」


会心の一撃をかわされただけでなく、鞭まで一瞬で封じられたエリザベータが驚愕の呻きをもらした。


私は見た。エリザベータの鞭に、白いショールがからみつき、シャンデリアごと巻きこんで、鞭を封じているのを。


それは私がハンナに贈ったショールだった。


ハンナの笑顔が見えた気がした。


彼女は死してなお、私を守ってくれたのだ。


「……偶然じゃない。必然よ」


涙をこらえてエリザベータに向き直った私は息をのんだ。


エリザベータの顔半分は紫色に腫れあがっていた。

それだけではない。

白い骨がのぞくほど肉が削がれ、足元に血だまりをつくっていた。

血に染まった食事用のナイフと、どす黒く変色した頬の肉片がテーブルの上にあった。


「毒婦の頭巾」の猛毒が身体にまわりきる前に、自分で被弾箇所を切り離したんだ。


「……見直したよ。エリザベータ。決着をつけよう」


美を至上としていたエリザベータの思わぬ覚悟に、私の胸に暗い悦びが湧いた。

私の大切なハンナを殺した相手が、つまらない小悪党でいいはずがない。

それに胸にぽっかり穴があいたこの喪失の苦しさより、怒りと闘志に身を焦がしているほうがはるかに楽だ。


私はエリザベータを睨みつけ、足を踏み出した。


しかし、隠していた最後の手が通用しなかったエリザベータの心はここまで折れた。


悲鳴をあげると私に背を向けたのだ。


落胆し、とどめの投げナイフを懐から取り出そうとした私は凍りついた。

エリザベータの逃げた先に、アリサがいた。


「……この極上の生贄の血と肌があれば、わらわの顔もきっと元通りに……!!」


けたたましく狂気の笑い声をあげ、いまだ昏睡したままのアリサめがけ、刃物を振りおろそうとする。


「……アリサ!!」


私が投げナイフを投擲しようと腕をひいた瞬間、どどんっと下から衝撃が突き上げ、私の足を十センチほど宙に浮かせた。


「な、なんじゃ!?」


エリザベータも尻もちをつき狼狽している。

城中が不気味に軋みだす。


地震……!? 

いや、揺れは最初の一回だけだった。

なのに、天井や壁のしっくいに亀裂が走りぬけ、轟音が止まらない。ぱらぱらと砂埃と破片が落下してくる。巨大な柱がたわみ、歴代の城主の肖像画が、壮麗な調度品が、盛大な音をたて、次々に床に叩きつけられていく。いや、床そのものが傾きだしていた。いまやまともに立っているのも困難だ。


何がはじまったか悟り、私は蒼白になったが、エリザベータの狼狽は私以上だった。

もはやアリサにかまっているどころではなかった。


「馬鹿な!! こんなはずがない!! わらわのヴェンテ城が崩壊するなど……!!」


悲鳴をあげて右往左往する。

難攻不落を誇ったヴェンテ城が、罪の重さに耐えかねたように自壊していく。

エリザベータが好き放題できた箱庭そのものが消滅するのだ。

彼女にとっては世界の終わりに等しいだろう。


だが、それを見て、ざまあみろと笑う余裕は私になかった。


「……アリサ!!」


このままでは城の崩落にまきこまれてオダブツだ。


私がアリサに駆け寄ろうとしたそのとき、大広間の天井が抜けた。落雷のような轟音と土煙、石と尖った木片がどどおっと降りそそぎ、私とアリサの間をさえぎった。この殺意に満ちた大質量の瀑布の前では、人間などアリに等しい。かすっただけなのに、私の体は、軽々と独楽のようにはじきとばされ、宙に舞った。視界がぐるんぐるん回った。


〝……アリサ……!! ……ハンナ……!!〟


崩落で視界が埋めつくされる中、二人の姿をなんとか見つけ出そうとした私の意識は、そのまま遠心力でふっとばされるように身体から離れ、そして闇に沈んだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「……馬鹿な、なんじゃ、これは……時が止まっている……?」


腰を抜かしたまま、エリザベータは呆然と崩れかけた天井を見た。

エリザベータを圧し潰すはずの頭上の膨大な落下物が、そのまま宙で動きをやめていた。


「あはあっ、時間が停止したわけではないわ。私の〝幽幻〟の世界へようこそ。エリザベータ」


金髪の美少女が黒いリボンをなびかせて嘲り笑う。


「……なにを驚いているのかしら。人だけでなく世界を欺けるほど武を極めれば、こういうことも可能になるの。つまらない手品よ」


事もなげに言い放たれ、エリザベータは息をのんだ。


それは確かに、さっきまで、皿の上にぶざまに失神していたはずの、アリサというまぬけな少女だった。


だが、違う。

顔は同じでもまるで別人だ。


もう全裸ではなく、漆黒のドレスを全身にまとっていった。残酷な闇夜が、服となってまとわりついているように見えた。そして、大貴族のエリザベータが、国王にさえ感じたことのない凍てつくような〝格〟は、その場に今すぐ平伏したいほど圧倒的だった。


いや、これは死そのものだ。

エリザベータが子供の頃、狼の群れに囲まれた絶望。

あれを数百倍、数千倍にしたような濃密さ。

すべての生けるものにとっての絶対勝者。

決して抗うことのかなわない冥王だ。

そして、その予感はまったく正しかった。


「……エリザベータ。ハンナの性格なら、あなたに自分の血を差し出して、娘達の身代わりになろうと懇願したはずよねえ。あなたはなんて答えたのかしら」


とても嘘をつける雰囲気ではなかった。


「あ、あんな化物じみた顔の娘の血など、使えるものか……!! 思いあがるなと、全身を鞭うって……ひっ……!?」


熱でうなされるように自白したエリザベータが凍りついた。


アリサの雰囲気が変わった。

それまでの逆らえないが鷹揚だった気配が、抜き身の刃よりもなお鋭くなって立ち昇る。


「……忠臣の価値のわからぬ愚か者が。おまえに城主たる資格はない」


凄まじい力のうねりが発生した。

アリサはそれを無造作に片手で壁に叩きつけた。


「偉大なヴェンテ城よ。愚かな城主の箱庭の役目から解放してあげる。忠臣の墓碑として眠るほうが、おまえも幸せでしょう」


膨大な量の瓦礫と塵芥が、ぽっかり穴が開いたように消え失せた。

ぼろぼろになった衣装をまとわりつかせた醜いミイラがそこに浮かんでいた。


目を丸くしたエリザベータは、それがなにか認識し、耳をつんざく悲鳴をあげた。


「……あはあっ、喜んでもらえて嬉しいわ。あなたにふさわしいプレゼントでしょう? 思い出したかしら。あなたは罰として部屋に閉じ込められ、醜く干からびて死んだの。自分の正しい姿を、しっかり目に焼きつけなさいな。ああ、それと紹介するわ。あなたの他にも〝幽幻〟の世界に、すてきなお客様達を招待してあげているの」


心地よく耳を傾けながら、アリサは冷酷な笑みを浮かべた。


「出てらっしゃい。あなた達。思う存分、旧交を温めるといいわ」


崩れかけた壁や床がぼこぼこと波うち、血まみれの娘達が姿を現わした。五体満足なものなど一人もいない。目を覆いたくなるような惨状だ。凄まじい恨みを眼窩にたぎらせ、よたよたとエリザベータを包囲する。それはエリザベータが美容と称して犠牲にし、城や敷地に埋めた娘達だった。


娘達を見るアリサの目はエリザベータに向けるものと違い、穏やかでさえあった。


「あなた達は、この私に救いを求めた。私を心から求めるなら、その願いを私は決して裏切らないわ。ふふ、ずいぶん熱い歓迎の抱擁になりそうだこと。全員分のあいさつが終わるまで、エリザベータ、あなたの指一本でも残っていればいいのだけれど」


そして、「かわいそうにねえ。そういえば、死者が死ねるはずがなかったわ。みんなの気が済むまで、永遠にそこで遊んでもらっていなさいな」と蔑んだように呟くと、アリサは背を向け立ち去った。


娘達の包囲の輪が縮まり、がりっぼりっとおそろしい音が響きだした。助けを求めるように必死に泳いでいたエリザベータの手も、泣き叫ぶ声ものみこんで、血の饗宴はいつ果てることなく続いた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「スカーレットさまあ!! 起きてよ、スカーレットさまあ……」


アリサの声がする。

私は返事しようとしたが、寝起きしたばかりで、身体に力が入らない。

ちょっぴり低血圧なのだ。


「うーん、起きないねえ。もしかして死にかけてる? 大変、アリサ、未亡人になっちゃう。悲しいよお。おーい、おいおい……!! パパが、アリサとおなかのスカ夫を置いて旅立っちゃうよお。……よし、じんこー呼吸しなきゃ」


なにがスカ夫だ。

変な名前の子供を捏造するな。


もうどこから突っこめばいいかわからない一人芝居をひとしきりうったあと、アリサが私に唇をかぶせてきた。感心なことに鼻をつまんでいる。


へえ、見直したよ。

ちゃんと作法にのっとって……こら!! 舌を入れるな!! 

そんな人口呼吸の作法はない!! 


やっぱりアリサはアリサなのだった。


……んっ!? ちょっ……!? や、やめ……! 


ぞわっと快美な電流が走り、私は恐怖した。


そういえばアリサとのキスのあと、腰がくだけて床にへたりこんでた貴族が何人もいた。百戦錬磨のダンディでもだ。あほ娘だからと好き勝手させてたら、えらいことになる。


「……アリサ!! あんたねえ!!」


遅ればせながら身体のエンジンがかかった私は、あわててアリサを押しのけた。

同時にバネがはじける勢いで記憶が戻ってくる。


ハンナは……!? それにエリザベータ!!


だが、私のあわただしい問いに、アリサはきょとんと首をかしげた。


「だれ? その人たち。スカーレットさまは霧の中で迷ったアリサを助けに来てくれて、転んで気を失ってたんだよ。夢でも見てたんじゃないかなあ」


「そんな……」


私は呆然とした。


あの生々しいできごとが夢?

ハンナの笑顔も、彼女を失った悲しみも、まだこんなにも胸に残っているのに? 


だが、全裸にされたはずのアリサはいつもの服を着ているし、背後のウェンテ城も、威容をたもっているとはいえ、苔むし、石垣が崩れ、木の部分は腐り果てていた。霧が晴れた近くで見ると、人が生活していたのははるか前だと明らかだった。


やはりアリサの言う通り夢だったのだろうか……。


「近くで見るとこーんなに大きかったんだね。このお城」


アリサが額に手をかざし、背伸びをしてあたりを見回し、感心している。

私達はいつの間にか、城跡の中庭に入りこんでいたのだ。


「アリサが将来スカーレットさまと住むのは、もっと小さなお家がいいなあ。アリサがエッチしたくなったら、どこからでもすぐにベッドに行けるように……おや?」


おぞましい未来絵図を語っていたアリサが目を見開いた。


「ねえねえ、スカーレットさま、あの四角くてでっかい建物ってなに?」


「あれは天守よ。お城の中心。大広間や、城によっては領主一家の部屋があるの。攻め込まれたときの、最後の砦でもあるね」


ハイドランジア王家が、貴族が個人の大規模軍隊を所有するのを禁止してから、もう長い年月がたっている。今の貴族の住居は、城ではなく邸だ。防御でなく、便利さと華美を追求している。あほ娘のアリサが古い城の構造を知らないのも無理はない。


「ふうーん。じゃあ、あそこが崩れるから、もうこのお城は終わりなんだね」


「え?」


アリサがそう言った途端、天守がぐにゃりとひしゃげた。

見えない巨人に乱暴に折り畳まれたように、塵芥を噴き上げながら崩落した。

まるで砂の城が崩れるようなあっけなさだったが、ごしゃっ、ぐしゃっと、ばああっんと、私達の足元まではねあげる落石の乱打音が、とてつもない巨大建築物の最期だと告げていた。


「……な、な、な……!! !? ……ア、アリサ、なにしてるの?」


驚愕で口をぱくぱくさせる私をよそに、アリサはしゃがみこんで、ナイフを取り出していた。かたわらの石になにかを刻もうとしていた手をとめ、笑顔で振り向く。


「……んんっ、『スカーレット参上』って、今日の記念に書いておいてあげようと思って」


「ちょっと、やめてよね!! 私がお城を破壊した愉快犯みたいじゃないの!!」


誰だ!! 

こんなキチガイに刃物を持たせたのは!?


仰天してアリサからナイフをとりあげた私は、はっとなり立ちすくんだ。


その石には見覚えのあるショールがかぶさっていた。

私がハンナに贈ったものだ。

城跡を渡る風がショールをはためかせる。

石に、「ハンナ」という文字が彫られているのが見えた。


「ハンナ……」


私はひざまずき、消えかけたその文字を、震える手でなでた。


「……アリサお嬢様!! スカーレット様!! ここにおられましたか。よかった、探しましたぞ」


私達を見つけたフォンティーヌ家の従者が、ほっとした顔で駆け寄ってくる。


「おお、それは『ハンナの石』ですな」


彼は敬意を示すように頭を下げた。


このあたりの出身者である彼は、この城の故事にくわしかった。


二百年前、ヴェンテ城で娘たちを殺し続けたエリザベータ。


その悪行が露呈したのは、城からひとりの娘が逃げるのに成功したからだった。


その脱出を手引きしたのが、城勤めのハンナだった。


明らかになったあまりに残虐な城での所業は、大貴族のエリザベータでさえとても見逃してもらえるものではなかった。彼女は生きたまま自室に閉じ込められ、決して脱出できぬようその扉と窓は塗り潰された。そして城勤めの人間たちは、すべて共犯とみなされ、裁判もなしに、この城の中庭に引き出され、火刑に処された。


「ほら、このあたりずっとの土が赤茶けているでしょう。二百年たってもあとが残るほどの火力で、たくさんの人達が焼かれたんです」


理不尽ですが、と彼はため息をついた。


「……まあ、貴族の権力が絶対の時代で、逆らえば家族ともども皆殺しにされたから、使用人はエリザベータに従うしかなかったんでしょう……。みんな、わかってたことです。ただ、権力者の領主を処刑した以上、下の者も連座させないと、示しがつかなかった」


私は好意的だった厨房のみんなを思い出した。

彼らも本当はずっと娘達を救いたいと願っていたのだろう。

だから、あんな形で私に力を貸してくれたのだ。


「ただハンナに関しては……『城に行ってはいけない』としつこいくらい警告していたのを、村人達みんなが知っていた。脱出できた娘も、ハンナが他の娘を必死に逃がそうと努力していたと証言した。だから、ハンナだけは無罪になるはずだったんです。でも、彼女は……」


話が進むにつれ、私は嗚咽をこらえられなくなった。


ハンナは罪を償うと言って、自ら死を選んだのだ。

役人がいくら翻意させようとしても、助けられた娘が泣いて引き留めても、頑として譲らなかった。

ハンナは炎に焼かれて息絶える瞬間まで、娘を失くした親達に、助けてあげられなくてごめんなさい、と謝り続けていたらしい。


肉親を殺された怒りはすさまじい。怒りの矛先を見つけたら、まずおさまることはない。だが、そのときばかりは、遺族たちも、しんと水をうったように静まり返っていた。涙を流して祈りをささげる者までいた。


自分達が虐待し、言葉に耳も貸さなかったのに、聖女のような生きざまを貫いたハンナに心打たれた彼らは、役人に願い出て、ハンナの墓碑として石に名前を刻んだ。きちんとした墓石は、ハンナに拒まれたためにつくれなかったのだ。


私は万感の想いをこめ、その石を抱きしめた。


「ハンナ……ほんとにお人好しなんだから。でも、とってもあなたらしい……」


私の見たのは幻だったかもしれない。

だけど、彼女は確かにここにいたのだ。

私が出会ったままのハンナとして。


「ずっと忘れないよ。ハンナ。まだ夜は寒くなるから、これは掛けていくね」


私は石に別れのキスをし、ショールを巻きなおして立ち上がった。


「ばいばい。どんなに離れても、私、ずっとあなたとの友情は忘れない。だから、もう行くね。ずっといると別れがつらくなるから……」


私はアリサ達をうながして歩き出した。

もう後ろは振り返らなかった。


〝……スカーレットさま〟


ハンナのはにかんだ笑顔が見えた気がした。


そうだ。

瞼を閉じればいつでもハンナの顔は思い出せる。

だって、ハンナの心は、きっと私に寄り添ってくれている。

だから、これは別れじゃない。

ずっと私達は一緒だ。

振り返る必要はない。


私は風に髪をかきあげ、目を細めた。


「……それにしても、妙にすーすーする気が。なんでだろう……」


違和感に首をかしげた私は、スカートの裂けめから手を入れ、中の感触をたしかめ、ぴしっと固まった。……ない!! いつも私の肌に寄り添って、包んでくれているはずのものが……ない……!!


「ほえ? どうしたの? スカーレットさま」


アリサがこてんっと首をかしげ、問いかける。

いつもの黒い紐で束ねたツインテールが揺れる。

そして、頭には変わった形のリボンが……。


「リ、リボンじゃない……!? それ、私の下着じゃないの!!」


「スカーレットさまが気絶しているとき、呼吸が楽になるよう脱がしてあげました。えっへん、アリサってえらい? お礼にキスされてもいいよ」


あほ娘は自慢げにでっかい胸をそらした。


誰がするか!! 

どこの世界に息を楽にさせようとパンツを脱がす介護法があるのよ!!


「返しなさい!! アリサ!! ……うわっ、早っ……!?」


私がアリサの頭から下着を引ったくろうとしたときには、アリサはすでにはるか丘の下まで逃走していた。脱兎というよりハヤブサ並みの高速離脱だった。今、残像見えてなかった!? むちゃくちゃだ。


さすがヴェンテ城の天守の崩壊を知っても、「まあ、アリサお嬢様の行くところ、何がおきても……」という言葉だけで、フォンティーヌ家の従者が済ませてしまうだけのことはある。


ああっ!! アリサのやつ、もう馬車までたどり着いてるし!!

うわあっ!! 私の下着を自慢げに開いて、戦利品としてみんなに見せびらかしてやがる!!


ハンナが、瞼の裏のハンナが、頬を赤らめて苦笑してる!!


私は風でスカートがめくれあがらないよう、必死に両手でおさえつけ、ペンギンのようなよちよち歩きで丘を降り急いだ。


「こんのあほ娘!! そこを動くな!!」


「んんー、キスしてくれるなら待っててあげてもいいよお」


「誰がするか!! ゲンコツならくれてやる!!」


「じゃあ、逃―げようっと。スカ鬼さん、こちら。手の鳴るほうへ」


「誰がスカ鬼よ!! 変な名前つけるな!!」


霧の晴れたヴェンテ城のある丘は、はっとするほど美しい緑を見せていた。だが、私がその光景を心穏やかに鑑賞するのは、まだまだ先のことになりそうだった。 


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